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2023年05月23日

山頂近くの井戸(久留里城)男井戸・女井戸

久留里城跡を散策中に井戸を見つけました。遠くから漢字だけみて「おとこいど・おんないど」かと思いきや

<男井戸・女井戸>
Oido-Meido-Kururi-jo.JPG
おいど・めいど…?

<めいど>
Twitter-Isuke230514-Meido.jpg
…カフェ?

教養のなさそうな発想で恐縮ですが、現地で頭をよぎったのは事実。しかし、設置されている説明板により、まともな理解ができました。

<説明板>
Oido-Meido-Explanation-board.JPG
『伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧 良弁によって掘られ、「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれたそうです。
戦国期、この場所に里見義堯が城を築くと、敵対する北条氏がいく度か来襲しますが、この井戸により籠城にも耐えることができました。
江戸時代、藩主の黒田直亨の頃から、藩士の結婚式の際に、新郎・新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いをかわしたと言われています。』

『』内は原文/読み方:良弁[ろうべん]・義堯[よしたか]・直亨[なおゆき])

高僧により掘られた井戸は、江戸時代には藩主により祝い事に用いられたわけですね。で、その間の戦国時代ですが、押し寄せる小田原北条軍に対し、籠城で凌ぐ里見軍はこの井戸にいく度となく救われたわけですね。

戦国時代の城の主流は山城です。平時はともかく、戦ともなれば山に籠ることとなります。高低差を利用した防御施設を攻め上がるのは、そう簡単なことではありません。攻め手も長期戦を選択することは多かったことでしょう。必然的に、守る側も籠城戦となります。そうなると、食糧の問題もありますが、最も必要不可欠なものは飲める水です。

久留里城は標高の高いところに井戸があるおかげで、この条件を満たしていました。逆に、古くから井戸があったからこそ、この山に本丸を配置したというのは考え過ぎですかね。

Oido-Meido-Kururijo.JPG
城兵の命をつないだ井戸なのかもしれません

■訪問:男井戸 女井戸
 (久留里城本丸直下)
[千葉県君津市久留里]字内山

■参考及び出典
現地説明板



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2023年05月22日

久留里城の模擬天守(君津市)

久留里城は室町時代に築かれた古い山城ですが、江戸時代も引き続き存続し、近世城郭として整備されました。

<久留里城>くるりじょう
Kururijo-castle-tower.JPG
こちらは本丸跡の模擬天守です。模擬といっても、久留里藩の藩庁となった久留里城に、天守は確かに実在していました。文献などから2層2階と推定されるのみで、詳細は不確かなようです。再建された天守は2層3階ですので、実在のものとはちょっと異なるようです。

<天守台跡>
Kururijo-castle-tower-foundation.JPG
こちらは天守の遺構です。実際の天守はこの天守台の上に築かれていました。

<天守台跡と模擬天守>
Kururi-castle-tower-foundation.JPG
かつての天守台と再建された模擬天守が並んでいる構図となっています。ちょっと不思議な光景ですね。

ところで
天守台や天守の手前にロープが張ってあります。これは令和5年5月11日に発生した大きな地震の影響です(君津市は震度5弱を観測)。私の訪問はその直後であったため、破損個所の修理作業や余震による被害防止を目的に、一部が立入禁止となっていました。見学には何ら問題はありませんでしたが、屋根のブルーシートがちょっと痛々しかったですね。


<久留里城のシンボル>
Kururi-castle-tower-KImitsu.JPG
実在したものと多少異なるものの、久留里にかつて立派な城があったことの象徴です。再建は1979年(昭和54年)とのこと。この時、浜松城の模擬天守をモデルとしたそうです。

<比較用>
Twitter-Isuke230520-castletower.JPG
左が久留里城、右が浜松城です。そういえば雰囲気が似ていますね。

■訪問:久留里城天守
 (久留里城本丸跡)
[千葉県君津市久留里]字内山

■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2023/5/22



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2023年05月20日

神鳥谷曲輪(小山市)土塁が残る名族の館跡

つわものどもが夢の跡
北関東の名族・小山氏の館跡を訪ねました。

<神鳥谷曲輪>ひととのや
Twitter-Isuke-230504.jpg
こちらです。まずこの神鳥谷という地名ですが「ひととのや」と読みます。現地はJR小山駅から徒歩で20分程度でしょうか。更地となっており、説明板が設置されています。説明板によれば、平成19年に本格的な発掘調査が行われ、道路跡や井戸跡などが確認されました。

