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2023年11月05日

威風堂々の搦め手(金沢城)石川門

兼六園側から金沢城址公園へ向かうと、堂々とした城門が出迎えてくれます。

<石川門>いしかわもん
Kanazawajo-Castle-Gate-Ishikawa-mon.JPG
Kanazawajo-Castle-Ishikawayagura.JPG
立派です。金沢城三御門のひとつ石川門です。最初の画像は入り口の門。次の画像は門に併設されている櫓。名の由来はどなたかの名前かと思いきや、石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっています。

1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建。修理を重ねて現在に至ります。つまり、江戸時代に建てられた門が現存しています。国の重要文化財です。

<枡形門>ますがたもん
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugatamon.JPG
門の型式はいわゆる桝形門です。最初の門(高麗門)を潜れば、待っているのは壁に囲まれた方形の空間、そしてその先は重厚な門(櫓門)。侵入してきた外敵は、あちらこちらから飛び道具で狙われます。

私は外敵ではないので、隅から隅まで見学させて頂きました。

<枡形の内側>
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugata-inside.JPG
あれ、同じ空間で石垣の加工が異なるのかぁ…(左は「打ち込みハギ積み」で正面は「切り込みハギ積み」の石垣です)

<隠し狭間>さま
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugata.JPG
こちらは最初の門の内側です。門の外を鉄砲などで攻撃できるように狭間が設けられています。(有事の時以外は穴は塞がれていて、外からは見えません)

<内部公開中>
Kanazawajo-Ishikawamon-Gate.JPG
え、入って良いの?しかも無料?

私の訪問時は内部も無料公開されていました。ありがたいことです。

<建物内部>
inside-Kanazawajo-Ishikawamon.JPG
Kanazawajo-Ishikawamon-inside.JPG
内部で撮影した画像です。やや暗いため映りが悪く、ご紹介できるのはこの程度。細部は無理ですが、雰囲気は伝わると思います。

<搦手門>からめてもん
Kanazawa-Castle-Gate-Ishikawamon.JPG
さすがは加賀藩主前田家居城の門です。ちなみに、金沢城の三御門とは河北門(かほくもん)と橋爪門、そしてここ石川門になります。

まるで城址公園の玄関口のようですが、金沢城が現役の頃は搦手門、つまり大手門を正面玄関とすると、こちらは裏口にあたる門でした。

<搦め手>
Kanazawa-Castle-Back-Gate.JPG
兼六園側から見た金沢城です。威風堂々の搦め手です。

■訪問:金沢城石川門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/5
・金沢市HP
「文化財・歴史遺産」
>世界遺産> 2金沢城石川門他

https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/2/5002.html
タグ:石川
posted by Isuke at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月03日

いざとなれば砦を築けそうな庭園(金沢市)兼六園

<兼六園>けんろくえん
Kenrokuen-Garden-Kanazawa-Castle.JPG
Kanazawa-sightseeing-spot-Kenrokuen.JPG
koumon-bridge-Kenrokuen.JPG
Kenroku-en-Garden-Kanazawa.JPG
日本三名園のひとつとして名高い兼六園。情報はネットに溢れていますので、城跡ブログらしい目線でまとめさせて頂きます。


これは城に隣接する他の庭園にも言えることですが、優雅な庭園も、万が一の時は防衛施設になることを意識して造られていたという見方ができます。つまり二ノ丸・三ノ丸といった曲輪と同じ役割です。

金沢城は二本の川に挟まれた台地(厳密には段丘)の先端に築かれました。よって周辺とは高低差があります。ただ、台地の続いている側、金沢城の場合は城の南側は、地形上の有利さはありません。よって、何らかの手を加えて補強する必要があります。

<百間堀跡>ひゃっけんぼり
Kenrokuen-Kanazawa-Castle-Gate.JPG
兼六園側から見た金沢城です。手前の低地はもともとあった谷ではなく、台地を断ち切るようにして設けた堀跡です。このように台地を遮断する方法は珍しいことではありませんが、金沢城の場合はスケールが違います。丘伝いに攻め込みやすい南側、つまり城とっては弱い部分を補うため、金沢城で最大の堀が設けられました。

堀の更に南側に位置しているのが兼六園です。始まりは第5代藩主・前田綱紀が築いた蓮池庭(1676年)。既に幕府が大名たちの城の修理を監視している時代ですが、あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。その辺りも考慮した上での補強だったのではないでしょうか。正式な曲輪ではありませんが、管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。

