<城山公園>
こちらは北関東の名族・小山氏の居城として知られる祇園城跡です。現在は城山公園として整備されています。
<思川>おもいがわ
祇園城は思川を望む高台に築かれた山城です。
<観晃橋>
思川に架かる観晃橋
<公園内>
曲輪跡です。舗装された道が妙に綺麗ですね?
画像は工事が終了した直後に撮影したのです。公園のリニューアル工事はまだ続いていましたが、一部が公開されている状態でした。
<リニューアル前>
工事前の祇園城です。城のなごりが漂い、これはこれで魅力的でした。ただ、やや薄暗い雰囲気だったことは否めません。市民からはあまり評判が良くなかったようです。公園施設そのものの老朽化もあり、大規模な修繕工事が施されることになりました。
深い歴史の刻まれた場所ですが、今はあくまで市民のための公園です。小さな子供も含めて、安心して利用できる方が良いですね。
<堀切跡>
本丸と二の丸の間の堀切り跡です。むかしは草木が生い茂り、見通しが悪かったのですが、今では思川の河原がはっきりと見えます。
<結城道>
堀切の底は結城道と呼ばれた古道の一部。河原にはかつて舟付場があったとされています。この堀切は本丸の防衛施設であると同時に、人やモノの移動をスムーズする交通の役割も担っていたことになります。整然とし過ぎて、城好きとしてはちょっとだけ寂しいですが、リニューアル後の方が、この堀切が果たしていた役割が分かりやすいですね。
<曲輪の説明>
上段曲輪かぁ。こういう説明は嬉しいですね。
ということで
リニューアル祗園城のご紹介でした。
<土塁跡>
公園の隅の土塁がなんだか愛おしい
■訪問:祇園城
(城山公園)
[栃木県小山市城山町]
■当ブログ祇園城の過去記事■
名族小山氏波乱万丈の城跡
『→記事へすすむ』
工事中の夏(祇園城跡)
『→記事へすすむ』
お城巡りランキング
2024年03月29日
2023年07月29日
寿能城出丸跡で土塁を探す(大宮第二公園)
ほぼ遺構は無いと認識している寿能城跡に、土塁が残されているという噂を耳にして訪問してみました。
場所は出丸跡とされる大宮第二公園です。梅林付近と聞いて足を運びましたが、それらしきものと出会えず、近くの日本庭園付近まで歩いたところで起伏をみつけました。
こちらです。まぁ段違いにはなっている様子ですが「塁」と呼べるのか微妙
雰囲気だけは漂いますが…
土塁跡と思って良いのか、何とも言えないというのが正直な感想です。直接登ってみれば、もっと実感を得られたのかもしれませんが、柵の内側なのでやめておきました。
まぁ具体的な成果も魅力的ですが、消えてなお残る余韻を「探すこと」が趣味の始まりだったので、初心に立ち返れば、訪問できて良かったです。本当に土塁跡であることをやんわりと期待して、現地を去りました。
寿能城の出丸は、かつてあった巨大沼(見沼)に突き出るよう地形だったため、三方を沼に囲まれていました。現在は大宮第二公園となっています。第二公園の全てではなく、一部(西側)です。
こちらは大宮第二公園内の菖蒲田。ご覧の通り、多少高低差があります。手前は出丸跡、奥へ向かって広がる菖蒲田は見沼の跡です。劇的な高低差ではありませんが、出丸は沼の中の微高地だったことが伝わってくるようです。公園として整備されていなければ、もう少し分かり安い地形だったのかもしれませんね。
こちらはかつての見沼を縁どるように掘削された見沼代用水西縁と、寿能城主の名を冠する潮田橋です。大筋では、この水路より東側はかつての巨大沼となりますが、微高地だった出丸だけは例外です。説明板の地図を以下に拡大させてもらいます。
潮田橋が現在位置。広大な大宮第二公園はすぐそばですね。この地図だと、梅林と表示されている付近を目指して歩いていけば、そのすぐ近くが日本庭園で、庭園の裏の敷地に土塁跡かもしれない起伏を見ることができます。
ちょっと雑ですみませんが以上です。
最後に
出丸の範囲については諸説あります。今回は大宮第二公園の西側とさせて頂きましたが、これは一般的に言われている情報を参考に、現地の高低差などを考慮して私が推定したものです。城跡好きの会社員のブログに過ぎませんので、そのヘンはご理解下さい。
ただ、現地で似た感想を持たれる方がいれば嬉しいです。
■訪問:大宮第二公園
(日本庭園付近)
[さいたま市大宮区寿能町]2丁目
■ 寿能城について ■
<潮田資忠墓碑>うしおだすけただ
寿能城は岩槻城主である太田資正の四男・潮田資忠により築かれました。1590年に廃城。本丸跡が寿能公園として整備されています。当ブログで、過去に何度かご紹介させて頂いておりますので、良かったら覗いてみて下さい。
過去記事(クリックで記事に移動します)
2018年01月17日
『消えた見沼の浮き城 寿能城』
2018年08月01日
『寿能城主・潮田資忠の末裔』
お城巡りランキング
場所は出丸跡とされる大宮第二公園です。梅林付近と聞いて足を運びましたが、それらしきものと出会えず、近くの日本庭園付近まで歩いたところで起伏をみつけました。
こちらです。まぁ段違いにはなっている様子ですが「塁」と呼べるのか微妙
雰囲気だけは漂いますが…
土塁跡と思って良いのか、何とも言えないというのが正直な感想です。直接登ってみれば、もっと実感を得られたのかもしれませんが、柵の内側なのでやめておきました。
まぁ具体的な成果も魅力的ですが、消えてなお残る余韻を「探すこと」が趣味の始まりだったので、初心に立ち返れば、訪問できて良かったです。本当に土塁跡であることをやんわりと期待して、現地を去りました。
寿能城の出丸は、かつてあった巨大沼(見沼)に突き出るよう地形だったため、三方を沼に囲まれていました。現在は大宮第二公園となっています。第二公園の全てではなく、一部(西側)です。
こちらは大宮第二公園内の菖蒲田。ご覧の通り、多少高低差があります。手前は出丸跡、奥へ向かって広がる菖蒲田は見沼の跡です。劇的な高低差ではありませんが、出丸は沼の中の微高地だったことが伝わってくるようです。公園として整備されていなければ、もう少し分かり安い地形だったのかもしれませんね。
こちらはかつての見沼を縁どるように掘削された見沼代用水西縁と、寿能城主の名を冠する潮田橋です。大筋では、この水路より東側はかつての巨大沼となりますが、微高地だった出丸だけは例外です。説明板の地図を以下に拡大させてもらいます。