<説明板>
Hitotonoya-Kuruwa-Guide-Plate.JPG
詳細が記されています。原文の前半を以下に転記させて頂きます。
『神鳥谷曲輪跡は、平成十九年一月から行われた発掘調査により、当地を治めていた小山氏が一三世紀後半から一四世紀の終わり頃まで使用した館(平時の住い)であることがわかりました。小山義政による乱の時に焼失し、館としての機能を終えたと考えられます。』

<説明板写真>
Hitotonoya-Kuruwa-Guide-Plate-Photo.JPG
館は一辺約200mの方形。敷地はかなり広範囲だったようですね。現地はJR宇都宮線沿いですが、線路の向こう側も敷地の一部で、更に土塁が残っているとのこと。

<館跡東側>
across-the-railroad-tracks.JPG
あの付近ですね。土塁らしきものが見えています。すぐ近くが踏切ですので、ちょっと迂回して見に行くことにしました。

<土塁跡>
Hitotonoya-Kuruwa- Earthworks.JPG
周囲は住宅です。それにも関わらず見事な土塁が残っています。

<土塁の上>
Twitter-Isuke-230504a.jpg
見事な遺構。右手は線路です。降りられなくもないのですが、どこからが線路内とみなされるか分からないので、ここまでにしておきました。


小山氏は藤原秀郷の末裔で、中世の下野国を代表する名族です。初代である小山政光(太田政光)が小山の地に移住したのが1150年頃とされています。実は、私は神鳥谷曲輪はこの時に小山政光が拠点とした館跡と思って訪問しました。しかし現地の説明文を読む限り、ちょっと認識が違ったようです。第11代当主の小山義政による乱(1380年)で焼失とありますので、一定期間は小山氏代々の館として役割を担っていたわけですね。

小山市内には祇園城鷲城中久喜城といった小山氏の城跡が複数残ります。これらは有事の拠点、そして今回訪問の館跡は平時の住み家ということになります。

<館のなごり>
Hitotonoya-Kuruwa-Dorui.JPG
小山政光から始まり、関東屈指の武士団となった小山氏の歴史は、戦国期まで約400年も続きます。ここ神鳥谷曲輪も、その舞台だったわけですね。

<曲輪跡>
Hitotonoya-vallum.JPG
つわものどもが夢の跡

■訪問:神鳥谷曲輪
(別称:小山氏館)
[栃木県小山市神鳥谷]

■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2023/5/20



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2023年04月29日

井伊直政が攻め入った山王曲輪の比定地(小田原市)

豊臣秀吉による小田原征伐といえば、総勢20万人を超える豊臣軍が関東へ攻め入ったことで知られていますね。関東近辺に点在する小田原城の支城では、壮絶な戦いが繰り広げられました。ただ、本城での戦いは籠城戦となり、念入りな総構えの周囲を攻め手の大軍が包囲したままの状態が100日以上続きました。

そんななか、攻め手として唯一小田原城の一角に攻め込んだのが、徳川軍の井伊直政でした。具体的には、総構えの東に位置する出丸的な曲輪に攻め入ったようです。もともと、井伊直政は徳川軍の中で最も小田原城に近いところに布陣していました。好機とみて攻撃を仕掛けたのでしょう。

さて
その出丸的な曲輪とは?

<山王川>
Sannou-River.JPG
徳川軍が布陣した場所(右手:東)と小田原城(左手:西)の間を流れる山王川です。井伊直政はこの川を越えて攻め入ったと伝わります。

<山王神社>
shrine-gate-odawara-sannou.JPG
こちらは山王川沿いの山王神社です。戦闘があったのは山王曲輪とよばれる区画で、一般的にはこの神社の付近だったと言われています。ここがそのまま戦場だった?かというと、その可能性もありますが、当時の山王神社はもう少しだけ南側(海側)にあったようなので、そちらを戦場と思った方が良いのかもしれません。

<旧山王原村の図>
Odawara-sannoushrine-Guide-Plate.JPG
山王神社の境内で撮影した地図です。

<拡大>
Odawara-sannoushrine-Guide-Map.JPG
山王川と山王神社付近を拡大し、加筆させて頂きました。赤丸が現在の山王神社、そして道を挟んだ南側の緑の丸が移転する前の山王神社の敷地です。大まかにはこの付近だったのでしょう。地図だと、山王川を渡った先に水堀(池?)のようなものが確認できますが、これがそのまま当時の状況かどうかは分かりません。更に奥(地図左手)には江戸口と記されていますが、どうもこの付近から山王川までが山王曲輪(別称:山王篠曲輪)だったと思われます。