KenrokuenGarden-KanazawaCastle.JPG
起伏に富んだ園内

Kenrokuen-located-in-Kanazawa-City.JPG
天然の川から引き込んだ新鮮な水の流れ

Kenrokuen-Garden.JPG
意識して設けた水のたまり場

Kenrokuen-Kanazawa-Castle.JPG
庭園そのものが高台に位置している

いざとなれば・・・

ということで
城好きによる兼六園のご紹介でした。学術的に認められた見解ではありません。ただ、そういう見方をする人は少なくないという程度に受け止めて頂けると助かります。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:兼六園
[石川県金沢市兼六町]


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タグ:石川
posted by Isuke at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年10月29日

焼失を免れた城門(金沢市)尾山神社東神門

金沢城の西側に位置する尾山神社には、かつての二ノ丸の城門が移設されています。

<尾山神社東神門>
Oyamajinja-East-Gate.JPG
安土桃山時代の様式の唐門。たび重なる火災に悩まされ、多くの建築物が失われた金沢城にあって、これは貴重な遺構です。

<説明板>
Oyamajinja-East-Gate-Explanation-board.JPG
こちらに詳細が記されていますので、ご紹介させて頂きます『』内が原文の転記)

『この神門は、金沢城二ノ丸御殿にあった一間一戸の向唐門と伝えられています。明治三年(一八七〇)頃に卯辰山にある招魂社の神門として移され、昭和三十八年(一九六三)に現在地に移築されました。
一部の細部様式に江戸時代後期の特徴が見られることから、文化六年(一八〇九)の二ノ丸御殿再建時の建立と推測されています。』


二ノ丸御殿とは、城の火災を機に本丸に代わって城の中心となった場所です。加賀百万石の中心ですから、さぞ立派な御殿だったのでしょう。向唐門(むかいからもん)は格式が高いとされる建築様式です。細部の様式から、江戸後期の再建時のものと推測されているとのこと。再建? 二ノ丸御殿は江戸時代を通して二度焼失しているようです。

説明文の残りの部分をご紹介します。

『その一方で、文化五年の二ノ丸御殿の火災の際に、唐門に施された二匹の龍が水を呼び、この門だけが難を逃れ残ったという伝説があります。』

なるほど
龍が火災から城門を守った…

<二匹の龍>
Two-dragons-castle-gate.JPG
向き合う龍

日本において龍神は水を司る神さま
素敵な伝説ですね

■訪問:尾山神社東神門
[石川県金沢市尾山町]11-1


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/10/29


-----------( 追 記 )-----------
東神門まで足を運んだら、一旦階段を下りて通りに出ることをお勧めします。通りはかつての堀跡です。

<堀跡から見上げた景色>
kanazawajouimoricanal.JPG
水堀から金沢城を見上げていることになります。すごい高低差です。

<斜面>
kanazawajouimoricanal-slope.JPG
急勾配を登り切っても石垣が待っています。「いもり堀」と呼ばれるこの堀の跡は、画像の右手奥まで続き、更に進んだ先では、一度は埋められた水堀が復元整備されています。

そして
逆側には橋と門

<鼠多門>ねずみたもん
kanazawajouimoricanal-castlegate.JPG
出丸と金沢城の連絡通路といったところでしょうか。具体的には金谷出丸(現在の尾山神社の敷地)と金沢城西側の玉泉院丸を繋ぐための橋、そして城門です(復元)。金沢城のみどころのひとつです。実際に橋を渡って見学するのも良いですが、できれば一度下から見上げることをお勧めします。

以上です。追記が長くて恐縮です。
タグ:石川
posted by Isuke at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年10月15日

現存する金沢城のなごり(金沢東照宮)尾ア神社

金沢城公園の北西に鎮座する尾ア神社にお邪魔させて頂きました。

<尾ア神社神門>おさきじんじゃ
Ozaki-jinja-Kanazawa.JPG
社号のお隣に葵の御紋

<拝殿>
Ozakijinja-Kanazawa.JPG
大きな神社ではありませんが、朱塗りや彫刻や飾り金具が施された豪華な社殿です。

瓦にも扉にも葵の紋が記されているこの神社は、加賀藩の第3代藩主となった前田光高が、金沢城内に東照三所大権現社として建立したことに始まります。光高は藩祖・前田利家の孫であると同時に、徳川家康のひまごでもあります(母が徳川秀忠の娘・珠姫です)。

若き藩主が、曾祖父にあたる徳川家の初代将軍を祀ったわけですね。

時代の背景として、徳川家に臣従する意思を示すために、各大名が東照大権現を祀ることに熱心だったこともあるようです(もちろん許可を得て)。親戚関係でもあり、徳川家への忠誠心が強かったとされる前田光高ですから、相当な思い入れがあったことでしょう。まして格式高き百万石の加賀藩です。建立当初は、贅沢な社殿が建ち並ぶ豪華な東照宮だったようです。

