<東照公産湯の井戸>
<説明板>
東照公つまり徳川家康が誕生した時、こちらの井戸で汲んだ水を産湯として使用したということですね。場所は岡崎公園の西側。伊賀川沿いの低いところにあります。
<井戸の水>
産湯の井戸は柵で囲まれたうえに閉じられていますが、こちらの水場で井戸から汲み上げた水に触れることができます。開運スポットとしても人気です。のちに大出世して天下泰平の世を築く人物ですからね。
その当時、家康の父は岡崎城主。そして家康本人は城内で誕生した。
どうしても恵まれた環境を想像してしまいますね。ただ、当時の松平家は三河の小豪族に過ぎません。周辺の大きな勢力に翻弄され続け、その道のりは苦難の連続でした。
<竹千代像>
家康の幼名は竹千代。幼少を過ごした城であることから、公園内では『竹千代』の名をよく目にします。
三河には松平家の分家が多数存在しますが、家康は安祥松平家の出。安祥城を居城としていましたが、家康の祖父の代に岡崎松平家と対立し、結果として岡崎城を手中に収め(途中は大幅に省略)、拠点を岡崎に移しました。この時点で三河をほぼ支配するに至りながらも、祖父は家臣に暗殺されてしまい、その勢力は徐々に衰えます。家康の父は受け継いだ地を守るべく、駿河の今川義元の助けを得る道を選びました。
駿河の今川家
言わずと知れた巨大な勢力ですね。この存在を抜きに若き日の家康は語れません。8歳から19歳の間、家康は今川家の人質として駿府で暮らしました。今川義元より偏諱を受けて元信と名乗り、続いて元康と名乗りました。松平元康です。
<岡崎城>
父の死後、家康の生誕地であるここ岡崎城は今川家に接収されてしまいます。その支配は、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれるまで続きました。今川義元死後の混乱に乗じて、家康は岡崎城への帰還を果たし、今川家から独立します。そして元康の「元」の字も返上しました。
家康がここ岡崎城で生を受けてから19年後のことです
■訪問:東照公産湯の井戸
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]
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