<江戸口見附跡>
Oadawara-Edoguchi-Mitsuke.JPG
こちらは江戸時代の見附跡です。若干異なりますが、北条氏の時代の総構えの出入り口(山王口)とほぼ一致します。

ちょっと雑な結論で恐縮です。ただ、井伊直政がこの付近で小田原城の一角に攻め入ったことは史実。味方の援護を得られず、北条側の反撃を受けて退いたという話もありますが、いかにも勇猛果敢な井伊直政らしい話ですね。

<天然の堀>
Oadawara-Sannou-River.JPG
北条側からみれば、越えて欲しくない川だったのでしょう

■訪問:
浜町山王神社

[神奈川県小田原市浜町]4丁目
江戸口見附跡
[神奈川県小田原市浜町]2丁目

■参考及び出典
現地説明板
・山王神社御由緒
・旧山王原村の図



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2023年04月16日

小田原北条氏のなごり(八幡山古郭跡)小田原高校の散策路

<八幡山古郭散策路>はちまんやまこかく
Hachimannyama-kokaku.JPG
こちらは県立小田原高校に設けられた散策路です。この付近は北条氏時代の小田原城の中心地です。学校の敷地内で見つかった史跡を説明板を設けて公開してくれています。

<散策路>
fence-Hachimannyama-Odawara-highschool.JPG
高校の敷地に入って良いのか?事前の手続きは必要ないのか?現地に着くまではちょっと不安でしたが、しっかりと柵で仕切られていますので、その外側は一般人も自由に散策して良いようです。

<小田原高校と遺構>
hachimannyama-Odawarahighschool.JPG
ただ、高校のグラウンドに隣接する敷地ですので、最低限のマナーは必要ですね。

<説明板>
hachimannyama-kokaku-Guide-Plate.JPG
冒頭の説明板です。八幡山古郭は本曲輪、西曲輪、南曲輪、古宮曲輪、藤原平などの総称ですが、現在位置は西曲輪になります。

<説明板拡大>
hachimannyama-kokaku-Nishikuruwa.JPG
西曲輪の北側に西曲輪西堀と記されています。左側の写真によれば、堀の内側には溜池や堀障子が確認されたようですね。西曲輪西堀の更に北側、ほぼこの説明板のあたりに、小規模な堀が三カ所あったようです。

<三味線堀>
hachimannyama-kokaku-syamisebori.JPG
あの付近ですね。ちょっと現地で実感はわきませんでしたが、構造は説明板の図で理解しました。鍵折れ状の堀が設けられていたわけですね。それにしても三味線堀という呼び名は?どういうことでしょう。形状が三味線に似ているとも思えません。調べましたが、はっきりとは分かりませんでした。

まぁそんな細かなことより

twitter-Isuke-230330.jpg
自分はいま、戦国時代の小田原城の主要な場所にいる。それだけで満足でした。説明文によれば『西曲輪は本曲輪(本丸)の背後にあたり、とりわけ防備を厳重にする必要があったものと推定されます』とのこと。人が念入りに思惑を込めた場所ということですね。

<散策路>
hachimannyama-Odawara-highschool.JPG
散策路は校庭の東側に沿って設けられています。周辺の地形も高低差も見応えがあります。はっきりとは分かりませんが、見るものすべてが遺構に感じられてなりません。

<説明板>
HachimannyamakokakuGuide.JPG
南へ向かって進むと、また説明板が設置されていました。後ろ側は土塁の跡です。そしてその更に向こう側は本曲輪(本丸)になります。

散策路は以上です。

<小田原高校南側の坂道>
Hachimannyama-horiato.JPG
こちらは散策路を出て、山の南側の斜面を下る坂道。ちょっと分かりにくいですが、道がカーブする地点は堀跡です。右手は藤原平南堀に繋がり、左手(柵の向こう側)は本曲輪北堀の一部でした。備えが念入りだったことを実感する坂道です。


小田原城は純粋な山城から始まり、やがて平野部にまで拡大していきました。歴史は長いですが、最も濃厚な時が刻まれているのは、やはり北条氏の時代ではないでしょうか。城山の遺構はいわば小田原北条氏のなごり。小田原高校の散策路は、その一部に触れることができるありがたい小径でした。

■訪問:八幡山古郭跡の散策路
   (県立小田原高校)
[神奈川県小田原市城山]