潮田橋が現在位置。広大な大宮第二公園はすぐそばですね。この地図だと、梅林と表示されている付近を目指して歩いていけば、そのすぐ近くが日本庭園で、庭園の裏の敷地に土塁跡かもしれない起伏を見ることができます。
ちょっと雑ですみませんが以上です。
最後に
出丸の範囲については諸説あります。今回は大宮第二公園の西側とさせて頂きましたが、これは一般的に言われている情報を参考に、現地の高低差などを考慮して私が推定したものです。城跡好きの会社員のブログに過ぎませんので、そのヘンはご理解下さい。
ただ、現地で似た感想を持たれる方がいれば嬉しいです。
■訪問:大宮第二公園
(日本庭園付近)
[さいたま市大宮区寿能町]2丁目
■ 寿能城について ■
<潮田資忠墓碑>うしおだすけただ
寿能城は岩槻城主である太田資正の四男・潮田資忠により築かれました。1590年に廃城。本丸跡が寿能公園として整備されています。当ブログで、過去に何度かご紹介させて頂いておりますので、良かったら覗いてみて下さい。
過去記事(クリックで記事に移動します)
2018年01月17日
『消えた見沼の浮き城 寿能城』
2018年08月01日
『寿能城主・潮田資忠の末裔』
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2023年07月16日
大多喜城のなごり
つわものどもが夢の跡
中世の山城をベースに近世城郭として設備された大多喜城を訪ねました。
<大多喜城>おおたき
こちらは本丸跡に建てられた天守をイメージした博物館です。現在の大多喜城のシンボルですね。
■上総武田氏の支配■
大多喜城は、上総武田氏の一族・真里谷(まりやつ)氏による築城から始まります(1521年)。上総武田氏は名の示す通り甲斐源氏の支族。房総半島に渡った名門ですね。
当時の地名は小田喜であったことから、小田喜城と呼ばれていました。のちの大多喜城は、この時代の城を元に築き直されたと考えられています。
2つは別の城という考え方もあるようです。確かに、初期の城の主郭は現在とは別の丘にありました。ただ、私は真里谷氏がこの付近を選んで拠点とした時をもって、城のはじまりと受け止めることにしました。
やがて上総武田氏の勢力は衰退し、築城者である真里谷信清の孫・朝信が、里見氏配下の正木氏に討ち取られたことで、大多喜城は里見氏の支配下におかれます。
<無料駐車場>
当日はここから本丸を目指しました。
<大多喜城址石柱>
駐車場から緩やかな坂道(メキシコ通り)を登ればそこはもう大多喜城跡です。むかしの大手は山の逆側ですので、裏から入ることになります。
<参考>
途中で左手に曲れば初期の大多喜城があった栗山地区です。こちらにも遺構があるようですが、私は直進して本丸跡を目指しました。参考まで
■里見氏の支配■
真里谷氏の所領を奪い取った正木氏は、この時点では里見氏配下ということになります(家臣と表現されることが多い)。ただ、もともとは里見氏同様に房総半島で地道に勢力を拡大していった独立した豪族です。諸説ありますが、三浦氏を祖とする一族とも言われています。里見氏との関係ですが、主従というより、利害が一致する同盟関係と考える方が妥当かと思われます(個人的な感覚です)。
真里谷氏を破った正木時茂は、里見氏の勢力の代表者として上杉謙信と交渉したりもしています。その上杉謙信による小田原城攻め(1561)にも参陣しており、単なる里見氏の家臣ではなく、かなり有能な武将として知られた人物でした。時茂は槍術にも優れていたことから、槍大膳と称されました。
正木氏の大多喜城支配は4代続き、上総国東部支配の拠点として機能しました。正木氏による継承が途切れたあとは、里見氏の代官が派遣されました。関東覇者となった小田原北条氏と、房総半島での覇権を争う里見氏にとって、引き続き重要な拠点であり続けたわけですね。
<入口付近>
入口付近には説明板が設置されています。右手に見えている丘は本丸下の出丸跡です。
<説明板>
ここに記載のある通り、私の訪問時は施設改修のため冒頭の画像の天守(博物館)は休館中でした。ただし展示物の一部が敷地内の別の建物に移されていたため、ありがたく見学させて頂きました。
右側には縄張り図が掲載されています。曲輪が西側から(この絵図だと上から)本丸・二の丸・三の丸と続く連郭式の城です。本丸の標高は73mで、南は崖と川、西には空堀、北と東は水堀です。明治まで続く近世城郭として仕上がってはいますが、基本は中世の山城だったことが見てとれます。
<堀切>
山を登り始めると右手に堀切跡が現れます。現地説明板の通り「空堀」に間違いありませんが、場所からして堀切と言った方が無難かと思います。登山道が整備されず斜面のままだったら、もっと分かり安かったと思います。
<堀切のスケール>
人と比較すると堀切のスケールが伝わると思います。
画像は同行した友人が背後から撮影してくれました。城跡巡りは基本的には独りですが、この日は会社の友人二人と探索しました。
■徳川氏の支配■
豊臣秀吉の小田原征伐により、戦国大名としての北条氏は滅びました(1590年)。この時、里見氏は小田原参陣に積極的ではなかったことから、広範囲にわたって所領を没収されてしまいます。ただし、もともとの所領である安房国はゆるされました。
関東を治めることになった徳川家康は、徳川四天王のひとり・本多忠勝を大多喜城に入城させました。所領が縮小されたといっても、地域に深く根を張っている房総半島南部の里見氏をけん制するためです。本多忠勝は1601年に伊勢国の桑名城に移るまでの約10年間、大多喜城の城主でした。
典型的な中世の山城だった大多喜城は、この時に近世に相応しい城として生まれ変わりました。
<幟>
歴史の長い城ですが、やはり徳川四天王のひとりである本多忠勝が推しのようですね。忠勝は10万石で大多喜城主となっています。
本多氏は3代で国替えとなり、城主は阿部氏・青山氏・稲垣氏と変わったあと、1703年からは松平氏が9代続き、廃藩置県を迎えます。最後の城主は松平豊前守正質でした。正質(まさただ)は、大多喜藩主というだけでなく、幕府の中核メンバーでした。鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍を総督として指揮しています。敗北後に大喜多へ敗走し、新政府から官位などもはく奪されましたが、その後は許され、大多喜藩知事となっています。
<二之丸公園>
階段から更に上の区画に移動できます
<二之丸公園階段>
岩の層が目をひきます。泥岩の類でしょうか(不明)?
