<江戸口見附跡>
ここは東海道に設けられた見附の跡です
<東海道>
いうまでもなく、東海道は江戸の日本橋から京の三条大橋に至る街道。ここは江戸から数えて9番目の宿場、そして城下町としては最初の宿場となる小田原です。
<おだわら まちしるべ>
標柱の側面に『山王口』というタイトルで説明が記されています。これによれば『山王口は「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口であるとされています。また、ここは東海道小田原宿の入口でもあり、江戸日本橋から山王口までは、約八十三キロの距離となっています。』とのこと。山王口は北条氏の時代の呼び方かと思っていましたが、江戸口見附とほぼ同義語として扱われていると受け止めることにします。この地点で日本橋から『約八十三キロ』ですから約21里ということですかね。
<現地説明板>
見附跡には立派な説明板が設置されています。少し長いので、抜粋しながら要約させて頂きます。『』内は原文のままです。
まず、小田原北条氏が、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めに対し、総構を築いたことが記されています。『周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。』とのこと。この付近は総構の最南端で、小田原の役の時は、徳川家康の部隊が、天然の堀である『山王川の対岸に陣取って』いました。かなり重要な場所だったようですね。実際に、徳川軍の一部(井伊直政)が川を越えてきたため、戦闘に至っています。
さて
その徳川が天下を取ったあとの話になります。
『江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。
江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がり さらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。』
<文久図>
周囲約9kmの総構え
<江戸口見附付近を拡大>
見附では道がクランク状になっています。いわゆる「喰違」の構造ですね。そして見張りの番所も設けられていました。城好きが見附と聞くと城門をイメージしますが、街道の見附も同じですね。
小田原には北条氏が築いた町ぐるみの巨大な城郭がありましたので、もともと多くの人で賑わう場所でした。そんな城下への入口である江戸口見附は、関所とは別のいわば検問所であり、行きかう人を監視する重要な役割を担っていました。
今は静かな見附の跡
■訪問:江戸口見附跡
[神奈川県小田原市浜町]2丁目
■参考及び出典
・現地説明板
「江戸口見附跡」
・小田原宿標柱
「おだわらまちしるべ【山王口】」
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2023年04月29日
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