やがて明治となり、金沢城内に陸軍が駐屯することとなったことから、社殿だけが旧加賀藩御算用場であった場所(現在地)に移築されました。ご祭神に天照大神と加賀藩三代藩主の前田利常公を加えて、尾ア神社に改められたそうです。

もともと金沢城北の丸にあった社殿が、そのままここに移されたわけですよね。たび重なる火災に悩まされ、築城当時の建築物がほとんど残っていない金沢城にあって、この社殿はかなり貴重な遺構ということになります。言い換えると、神聖な神社であると同時に、かつての金沢城内の建築物の一部ということになります。また、加賀藩の藩主となりながら、若くして亡くなってしまった前田光高のなごりでもあります。

Kanazawatoushyogu.JPG
「金沢東照宮」とも呼ばれる尾ア神社。社殿ほかが国の重要文化財に指定されています。


■訪問:尾ア神社
[石川県金沢市丸の内]5-5


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■参考
・Wikipedia:2023/10/15
・現地説明板(尾ア神社由緒)
・ほっと石川旅ねっとHP
「石川の観光スポットを探す」

https://www.hot-ishikawa.jp/spot/4879
・石川県神社庁HP
神社を検索【金沢市】>尾ア神社

https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j0213/
タグ:石川
posted by Isuke at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年10月14日

庭付き一戸建ての足軽さん(金沢市)足軽資料館

長町武家屋敷跡を訪問した際に、近くの足軽資料館にお邪魔させて頂きました。

Ashigaru-Museum-Kanazawa.JPG
無料で見学できます

長町武家屋敷跡は中級以上の藩士が暮らした町。こっちは足軽のコーナーですからね。こういっては失礼ですが、ちょっと立場が違います。

Kanazawa-Ashigaru-Museum.JPG
ではお邪魔します

Ashigaruresidence.JPG
え?

Ashigaru-residence.JPG
なんで?

すみませんが、足軽といえば臨時の歩兵。勝手ながら、予想していたのは板張りの質素な共同住宅。足軽長屋です。ここは一軒家ですよね?

Ashigaru-residence-garden.JPG
しかも庭付き

実は
加賀藩では足軽にも庭付き一戸建てが与えられたそうです。さすがに武士の屋敷には及びませんが、かなり立派です。

Ashigaru-residence-koma.JPG
座敷の他にこんな小間まである。私もこのくらいでいいから自分だけの部屋が欲しいなぁ…

電気・水道・ガスは勿論ありませんが、生活スペースとしては現代人が見ても羨ましい。ちなみに、このいわば「足軽屋敷」は、最初からここにあったのではなく、実際の足軽の屋敷を移築再現したものです。中級武士の屋敷が土塀だったのに対し、こちらは生垣となっているあたりに、妙なリアリティを感じずにはいられません。

何度か目にした他藩の武家屋敷跡とあまり変わらないなぁ…

これが正直な感想でした。

足軽というと、どうしても戦国時代の臨時の歩兵を想像してしまいます。しかし江戸時代の金沢においては、まったく異なる立場だったようです。私の下手な説明より、分かりやすい下記の文言をそのまま転記させて頂きます。

Ashigaru-Museum-Explanation.JPG
『足軽とは戦闘に駆り出される歩兵のことを指しています。戦国時代には弓・鉄砲の部隊を編成して活躍しましたが、江戸時代には武士の最下層に位置付けられました。』

そう、武士なのです!
「足軽」という言葉で勘違いしてしまいましたが、私が訪問したのは加賀藩の下級武士の屋敷なのです。

Ashigaru-residence-doen.JPG
縁側まであるなぁ…

土縁(どえん)とは土間と板縁で構成される雪国特有の造りです。


最後に
屋敷内に展示されていた『吉報は玄関から』を引用して終わりにします。

Ashigaru-residence-entrance.JPG
『足軽にお召し上がる時は、前日に使いの者がやってきますが、その使いは玄関から入ってきたり、勝手口から入ってきたりしたそうです。そして家族たちは、使いがどっちから入ってきたかで、よい知らせか悪い知らせかが分かりました。昇進や拝領などの吉報は玄関から、それに対してお咎めなどの悪い知らせは勝手口から、いつの頃からかそんな慣習ができていたみたいです。』

雇用関係が曖昧な時代とは異なり、組織人としての足軽の暮らしがあったわけですね。

■訪問:金沢市足軽資料館
[石川県金沢市長町]1-9-3


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■参考及び出典
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/10/14