<鐘つき堂>
梵鐘が見えてきました。かつて大多喜城下に響き渡った歴史ある鐘とのこと
<平らな区画>
二之丸公園となっていますが、二の丸そのものはもっと広大であることから、ここは出丸的な場所と思われます(個人見解)。
<堀跡>
区画の柵から下を覗き込むと堀(堀切)が見えます
<堀切跡>
こちらは二之丸公園奥の堀切。尾根を切断した跡ですね
山中の遺構は豊富ですが頂上へ進みます
<模擬天守>
天守風の千葉県立中央博物館大多喜城分館。立派です。調査の結果、大多喜城跡に天守台は発見されていないそうです。実際に天守があったかは不明ですが、古絵図を元に復原とされています。
<本丸土塁跡>
本丸を囲む土塁です。土塁の向こう側は山の斜面を垂直に削った切岸になっています。
<研修館>
博物館は残念ながら休館ですが、こちらを見学させて頂きました
本丸から二の丸へ向かいます
<登山道>
こちらから丘を下りました
<丘陵>
二の丸側から見上げた本丸のある丘
<二の丸>
県立大多喜高校の校舎は二の丸御殿の跡、一段低くなったこのクラウンドも含めて二の丸跡です。かなり広い二の丸だったようです。近世城郭になってからは、ここが城の中心だったと思われます。縄張り図を参考にすると、左手の奥には水堀が、正面奥には水堀を挟んで三の丸が設けられていたようです。
<薬医門の説明板>
大多喜高校内には移築され現存する薬医門があります。実は、二の丸に降り立ったものの「ここは高校の敷地なのに、部外者が歩き回って良いものか…」と思い、実物は見ないまま撤収してしまいました。他の方のブログではしっかり撮影されているようです。このブログは管理者が小心者ということでご理解下さい。
<大井戸>
現地説明板によれば1590年に本多忠勝が城を改修した時に造られたことに始まる井戸のようです。通称は「底知らずの井戸」。ちなみに周囲17m、深さ20mとのことです。
城内の様子は以上です
<つわものどもが夢の跡>
中世から始まり、やがて近世の城となり、明治まで存在した城です。深い歴史の刻まれた大多喜城は、続日本100名城に選ばれています。
---------■ 大多喜城 ■---------
別 名: 大滝城
築城年:1512年頃
築城者:真里谷信清
城 主:真里谷武田氏 里見氏
本多氏 阿部氏
長沢松平家 他
改修者:本多忠勝 阿部正次
廃城年:1817年(明治4)
[千葉県夷隅郡大多喜町大多喜]
■参考及び出典
・現地説明板
(大多喜町教育委員会)
・Wikipedia:2023/7/15
・千葉県立中央博物館小冊子
・千葉県立中央博物館HP
(大多喜城分館)
http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SONAN/contents/1517929898059/index.html
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中世の山城をベースに近世城郭として設備された大多喜城を訪ねました。
<大多喜城>おおたき
こちらは本丸跡に建てられた天守をイメージした博物館です。現在の大多喜城のシンボルですね。
■上総武田氏の支配■
大多喜城は、上総武田氏の一族・真里谷(まりやつ)氏による築城から始まります(1521年)。上総武田氏は名の示す通り甲斐源氏の支族。房総半島に渡った名門ですね。
当時の地名は小田喜であったことから、小田喜城と呼ばれていました。のちの大多喜城は、この時代の城を元に築き直されたと考えられています。
2つは別の城という考え方もあるようです。確かに、初期の城の主郭は現在とは別の丘にありました。ただ、私は真里谷氏がこの付近を選んで拠点とした時をもって、城のはじまりと受け止めることにしました。
やがて上総武田氏の勢力は衰退し、築城者である真里谷信清の孫・朝信が、里見氏配下の正木氏に討ち取られたことで、大多喜城は里見氏の支配下におかれます。
<無料駐車場>
当日はここから本丸を目指しました。
<大多喜城址石柱>
駐車場から緩やかな坂道(メキシコ通り)を登ればそこはもう大多喜城跡です。むかしの大手は山の逆側ですので、裏から入ることになります。
<参考>
途中で左手に曲れば初期の大多喜城があった栗山地区です。こちらにも遺構があるようですが、私は直進して本丸跡を目指しました。参考まで
■里見氏の支配■
真里谷氏の所領を奪い取った正木氏は、この時点では里見氏配下ということになります(家臣と表現されることが多い)。ただ、もともとは里見氏同様に房総半島で地道に勢力を拡大していった独立した豪族です。諸説ありますが、三浦氏を祖とする一族とも言われています。里見氏との関係ですが、主従というより、利害が一致する同盟関係と考える方が妥当かと思われます(個人的な感覚です)。
真里谷氏を破った正木時茂は、里見氏の勢力の代表者として上杉謙信と交渉したりもしています。その上杉謙信による小田原城攻め(1561)にも参陣しており、単なる里見氏の家臣ではなく、かなり有能な武将として知られた人物でした。時茂は槍術にも優れていたことから、槍大膳と称されました。
正木氏の大多喜城支配は4代続き、上総国東部支配の拠点として機能しました。正木氏による継承が途切れたあとは、里見氏の代官が派遣されました。関東覇者となった小田原北条氏と、房総半島での覇権を争う里見氏にとって、引き続き重要な拠点であり続けたわけですね。
<入口付近>
入口付近には説明板が設置されています。右手に見えている丘は本丸下の出丸跡です。
<説明板>
ここに記載のある通り、私の訪問時は施設改修のため冒頭の画像の天守(博物館)は休館中でした。ただし展示物の一部が敷地内の別の建物に移されていたため、ありがたく見学させて頂きました。
右側には縄張り図が掲載されています。曲輪が西側から(この絵図だと上から)本丸・二の丸・三の丸と続く連郭式の城です。本丸の標高は73mで、南は崖と川、西には空堀、北と東は水堀です。明治まで続く近世城郭として仕上がってはいますが、基本は中世の山城だったことが見てとれます。
<堀切>
山を登り始めると右手に堀切跡が現れます。現地説明板の通り「空堀」に間違いありませんが、場所からして堀切と言った方が無難かと思います。登山道が整備されず斜面のままだったら、もっと分かり安かったと思います。
<堀切のスケール>
人と比較すると堀切のスケールが伝わると思います。
画像は同行した友人が背後から撮影してくれました。城跡巡りは基本的には独りですが、この日は会社の友人二人と探索しました。
■徳川氏の支配■
豊臣秀吉の小田原征伐により、戦国大名としての北条氏は滅びました(1590年)。この時、里見氏は小田原参陣に積極的ではなかったことから、広範囲にわたって所領を没収されてしまいます。ただし、もともとの所領である安房国はゆるされました。
関東を治めることになった徳川家康は、徳川四天王のひとり・本多忠勝を大多喜城に入城させました。所領が縮小されたといっても、地域に深く根を張っている房総半島南部の里見氏をけん制するためです。本多忠勝は1601年に伊勢国の桑名城に移るまでの約10年間、大多喜城の城主でした。
典型的な中世の山城だった大多喜城は、この時に近世に相応しい城として生まれ変わりました。
<幟>
歴史の長い城ですが、やはり徳川四天王のひとりである本多忠勝が推しのようですね。忠勝は10万石で大多喜城主となっています。
本多氏は3代で国替えとなり、城主は阿部氏・青山氏・稲垣氏と変わったあと、1703年からは松平氏が9代続き、廃藩置県を迎えます。最後の城主は松平豊前守正質でした。正質(まさただ)は、大多喜藩主というだけでなく、幕府の中核メンバーでした。鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍を総督として指揮しています。敗北後に大喜多へ敗走し、新政府から官位などもはく奪されましたが、その後は許され、大多喜藩知事となっています。
<二之丸公園>
階段から更に上の区画に移動できます
<二之丸公園階段>
岩の層が目をひきます。泥岩の類でしょうか(不明)?