■参考及び出典
現地説明板
・神奈川県教育委員会
・小田原市教育委員会



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2023年04月01日

小田原城二の丸隅櫓のなごり

<二の丸隅櫓>すみやぐら
ninomaru-sumi-yagura.JPG
この建物は小田原城の二の丸の南東隅に建つ櫓です。

<説明板>
ninomarusumiyagura-Guide-plate.JPG
こちらに詳細が記されていますので、一部を紹介させて頂きます(『』内は原文の転記)。

『江戸時代、小田原城には5棟の二重櫓と1棟の平櫓がありました。この櫓は、関東大震災(大正12年:1923)後に再建された平櫓で、二の丸隅櫓とも呼ばれています。
延宝元年(1673)もしくはその翌年に2間×6間(約3.6m×11m)の土蔵としてはじめて建設されました。しかし、元禄16年(1703)の地震により倒壊し、奥2間、折廻し7間(約13m)の鍵の手状の平櫓として再建されました。』


まずは倉庫のような役割を担っていたということでしょうか。元禄時代の地震を機に、一重櫓として生まれ変わったわけですね。物見櫓として高さがあるほうには思えませんが、説明文に『二の丸への入り口である馬出門を見下ろす位置』とあるように、絶妙なところに建てられていたようです。

<説明板写真>
Ninomarusumiyagura-Guide-plate-pic.JPG
こんな感じだったわけですね。石垣が今より高い様子が見てとれます。奥に見えている建物が馬出門のある区画です。

小田原城の場合、二の丸は藩主の居館や役所があった重要な曲輪。濠に面した二の丸隅櫓は、三の丸方向に睨みを利かせる一方で、二の丸への出入り口を監視する重要な役割を担っていたようです。

<現在の櫓>
Ninomarusumiyagura-Restoration.JPG
説明文によれば、現在の櫓は関東大震災後に再建されたもので、江戸時代のものよりは一回り小さいものとなっているようです。形こそ変われど、むかしの櫓のなごりを今に留めているわけですね。

<馬出門と二の丸隅櫓>
ninomaru-higashi-bori.JPG
今も馬出門を見守っています

以上
小田原城二の丸の隅櫓のご紹介でした。

<二の丸東堀>
ninomarusumiyagura-Odawara.JPG
訪問が春だったので、桜も楽しめました。

■訪問:
小田原城二の丸隅櫓

[神奈川県小田原市本町]

■参考及び出典
現地説明板


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2023年02月05日

作延城のなごり (川崎市)

つわものどもが夢の跡
城跡が霊園となっている川崎市高津区の丘を訪問しました。

<作延城>さくのべじょう
Sakunobe-castle.JPG
石碑には作延城址と刻まれています。

■現地訪問■
<津田山駅前の地図>
Sakunobe-Map.JPG
現地はJR南武線の津田山駅から徒歩で15分程度です。

といっても、坂を登りながらの訪問になります。石材店が軒を連ねる道をすすむと、霊園入口が見えてきます。

<緑ヶ丘霊園>
Kanagawa-kawasaki-sakunobejo.JPG
ここですね。霊園の入口。よそ者で事情がわからないため、入って良いのか?迷いました

<標識>
Sakunobejo-sign.JPG
どうやら一般人も進んで良いようです。区画でいうと6区裏側とのこと

<造成された斜面>
Sakunobe-jo.JPG
城の遺構ではなく霊園造成のための段差

墓地ではありますが、薄暗くじめじめとした雰囲気はまったくありません。陽の当たる丘陵地帯に広がる巨大施設となっていて、とても解放的です。

振り返ると

<丘の上>
Sakunobejo-view.JPG
ここは低地に突き出た台地上です。かなり遠くまで見渡せます

そして

<城址碑と説明板>
DirectionbBoard-StoneMonument-Sakunobejo.JPG
Sakunobejo-stone-monument.JPG
Direction-Board-Sakunobe-Castle.JPG
霊園の一角に城址碑と説明板が設置されています。説明板には、この城が鎌倉幕府御家人・稲毛三郎重成の枡形山城から近いことから、その支城であろうと考えてられていることが記されています。

<説明板地図>
Direction-Board-Map-Sakunobe-Castle.JPG
多摩川の右岸の枡形山城と作延城の位置関係です。距離にして約4qくらいでしょう。枡形山城を拠点とする稲毛氏が、領内を統治する出先機関として拠点を設けたのかもしれません。

ただ、枡形山城は鎌倉時代だけでなく、戦国時代にも城として利用されています。1504年の立河原の戦い(現在の立川市)ではあの北条早雲が入城、1569年の武田信玄による小田原攻めでは、北条氏に味方する地元豪族の横山弘成が土塁を築いたりしています。鎌倉時代と比較すると、枡形山城はその後ますます激しい戦に巻き込まれていました。

よって、仮に稲毛氏との関係が不確かだとしても、枡形山城に比較的近いここ作延城は、戦闘の拠点として大きな意味を持っていたのではないでしょうか?