タグ:石川
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2023年10月11日

武家屋敷のなごり(金沢市)長町武家屋敷跡

武家屋敷のなごり漂う観光スポットを訪ねました。

<長町武家屋敷跡>ながまち
naga-machi-bukeyashiki.JPG
金沢市の人気スポットです。情報はネットに溢れていますので、気になった画像だけ貼っておきます。

Old-path-samurai-residence-town.JPG
むかしを思わせる土塀や石畳の小路。繁華街のすぐ近くとは思えない落ち着いた雰囲気です。

Bukeyashiki -Kanazawa-tourist-spot.JPG
少しだけ迷路のよう。曲がりくねった細い道は、外敵に見渡されないためですね。藩士の単なる住宅地ではなく、城下を守るための工夫が施されています。

Samurai-residence-town-Kanazawa.JPG
さすがは加賀百万石の城下町ですね。そして幸いにも戦災を免れた貴重な街並みです。

Kanazawa-tourist-spot-bukeyashiki.JPG
Kanazawa-bukeyashiki.JPG
なかを見学できる屋敷もあります


ここ長町界隈には、主に中級藩士たちの屋敷が軒を連ねていたようです。上級藩士の下屋敷などもあったようですが、実質は家来の住み家となるので同じですかね(かなり曖昧…)。いずれにせよ、加賀藩の中級ですからね、全国的にはかなりハイレベルな街並みだったのではないでしょうか?


ちょっと変わったところを
Samurai-residence-wall.JPG
Explanation-board-Samurai-residence-wall.JPG
重厚な土塀の断面、そして丁寧な説明板。勉強になります。

そして

naga-machi-onosyo-yousui.JPG
屋敷跡付近を流れる大野庄用水。金沢城築城の際にはこの用水を使って木材が運ばれました。金沢最古の用水です。


見ての通り見事な屋敷が立ち並ぶ素敵な場所でした。その一方で、これらを維持していくのは大変だなぁというのが素直な感想です。見えている景色は飾りものではなく、一部を覗いて今でも市民の暮らしの場なのです。

藩政時代の町割りをほぼそのまま引き継いでいるとのことで、道の幅は歩行者サイズ、あちらこちらでクランク状に折れ曲がっていたりします。合理化しないことの苦労を感じずにはいられません。

それを思えば、訪れる人たちのマナーも大切ですね。手間もお金もかけて維持してもらっていることに、感謝したくなる場所でした。

Samurairesidencetown.JPG
お邪魔しました。素晴らしい景観をありがとうございました。

■訪問:長町武家屋敷跡
[石川県金沢市長町]1丁目


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■参考
・Wikipedia:2023/10/11
・金沢市HP
「長町景観地区」

https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/keikanseisakuka/gyomuannai/1_1/4/8532.html

タグ:石川
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2023年10月01日

金沢城総構えのなごり(金沢城西外惣構跡)枡形の復元

金沢市の金石通り沿いには、かつての金沢城総構えの一部が復元されます。

City-Walls-Kanazawa-Sogamae.JPG
街中でちょっと異様な光景にも映りますが、城好きには嬉しい景色です

<現地説明板>
Kanazawajo-Sogamae-Explanationboard.JPG
現地には詳しい説明板が設置されていますので予備知識がなくても大丈夫です

<惣構と枡形>そうがまえとますがた
Kanazawajo-Sogamae-Explanation.JPG
右側の図解が分かりやすいですね。目の前の巨大な塊は、かつてあった重厚な土の壁のごく一部に過ぎないことが伝わってきます

左側には、惣構と枡形について説明がなされています。惣構は城そのものだけでなく、城下町を堀や土塁で囲む防御施設のことですね。ここでは『堀や土居(土を盛った土手)で囲んだ』という表現になっています。当ブログでは「総構え」という文字をあてていますが、読みも意味も同じです。説明文によれば、ここ金沢には二重の惣構があったとのこと。

次に升形についてですが、簡単に言えってしまえば、城への出入口に、門や壁・土塁などで取り囲んだ方形の空間を確保する構造のことをいいます(簡単じゃない?)。方形の空間が壁などで囲まれ、容器のマスのような形になることから、升形と呼ばれます。説明文には『惣構の堀と土居を外側に突出させて、通路には門を設けた四角形の空間』と記されています。門が二重になっている枡形を想像する方も多いかと思いますが(特に城好きの方)、図解をみる限り、ここの枡形門は一対です。
説明文には『ここから通じる道は、港がある宮腰(現在の金石)に向かっています』とあります。金石といえば港。町の中核である城と、外との接点である港を結ぶ重要な道ということですね。だからこそ、その出入り口には、念入りな仕掛けが求められたのかもしれません。
『』内は原文の引用です)