<鐘つき堂>
梵鐘が見えてきました。かつて大多喜城下に響き渡った歴史ある鐘とのこと
<平らな区画>
二之丸公園となっていますが、二の丸そのものはもっと広大であることから、ここは出丸的な場所と思われます(個人見解)。
<堀跡>
区画の柵から下を覗き込むと堀(堀切)が見えます
<堀切跡>
こちらは二之丸公園奥の堀切。尾根を切断した跡ですね
山中の遺構は豊富ですが頂上へ進みます
<模擬天守>
天守風の千葉県立中央博物館大多喜城分館。立派です。調査の結果、大多喜城跡に天守台は発見されていないそうです。実際に天守があったかは不明ですが、古絵図を元に復原とされています。
<本丸土塁跡>
本丸を囲む土塁です。土塁の向こう側は山の斜面を垂直に削った切岸になっています。
<研修館>
博物館は残念ながら休館ですが、こちらを見学させて頂きました
本丸から二の丸へ向かいます
<登山道>
こちらから丘を下りました
<丘陵>
二の丸側から見上げた本丸のある丘
<二の丸>
県立大多喜高校の校舎は二の丸御殿の跡、一段低くなったこのクラウンドも含めて二の丸跡です。かなり広い二の丸だったようです。近世城郭になってからは、ここが城の中心だったと思われます。縄張り図を参考にすると、左手の奥には水堀が、正面奥には水堀を挟んで三の丸が設けられていたようです。
<薬医門の説明板>
大多喜高校内には移築され現存する薬医門があります。実は、二の丸に降り立ったものの「ここは高校の敷地なのに、部外者が歩き回って良いものか…」と思い、実物は見ないまま撤収してしまいました。他の方のブログではしっかり撮影されているようです。このブログは管理者が小心者ということでご理解下さい。
<大井戸>
現地説明板によれば1590年に本多忠勝が城を改修した時に造られたことに始まる井戸のようです。通称は「底知らずの井戸」。ちなみに周囲17m、深さ20mとのことです。
城内の様子は以上です
<つわものどもが夢の跡>
中世から始まり、やがて近世の城となり、明治まで存在した城です。深い歴史の刻まれた大多喜城は、続日本100名城に選ばれています。
---------■ 大多喜城 ■---------
別 名: 大滝城
築城年:1512年頃
築城者:真里谷信清
城 主:真里谷武田氏 里見氏
本多氏 阿部氏
長沢松平家 他
改修者:本多忠勝 阿部正次
廃城年:1817年(明治4)
[千葉県夷隅郡大多喜町大多喜]
■参考及び出典
・現地説明板
(大多喜町教育委員会)
・Wikipedia:2023/7/15
・千葉県立中央博物館小冊子
・千葉県立中央博物館HP
(大多喜城分館)
http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SONAN/contents/1517929898059/index.html
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2023年07月08日
山谷に眠る将兵の魂(大多喜城跡)石垣の石を祀った社
大多喜城跡の駐車場で、小さな社に足が止まりました。
<ちいさなやしろ>
質素でありながら、素通りしにくい雰囲気を醸し出しています。傍らに説明板が設置されていたので、何が祀られているのかすぐに分かりました。
<説明板>
下記に転記させて頂きます。一部見えにくいところは文脈から推定させて頂きました。
『この社は、大多喜城再築の際に発掘された石垣の石です。何百年も前の戦に散った戦国の武勇武将の功を祭り造築致しました。戦国に散った将兵達は、いまもなお山谷深く眠っています。この世の出来事とは思えぬ戦国の乱期をじっと見つめてきた石垣、生と死を崇拝致し願う次第です。合掌』
<発掘された石垣の石>
形としてはこの石を、そして戦国の世に散った将兵達の魂を祀っているのだと受け止めました。
いうまでもなく、城は戦に備えた軍事施設です。多くの人が苦しんだり、泪したり、亡くなった場所です。城跡巡りを始めた頃は、そういったことを強く意識していたような気がします。しかし慣れてきてしまったのか、最近はまず地形とか、城の構造に気持ちがいってしまいます。そういう意味で、ハッとさせられる説明文でした。現地に到着して、まずこの社に気付けて良かったような気がします。
<合掌>
呼び止めてもらったのかもしれませんね。ありがとうございます。
<駐車場>
石垣の石は駐車場の隅に祀られています。この画像の右手奥の建物(公衆トイレ)の左側になります。
<大多喜城跡>
駐車場からなだらかな坂を上れば、そこはもう大多喜城跡の入り口です。
■訪問:石垣の石を祀った社
(大多喜城跡駐車場)
[千葉県大多喜町大多喜]488
■参考及び出典
現地説明板
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<ちいさなやしろ>
質素でありながら、素通りしにくい雰囲気を醸し出しています。傍らに説明板が設置されていたので、何が祀られているのかすぐに分かりました。
<説明板>
下記に転記させて頂きます。一部見えにくいところは文脈から推定させて頂きました。
『この社は、大多喜城再築の際に発掘された石垣の石です。何百年も前の戦に散った戦国の武勇武将の功を祭り造築致しました。戦国に散った将兵達は、いまもなお山谷深く眠っています。この世の出来事とは思えぬ戦国の乱期をじっと見つめてきた石垣、生と死を崇拝致し願う次第です。合掌』
<発掘された石垣の石>
形としてはこの石を、そして戦国の世に散った将兵達の魂を祀っているのだと受け止めました。
いうまでもなく、城は戦に備えた軍事施設です。多くの人が苦しんだり、泪したり、亡くなった場所です。城跡巡りを始めた頃は、そういったことを強く意識していたような気がします。しかし慣れてきてしまったのか、最近はまず地形とか、城の構造に気持ちがいってしまいます。そういう意味で、ハッとさせられる説明文でした。現地に到着して、まずこの社に気付けて良かったような気がします。
<合掌>
呼び止めてもらったのかもしれませんね。ありがとうございます。
<駐車場>
石垣の石は駐車場の隅に祀られています。この画像の右手奥の建物(公衆トイレ)の左側になります。
<大多喜城跡>
駐車場からなだらかな坂を上れば、そこはもう大多喜城跡の入り口です。
■訪問:石垣の石を祀った社
(大多喜城跡駐車場)
