そんななか、攻め手として唯一小田原城の一角に攻め込んだのが、徳川軍の井伊直政でした。具体的には、総構えの東に位置する出丸的な曲輪に攻め入ったようです。もともと、井伊直政は徳川軍の中で最も小田原城に近いところに布陣していました。好機とみて攻撃を仕掛けたのでしょう。
さて
その出丸的な曲輪とは?
<山王川>
徳川軍が布陣した場所(右手:東)と小田原城(左手:西)の間を流れる山王川です。井伊直政はこの川を越えて攻め入ったと伝わります。
<山王神社>
こちらは山王川沿いの山王神社です。戦闘があったのは山王曲輪とよばれる区画で、一般的にはこの神社の付近だったと言われています。ここがそのまま戦場だった?かというと、その可能性もありますが、当時の山王神社はもう少しだけ南側(海側)にあったようなので、そちらを戦場と思った方が良いのかもしれません。
<旧山王原村の図>
山王神社の境内で撮影した地図です。
<拡大>
山王川と山王神社付近を拡大し、加筆させて頂きました。〇赤丸が現在の山王神社、そして道を挟んだ南側の〇緑の丸が移転する前の山王神社の敷地です。大まかにはこの付近だったのでしょう。地図だと、山王川を渡った先に水堀(池?)のようなものが確認できますが、これがそのまま当時の状況かどうかは分かりません。更に奥(地図左手)には江戸口と記されていますが、どうもこの付近から山王川までが山王曲輪(別称:山王篠曲輪)だったと思われます。
<江戸口見附跡>
こちらは江戸時代の見附跡です。若干異なりますが、北条氏の時代の総構えの出入り口(山王口)とほぼ一致します。
ちょっと雑な結論で恐縮です。ただ、井伊直政がこの付近で小田原城の一角に攻め入ったことは史実。味方の援護を得られず、北条側の反撃を受けて退いたという話もありますが、いかにも勇猛果敢な井伊直政らしい話ですね。
<天然の堀>
北条側からみれば、越えて欲しくない川だったのでしょう
■訪問:
浜町山王神社
[神奈川県小田原市浜町]4丁目
江戸口見附跡
[神奈川県小田原市浜町]2丁目
■参考及び出典
現地説明板
・山王神社御由緒
・旧山王原村の図
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