<堀と土居の復元>
Sogamae-Dorui-Kanazawa.JPG
地表に見えているのは復元ですが、発掘で見つかった遺構は地下に保存された状態とのこと。つまり目には見えない遺構がこの地下に眠っています。いろいろと配慮した上での復元です。

<地図>
Kanazawajo-Sogamae-Map.JPG
ちょっと画像だと見えにくいですが、赤文字の「現在位置」が、城の本丸からかなり遠いことが分かります。総構え(惣構)の入り口、つまり城下町の防御ラインにいるのですから、当然のことですね。


最後に
先ほどの説明文には『戦いのない平和な時代になると、敵の攻撃から守る役割は小さくなり、土居は崩され、堀は狭められました。この枡形遺構は、金沢城下町の中で唯一、今も残っている大変貴重なものです』と記されていました。戦いなどないに越したことはありません。そして、実用性のない土塁(土居)や堀は通行の妨げになるだけですので、人の暮しの場から姿を消すのは当然です。ただ、だからこそ、その一部を歴史の痕跡として意識して残す。説明文の通りで、貴重なことですね。

<惣構のなごり>
Sogamae-Dorui-Kanazawajo.JPG
ありがたい場所でした

■訪問:
金沢城西外惣構跡(枡形遺構)

[石川県金沢市本町]1丁目


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■参考及び出典
現地説明板
(金沢市歴史都市推進課)



タグ:石川
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2023年06月22日

魚津城落城の日(1582年6月22日)魚津在城十二将

本日6月22日魚津城落城の日です。1582年6月22日(天正10年6月3日)、孤立した城を3ケ月近くも守った上杉の守将たちが、揃って自害しました。

<魚津城址碑>
Stonemonument-Uozucastle.JPG

当時の越後上杉にとって重要な拠点であった城跡です。今では城址碑しかないと知りつつ、いつか訪れたいとずっと思っていました。最前線で敵の大軍に包囲され、絶望の中で敵に立ち向かった城兵のことを思うと、胸が熱くなります。

攻め手の織田軍は、柴田勝家・前田利家・佐々成政といった錚々たる武将に率いられた大軍で、約4万ともいわれています。一方で、魚津城に立て籠もる上杉勢は4千人弱でした。

<説明板>
Uozucastle-Guide-plate.JPG
史跡魚津城跡が紹介されています。

<説明板絵図>
Uozujo-no-tatakai-1582.JPG
説明板の一部を拡大させて頂きました。この絵図だと、本丸の四方を取り囲むように造られた二の丸を、織田軍が占領しています。残すは本丸のみ。越後宛て書状では、昼夜を問わず銃撃が繰り返されると記されていたようです。

魚津城救援のため上杉景勝は兵を率いて天神山(魚津市内/魚津城の東側)に布陣しました。しかし織田方の軍勢が信濃と上野から越後へ進攻したため、春日山城へ戻ることになりました。援軍は来ないと分かってからも、魚津城は決死の応戦を続けました。しかし兵糧も弾薬も尽き、最後の決断をしました。

■魚津在城十二将■
中条景泰・竹俣慶綱・吉江信景
寺嶋長資・蓼沼泰重・藤丸勝俊
亀田長乗・若林家吉・石口広宗
安部政吉・吉江宗信・山本寺景長


以上が春日山城に送られた魚津在城衆十二名連署状に記された名です。同時期に戦死した吉江景資を加えて、十三将とする場合もあります。吉江景資は、連署状に名のある吉江宗信の子であり、寺嶋長資・中条景泰の実父です。各々が自分の耳に穴を開け、その名を記した木札を結んで自刃したという逸話が残ります。

魚津城落城の前日、本能寺にて織田信長は亡くなっています。その知らせを受けた織田軍は魚津から撤退となりました。

<現地説明板>
Uozujo-no-tatakai-15820622.JPG
地図や縄張り図とともに魚津在城衆十二名連署状も掲載されていました。

上杉にとっては悲劇の城跡です。勇ましく散った守将たちとともに、立てこもった兵のほとんどが亡くなってしまいました。義の将である上杉景勝が、魚津城を平気で見殺しにしたはずがありません。その苦しい思いは、城を守った者たちに伝わっていたと思いたいですね。

<つわものどもが夢の跡>
Uozujo-Honmaru-ato.JPG

■訪問:魚津城跡
[富山県魚津市本町]1丁目

■参考及び出典
・現地説明板
(魚津市教育委員会)
・Wikipedia:2023/6/22



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