[千葉県大多喜町大多喜]488
■参考及び出典
現地説明板
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2023年05月31日
久留里城のなごり(君津市)
つわものどもが夢の跡
千葉県君津市の山城を訪問しました。
<久留里城>くるりじょう
本丸跡の模擬天守です。
■久留里城の歴史■
私は漠然と「里見氏の居城」というイメージのまま訪問しましたが、歴史はかなり長く、廃城も明治になってからということを現地で知りました。
<久留里城址資料館>
こちらは二の丸跡の資料館です。予習していなくてもここへ立ち寄れば大丈夫
<久留里城の歴史>
分かり安い!助かります。こちらを補足しながら、久留里城の歴史をご紹介させて頂きます。
武田信長 房総侵入
久留里城にその一族を配する
武田信長は上総武田氏の祖となった人物。名の示す通り甲斐源氏の支族です。普通の感覚だと、武田(信玄)と(織田)信長は宿敵なので、ちょっと違和感がありますが、逆に覚えやすい名前ですね。久留里城には、平将門の三男が築城者という伝承もありますが、史実としては、武田信長の築城が城の始まりとされています(1455年)。城は武田信長の子孫の真理谷(まりやつ)氏が支配することとなりますが、戦国時代に突入すると身内の争いもあって勢力を失い、安房国を拠点に勢力を拡大していった里見氏に実権を奪われました。
里見義堯、久留里に登場!
房総経略の拠点とする
里見氏の第5代当主・義堯(よしたか)は、久留里を本拠とし、城の改修を行いました。峰続きの別の場所に再構築したという言い方の方が正しいのかもしれません。
<資料館のジオラマ>
久留里城は比高100mほどの丘陵地帯に築かれた山城です。里見義堯の改修以降は、右上の山頂付近が本丸・二の丸など城の中核部となりました。初期の久留里城(古久留里城)も含めるとかなり大きな城です。
里見氏は関東で勢力を拡大する小田原北条氏と争うこととなり、幾度となく激突します。久留里城は一時的に北条氏に奪われていますが、里見氏は奪い返しています。北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐で大名としては滅びますが、この際に、里見氏(この時の当主は義康)は参陣に積極的ではなかったことから、上総国の所領は没収となり、久留里城も手放すことになります。安房国の領有はゆるされています。
徳川家康 関東入国
・大須賀忠政、近江横須賀より3万石で転封【12年】
・土屋忠直、2万石で入封【3代78年】
※前橋藩主酒井忠清の加増地となり廃城
・上野国沼田より黒田直純、3万石で転封
※久留里藩復興
以降、黒田氏の政治となる【9代130年】
北条氏に代わって徳川家康が関東を治めることになると、久留里城には大須賀忠政が3万石を与えられ入城しました。大須賀氏は古くからの徳川家臣ですが、忠政は養子で、実父は徳川四天王に名を連ねる榊原康政です。忠政が久留里城主の時に、城下町の基盤が出来たようです。
<ジオラマ(山麓)>
地形を利用した山城は戦闘には有利ですが、何事無い時は不便です。整備された山麓が平時の場所であり、城下との接点として機能したわけですね。
関ヶ原の戦いの後、忠政に代わって久留里を任された土屋忠直は、親の代から徳川に仕えた家柄ではなく、ルーツは武田氏家臣です。忠直の父は「片手千人斬り」で有名な猛将・土屋昌恒で、天目山の戦いで武田勝頼に殉じました。忠直から始まる久留米藩主・土屋氏は3代続きましたが、1679年に改易となり廃藩。久留里城は一旦廃城となります。しかし時を経た1742年、上野国沼田より譜代大名の黒田直純が3万石で転封となり再び立藩。久留里城はこの時に再建されました。天守が建てられたのはこの時と考えられます。黒田氏の統治は9代130年続き、そのまま明治維新を迎えました。
■ 登城記録 ■
<駐車場>
無料駐車場があります。ここからは歩きです
<城山の高さ>
久留里城の築かれた山は「城山」と呼ばれています。これによると先ほどの駐車場の海抜が55mで本丸は145m。引き算した数字の高低差を登ることになりますが、あとちょっとの所で、意外と大変なことだと思い知ります。私は甘くみて利用しませんでしたが、坂道用に杖が用意されています。
<雨城>うじょう
久留里城の別名は雨城。築城後、三日に一度雨が降ったことに由来するようです。
<坂の途中の説明板>
坂道は長いので、ついでに足を止めて読むことをお勧めします。すべてご紹介できませんが、安房の里見義堯が上総に進出して本拠地を久留里城に移したこと、小田原北条氏に敗北して城を一時奪われたこと、その2年後に奪還したことなどが記されています。
<登山道>
見た目より急な坂が続きます。勾配より長さが効きます。
<堀切跡の標柱>
城として山に手を加えたなごりということですね
<堀切跡>
絵として地味ですがここも堀切跡ですね。尾根を断ち切り、敵の侵入を妨害するための仕掛けです。二の丸へ向かう途中で撮影しました。
<お玉ヶ池>
二の丸下の池です。その名は城将の娘「お玉」に由来します。悲話の伝承があり、背景に山頂付近が水の確保に苦労していたことが伺えます。里見氏の時代に掘られたようです。
<薬師曲輪>
こちらは久留里城二の丸の腰曲輪(=主たる曲輪を補強する区画)からの眺めです。久留里城は房総半島の中央部に位置する山城。低地に面しているため、遠くまで見渡せます。かつて里見氏が、攻め寄せる小田原北条軍を迎え撃った古戦場も見渡せます。
<雨城八幡神社>
薬師曲輪跡に鎮座しています
<里見北条古戦史碑>
里見氏が迫りくる小田原北条氏の軍を二度に渡って退けたことが記されています。
<新井白石像>あらいはくせき
二の丸の久留里城址資料館近くで撮影しました。新井白石像がなぜここに?江戸時代の儒学者として有名ですが、土屋家二代目の利直に仕えて、青年期をここ久留里の地で過ごしたそうです
<久留里曲輪>
ここも二の丸の腰曲輪
<天神曲輪>
こちらは本丸の腰曲輪
<男井戸・女井戸>
本丸下の井戸です。籠城する城兵は、この井戸にいく度となく救われたことでしょう
<波多野曲輪>
こちらも本丸の腰曲輪。本丸の天守のすぐ近くです
<尾根を削った曲輪>