詳細は伝わっていませんが、大小さまざまな山城が築かれた多摩丘陵において、作延城も幾度となく何らかの役割を担ったと思われます(最後はかなり個人意見です)。


Sakunobejo.JPG
つわものどもが夢の跡

------■ 作延城 ■------
築城主:詳細不明(稲毛重成)
築城年:詳細不明(鎌倉時代)
城 主:稲毛重成
廃城年:詳細不明
現 況:緑ヶ丘霊園
[神奈川県川崎市高津区下作延]

■参考
・Wikipedia:2023/2/5
・現地説明板
(川崎市環境保全局)



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島田屋敷のなごり(多摩市)棚原の館跡

つわものどもが夢の跡
多摩丘陵に築かれた中世の館跡を訪ねました

tanahara-no-yakata-ato.JPG

現地に「棚原の館跡」というタイトルのプレート説明板が設置されています。情報が少ないので、貴重な説明文です。冒頭を以下に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。
『ここから左側(東側)に見える操車場付近にはかつて小高い丘がありました。江戸時代の地誌には戦国時代に八王子城で討ち死にした島崎次郎某の館跡があって鎮守の森や馬場跡もあったと記されています。島田氏の先祖は鹿島神社や香取神社に近い常陸国(茨城県)行方郡の島田城付近から来たとも伝えられていますが詳細は不明です。』

名ははっきりしないものの、八王子城で討ち死にした武士の館跡ということのようです。ここでいう島崎次郎が、攻める側だったのか守る側だったのか分かりませんが、この地に拠点を構えていたのであれば、八王子城に味方する側だったのでしょう。

八王子城で戦いと言えば、思い出されるのは秀吉による小田原征伐の際の壮絶な戦い(1590年)。前田利家を総大将とする大軍が八王子城に襲い掛かり、僅かな将兵と領内から動員した領民で守る城は1日で落城しました。秀吉の小田原征伐の中でも、最も悲惨な戦いとして語り継がれている戦いです。悲劇の城のなかに、北条軍として戦った島崎氏もいたのだと受け止めることにしました。

switchyard-valley.JPG
文中にある小田急線の操車場。深い谷になっています。

tama-yokoyama-nomichi.JPG
館跡はこの上か?登ってみることにしました。

shimada-yashiki-Yokoyamanomishi.JPG
「よこやまの道」を登った坂の上。ここから奥へ行けるようです

shimada-yashiki-ato.JPG
こんな場所に出ました。この付近が屋敷跡ということになります

shimada-yashiki-view.JPG
遠くまで見渡せます。奥に何やら別のプレートが設置されていました


signpost-old-road-intersection.JPG
馬頭観音の道標と古道交差点?ここには鎌倉道と奥州古道の十字路があったとのこと。こんな高台に交差点?と一瞬戸惑いましたが、多摩丘陵の別の城跡を訪問した際に、丘陵地帯を抜けていく古道の話を耳にしたことがあるので、何となく納得しました。実感はなく、あくまで何となくですが…

鎌倉道は鎌倉方面として、奥州古道も名の通りで、むかしの人が奥州方面に向かう時に通った道筋ということでしょう。この地は、それが交わった場所ということですね。

棚原館に話を戻します。
険しい山に築かれた拠点というと、守りの固さばかり気になってしまいますが、二つの道筋が交わるところに設けられていたということは、別な意味もあったのでしょう。

under-construction-tanaharanoyakataato.JPG
under-construction-shimadayashikiato.JPG
もう少し手がかりが欲しくて館跡周辺を見て回ろうとしましたが、私の訪問時[2023年1月]は工事中で、立ち入れる範囲が限られました。しかし、館があったことだけは確かなようなので、満足な訪問となりました。

ということで
詳細は不明ながら八王子城の北条氏に味方した武士の館跡を訪ねたというお話でした。説明文には『江戸時代の初め(寛永年間)には加右エ門屋敷もあったと伝えられています。』と記されています。険しい丘陵地帯ですが、人が拠点を構えるに相応しい理由があったのでしょう。

tanaharanoyakataato.JPG

■訪問:棚原の館跡
(別称:棚原城 島田屋敷)
[東京都多摩市唐木田]2丁目

■参考及び抜粋
よこやまの道プレート
・棚原の館跡
・馬頭観音の道標と古道交差点



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