城跡が霊園となっている川崎市高津区の丘を訪問しました。
<作延城>さくのべじょう
石碑には作延城址と刻まれています。
■現地訪問■
<津田山駅前の地図>
現地はJR南武線の津田山駅から徒歩で15分程度です。
といっても、坂を登りながらの訪問になります。石材店が軒を連ねる道をすすむと、霊園入口が見えてきます。
<緑ヶ丘霊園>
ここですね。霊園の入口。よそ者で事情がわからないため、入って良いのか?迷いました
<標識>
どうやら一般人も進んで良いようです。区画でいうと6区裏側とのこと
<造成された斜面>
城の遺構ではなく霊園造成のための段差
墓地ではありますが、薄暗くじめじめとした雰囲気はまったくありません。陽の当たる丘陵地帯に広がる巨大施設となっていて、とても解放的です。
振り返ると
<丘の上>
ここは低地に突き出た台地上です。かなり遠くまで見渡せます
そして
<城址碑と説明板>
霊園の一角に城址碑と説明板が設置されています。説明板には、この城が鎌倉幕府御家人・稲毛三郎重成の枡形山城から近いことから、その支城であろうと考えてられていることが記されています。
<説明板地図>
多摩川の右岸の枡形山城と作延城の位置関係です。距離にして約4qくらいでしょう。枡形山城を拠点とする稲毛氏が、領内を統治する出先機関として拠点を設けたのかもしれません。
ただ、枡形山城は鎌倉時代だけでなく、戦国時代にも城として利用されています。1504年の立河原の戦い(現在の立川市)ではあの北条早雲が入城、1569年の武田信玄による小田原攻めでは、北条氏に味方する地元豪族の横山弘成が土塁を築いたりしています。鎌倉時代と比較すると、枡形山城はその後ますます激しい戦に巻き込まれていました。
よって、仮に稲毛氏との関係が不確かだとしても、枡形山城に比較的近いここ作延城は、戦闘の拠点として大きな意味を持っていたのではないでしょうか?
詳細は伝わっていませんが、大小さまざまな山城が築かれた多摩丘陵において、作延城も幾度となく何らかの役割を担ったと思われます(最後はかなり個人意見です)。
つわものどもが夢の跡
---------■ 作延城 ■---------
築城主:不明(稲毛重成)
築城年:不明(鎌倉時代)
城 主:稲毛重成
廃城年:詳細不明
現 況:緑ヶ丘霊園
[神奈川県川崎市高津区下作延]
■参考
・Wikipedia:2023/2/5
・現地説明板
(川崎市環境保全局)
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