波多野曲輪を本丸側から撮影するとこんな感じです。区画の奥が突き出ていますね。本丸へ続く尾根を削って曲輪としたことがよく分かります。久留里城はこういった小規模な腰曲輪が多いです。山の特徴として、尾根の幅が比較的狭いということも影響しているのかもしれません。
そして
<模擬天守>
立派です。模擬といっても、久留里城に天守は実在していました。ただ、文献などから2層2階と推定されているものの詳細は不確かなようです。再建された天守は2層3階ですので、実在のものとはちょっと異なるようです。再建は1979年(昭和54年)。浜松城の模擬天守をモデルとしたそうです。
<天守台跡>
こちらは天守の遺構です。実際の天守はこの天守台の上に築かれていました。
<天守台跡と模擬天守>
天守台の遺構と再建された模擬天守が並んでいる構図となっています。
<丹生廟遺跡>たんしょうびょういせき
本丸の北側には高台があります。城好きならまず物見櫓の跡を想像することでしょう。こちらには藩主となった黒田家のルーツである丹党(秩父丹党)の祖神が祀られています。現在は石碑と説明板のみ。高台は「剣の峯」と呼ばれているそうです。
<剣の峯>
登ってみました。土を盛ったのかもしれませんが、起伏からして、もともとの地形のような気もします。本丸を平らに造成する際に、削らずに残したのかもしれないと勝手に思いました。
登城記録は以上です。
地形から私が勝手に想像したコメントも含まれていますので、その点はご容赦下さい。
■つわものどもが夢の跡■
今回の訪問を機に、久留里城の築城から廃城まで、大まかではありますが知ることができました。長い長い歴史が刻まれた城ですね。ただ、やはり里見氏の居城というイメージに変わりはありません。
<城山からの眺め>
新田の流れを汲む名門とはいえ小大名に過ぎなかった安房国の里見氏が、勢力を拡大し、関東覇者・小田原北条氏を迎え撃った城跡です。
--------■久留里城■--------
別 名:雨城 霧降城
築城年:1456年頃
築城者:武田信長
改修者:里見義堯 黒田直純
城 主:上総武田氏・安房里見氏
小田原北条氏・黒田氏他
廃城年:1872年(明治5)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
・久留里城址資料館
(展示資料・小冊子・城内説明板)
・里見北条古戦史碑
(上総ライオンズクラブ)
・Wikipedia:2023/5/31
お城巡りランキング
千葉県君津市の山城を訪問しました。
<久留里城>くるりじょう
本丸跡の模擬天守です。
■久留里城の歴史■
私は漠然と「里見氏の居城」というイメージのまま訪問しましたが、歴史はかなり長く、廃城も明治になってからということを現地で知りました。
<久留里城址資料館>
こちらは二の丸跡の資料館です。予習していなくてもここへ立ち寄れば大丈夫
<久留里城の歴史>
分かり安い!助かります。こちらを補足しながら、久留里城の歴史をご紹介させて頂きます。
武田信長 房総侵入
久留里城にその一族を配する
武田信長は上総武田氏の祖となった人物。名の示す通り甲斐源氏の支族です。普通の感覚だと、武田(信玄)と(織田)信長は宿敵なので、ちょっと違和感がありますが、逆に覚えやすい名前ですね。久留里城には、平将門の三男が築城者という伝承もありますが、史実としては、武田信長の築城が城の始まりとされています(1455年)。城は武田信長の子孫の真理谷(まりやつ)氏が支配することとなりますが、戦国時代に突入すると身内の争いもあって勢力を失い、安房国を拠点に勢力を拡大していった里見氏に実権を奪われました。
里見義堯、久留里に登場!
房総経略の拠点とする
里見氏の第5代当主・義堯(よしたか)は、久留里を本拠とし、城の改修を行いました。峰続きの別の場所に再構築したという言い方の方が正しいのかもしれません。
<資料館のジオラマ>
久留里城は比高100mほどの丘陵地帯に築かれた山城です。里見義堯の改修以降は、右上の山頂付近が本丸・二の丸など城の中核部となりました。初期の久留里城(古久留里城)も含めるとかなり大きな城です。
里見氏は関東で勢力を拡大する小田原北条氏と争うこととなり、幾度となく激突します。久留里城は一時的に北条氏に奪われていますが、里見氏は奪い返しています。北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐で大名としては滅びますが、この際に、里見氏(この時の当主は義康)は参陣に積極的ではなかったことから、上総国の所領は没収となり、久留里城も手放すことになります。安房国の領有はゆるされています。
徳川家康 関東入国
・大須賀忠政、近江横須賀より3万石で転封【12年】
・土屋忠直、2万石で入封【3代78年】
※前橋藩主酒井忠清の加増地となり廃城
・上野国沼田より黒田直純、3万石で転封
※久留里藩復興
以降、黒田氏の政治となる【9代130年】
北条氏に代わって徳川家康が関東を治めることになると、久留里城には大須賀忠政が3万石を与えられ入城しました。大須賀氏は古くからの徳川家臣ですが、忠政は養子で、実父は徳川四天王に名を連ねる榊原康政です。忠政が久留里城主の時に、城下町の基盤が出来たようです。
<ジオラマ(山麓)>
地形を利用した山城は戦闘には有利ですが、何事無い時は不便です。整備された山麓が平時の場所であり、城下との接点として機能したわけですね。
関ヶ原の戦いの後、忠政に代わって久留里を任された土屋忠直は、親の代から徳川に仕えた家柄ではなく、ルーツは武田氏家臣です。忠直の父は「片手千人斬り」で有名な猛将・土屋昌恒で、天目山の戦いで武田勝頼に殉じました。忠直から始まる久留米藩主・土屋氏は3代続きましたが、1679年に改易となり廃藩。久留里城は一旦廃城となります。しかし時を経た1742年、上野国沼田より譜代大名の黒田直純が3万石で転封となり再び立藩。久留里城はこの時に再建されました。天守が建てられたのはこの時と考えられます。黒田氏の統治は9代130年続き、そのまま明治維新を迎えました。
■ 登城記録 ■
<駐車場>
無料駐車場があります。ここからは歩きです
<城山の高さ>
久留里城の築かれた山は「城山」と呼ばれています。これによると先ほどの駐車場の海抜が55mで本丸は145m。引き算した数字の高低差を登ることになりますが、あとちょっとの所で、意外と大変なことだと思い知ります。私は甘くみて利用しませんでしたが、坂道用に杖が用意されています。
<雨城>うじょう
久留里城の別名は雨城。築城後、三日に一度雨が降ったことに由来するようです。
<坂の途中の説明板>
坂道は長いので、ついでに足を止めて読むことをお勧めします。すべてご紹介できませんが、安房の里見義堯が上総に進出して本拠地を久留里城に移したこと、小田原北条氏に敗北して城を一時奪われたこと、その2年後に奪還したことなどが記されています。
<登山道>
見た目より急な坂が続きます。勾配より長さが効きます。
<堀切跡の標柱>
城として山に手を加えたなごりということですね
<堀切跡>
絵として地味ですがここも堀切跡ですね。尾根を断ち切り、敵の侵入を妨害するための仕掛けです。二の丸へ向かう途中で撮影しました。
<お玉ヶ池>
二の丸下の池です。その名は城将の娘「お玉」に由来します。悲話の伝承があり、背景に山頂付近が水の確保に苦労していたことが伺えます。里見氏の時代に掘られたようです。
<薬師曲輪>
こちらは久留里城二の丸の腰曲輪(=主たる曲輪を補強する区画)からの眺めです。久留里城は房総半島の中央部に位置する山城。低地に面しているため、遠くまで見渡せます。かつて里見氏が、攻め寄せる小田原北条軍を迎え撃った古戦場も見渡せます。
<雨城八幡神社>
薬師曲輪跡に鎮座しています
<里見北条古戦史碑>
里見氏が迫りくる小田原北条氏の軍を二度に渡って退けたことが記されています。
<新井白石像>あらいはくせき
二の丸の久留里城址資料館近くで撮影しました。新井白石像がなぜここに?江戸時代の儒学者として有名ですが、土屋家二代目の利直に仕えて、青年期をここ久留里の地で過ごしたそうです
<久留里曲輪>
ここも二の丸の腰曲輪
<天神曲輪>
こちらは本丸の腰曲輪
<男井戸・女井戸>
本丸下の井戸です。籠城する城兵は、この井戸にいく度となく救われたことでしょう
<波多野曲輪>
こちらも本丸の腰曲輪。本丸の天守のすぐ近くです
<尾根を削った曲輪>
波多野曲輪を本丸側から撮影するとこんな感じです。区画の奥が突き出ていますね。本丸へ続く尾根を削って曲輪としたことがよく分かります。久留里城はこういった小規模な腰曲輪が多いです。山の特徴として、尾根の幅が比較的狭いということも影響しているのかもしれません。
そして
<模擬天守>
立派です。模擬といっても、久留里城に天守は実在していました。ただ、文献などから2層2階と推定されているものの詳細は不確かなようです。再建された天守は2層3階ですので、実在のものとはちょっと異なるようです。再建は1979年(昭和54年)。浜松城の模擬天守をモデルとしたそうです。
<天守台跡>
こちらは天守の遺構です。実際の天守はこの天守台の上に築かれていました。
<天守台跡と模擬天守>
天守台の遺構と再建された模擬天守が並んでいる構図となっています。
<丹生廟遺跡>たんしょうびょういせき
本丸の北側には高台があります。城好きならまず物見櫓の跡を想像することでしょう。こちらには藩主となった黒田家のルーツである丹党(秩父丹党)の祖神が祀られています。現在は石碑と説明板のみ。高台は「剣の峯」と呼ばれているそうです。
<剣の峯>
登ってみました。土を盛ったのかもしれませんが、起伏からして、もともとの地形のような気もします。本丸を平らに造成する際に、削らずに残したのかもしれないと勝手に思いました。
登城記録は以上です。
地形から私が勝手に想像したコメントも含まれていますので、その点はご容赦下さい。
■つわものどもが夢の跡■
今回の訪問を機に、久留里城の築城から廃城まで、大まかではありますが知ることができました。長い長い歴史が刻まれた城ですね。ただ、やはり里見氏の居城というイメージに変わりはありません。
<城山からの眺め>
新田の流れを汲む名門とはいえ小大名に過ぎなかった安房国の里見氏が、勢力を拡大し、関東覇者・小田原北条氏を迎え撃った城跡です。
--------■久留里城■--------
別 名:雨城 霧降城
築城年:1456年頃
築城者:武田信長
改修者:里見義堯 黒田直純
城 主:上総武田氏・安房里見氏
小田原北条氏・黒田氏他
廃城年:1872年(明治5)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
・久留里城址資料館
(展示資料・小冊子・城内説明板)
・里見北条古戦史碑
(上総ライオンズクラブ)
・Wikipedia:2023/5/31
お城巡りランキング
2023年05月30日
お玉ヶ池(久留里城)悲話が伝わる山城の池
久留里城には悲話が伝わる池があります。
<お玉ヶ池>
場所は二の丸のすぐ下あたりです。
<説明板>
こちらの説明によれば『久留里城の二之丸は、水源がなく不便な場所でした。城主の里見義尭は、家臣の兵馬に池を掘るように命じました。』とのこと。久留里城の歴史は長いですが、里見氏時代の話のようです。ここに登場する兵馬という名の家臣について調べましたが、詳細はわかりませんでした。
つづいて『ある時、兵馬が池を掘っていると、兵糧庫が焼失する事件が起こり、火の不始末の疑いで、兵達は捕らわれの身となります。』作業に没頭する過程で、火災を起こしてしまったとのことでしょうか。本丸に比較的近いこの付近に、兵糧庫が設けられていたとも受けとめられます。
『城将小川秀政の娘の「お玉」は、これを哀れんで、かわりに池を掘り始めますが、兵馬は打ち首となってしまいます。その後、この疑いが解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったそうです。』城将についても調べたのですが、里見氏家臣団に小川秀政の名は見つけられず、情報は得られませんでした。当然ながら「お玉」についても。ただ、こういう悲話があるからこそ「お玉ヶ池」と呼ばれているわけですね。
この情報だけでは何とも言えません。ただ、お玉と兵馬は恋仲だった?というのは考え過ぎでしょうか。また「城将の娘」と「家臣の兵馬」という言い回しから、身分の差すら想像してしまいます。最後は、亡くなった兵馬は無実で、お玉は仏門に帰依することになった。とても切ないお話ですね。
ということで
そんなことはどこにも書かれていないじゃないか!という内容を付け加えてしまい恐縮です。ただ、伝わる話を、似たような感覚で受け止めてくれる方がいれば嬉しいです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:お玉ヶ池
(久留里城二の丸付近)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
現地説明板『お玉が池』
お城巡りランキング
<お玉ヶ池>
場所は二の丸のすぐ下あたりです。
<説明板>
こちらの説明によれば『久留里城の二之丸は、水源がなく不便な場所でした。城主の里見義尭は、家臣の兵馬に池を掘るように命じました。』とのこと。久留里城の歴史は長いですが、里見氏時代の話のようです。ここに登場する兵馬という名の家臣について調べましたが、詳細はわかりませんでした。
つづいて『ある時、兵馬が池を掘っていると、兵糧庫が焼失する事件が起こり、火の不始末の疑いで、兵達は捕らわれの身となります。』作業に没頭する過程で、火災を起こしてしまったとのことでしょうか。本丸に比較的近いこの付近に、兵糧庫が設けられていたとも受けとめられます。
『城将小川秀政の娘の「お玉」は、これを哀れんで、かわりに池を掘り始めますが、兵馬は打ち首となってしまいます。その後、この疑いが解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったそうです。』城将についても調べたのですが、里見氏家臣団に小川秀政の名は見つけられず、情報は得られませんでした。当然ながら「お玉」についても。ただ、こういう悲話があるからこそ「お玉ヶ池」と呼ばれているわけですね。
この情報だけでは何とも言えません。ただ、お玉と兵馬は恋仲だった?というのは考え過ぎでしょうか。また「城将の娘」と「家臣の兵馬」という言い回しから、身分の差すら想像してしまいます。最後は、亡くなった兵馬は無実で、お玉は仏門に帰依することになった。とても切ないお話ですね。
ということで
そんなことはどこにも書かれていないじゃないか!という内容を付け加えてしまい恐縮です。ただ、伝わる話を、似たような感覚で受け止めてくれる方がいれば嬉しいです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:お玉ヶ池
(久留里城二の丸付近)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
現地説明板『お玉が池』
お城巡りランキング
2023年05月28日
里見北条古戦史碑(久留里城)
<里見北条古戦史碑>
安房国(千葉県南部)から始まり、徐々に房総半島全体に勢力を拡大した里見氏が、迫りくる小田原北条氏の軍を二度に渡って退けたことが記されています。
<薬師曲輪からの眺め>
こちらは久留里城二の丸の腰曲輪(薬師曲輪と呼ばれています)からの眺めです。久留里城は房総半島の中央部に位置する山城。低地に面しているため、遠くまで見渡せます。かつて里見氏が、攻め寄せる小田原北条軍を迎え撃った古戦場も見渡せます。
どのヘンか?
<古戦場>
ちょっと雑ですが、現地の案内板によればこの付近(赤〇)ということになります。
冒頭の石碑によれば『戦国時代の天文二十三年(一五五四)晩秋 北條綱成は二万余騎の軍兵を従えて向郷に陣屋を構え 里見義堯 義弘の守る久留里城を攻撃して来た』
北条綱成は小田原北条氏の家臣で、主力部隊を任される大将格の武将です。北条氏綱に気に入られ、他家から北条一門に迎えられました。その綱成率いる大軍を、安房里見氏の第5代当主・義堯(よしたか)と嫡男・義弘が迎え撃ったわけですね。
つづきを要約させて頂くと、知将・里見義堯の戦略により、湯名城主山本左馬允、一宮城主須田将監 鳴戸城主忍足美作守、大多喜城正木時茂、周西城主茂木与茂九郎らの武将が馳せ参じ、小櫃川を挟んで数十日間あまりの攻防戦を展開して、北条軍を撃退したとのこと。このあと字が読めませんでしたが、若干16歳の少年武将だった茂木与茂九郎の奮戦ぶりが記されています。また、翌年の弘治元年に、再び北条軍の攻撃を受けて激戦となりながら、久留里城が落ちることはなく、難攻不落の名を坂東に知らしめたという内容でしめくくられています。
戦国時代に入った関東では、北条氏が小田原に進出し、やがて三浦半島にまで勢力を伸ばしました。このことは、江戸湾を挟んだ安房国を拠点に勢力拡大を成していった里見氏にも大きく影響します。里見氏と小田原北条氏の関係は、周辺の勢力との兼ね合いも含めてかなり複雑なものとなり、やがて幾度となく戦うことになります。このうち、久留里城付近を舞台とした1554年・1555年の激突に関しては、里見軍が北条軍を退けました。
強敵を退けた里見氏の雄姿をたたえる石碑ということですね
■訪問:里見北条古戦史碑
(久留里城薬師曲輪跡)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
・里見北条古戦史碑
(上総ライオンズクラブ)
お城巡りランキング
安房国(千葉県南部)から始まり、徐々に房総半島全体に勢力を拡大した里見氏が、迫りくる小田原北条氏の軍を二度に渡って退けたことが記されています。
<薬師曲輪からの眺め>
こちらは久留里城二の丸の腰曲輪(薬師曲輪と呼ばれています)からの眺めです。久留里城は房総半島の中央部に位置する山城。低地に面しているため、遠くまで見渡せます。かつて里見氏が、攻め寄せる小田原北条軍を迎え撃った古戦場も見渡せます。
どのヘンか?
<古戦場>
ちょっと雑ですが、現地の案内板によればこの付近(赤〇)ということになります。
冒頭の石碑によれば『戦国時代の天文二十三年(一五五四)晩秋 北條綱成は二万余騎の軍兵を従えて向郷に陣屋を構え 里見義堯 義弘の守る久留里城を攻撃して来た』
北条綱成は小田原北条氏の家臣で、主力部隊を任される大将格の武将です。北条氏綱に気に入られ、他家から北条一門に迎えられました。その綱成率いる大軍を、安房里見氏の第5代当主・義堯(よしたか)と嫡男・義弘が迎え撃ったわけですね。
つづきを要約させて頂くと、知将・里見義堯の戦略により、湯名城主山本左馬允、一宮城主須田将監 鳴戸城主忍足美作守、大多喜城正木時茂、周西城主茂木与茂九郎らの武将が馳せ参じ、小櫃川を挟んで数十日間あまりの攻防戦を展開して、北条軍を撃退したとのこと。このあと字が読めませんでしたが、若干16歳の少年武将だった茂木与茂九郎の奮戦ぶりが記されています。また、翌年の弘治元年に、再び北条軍の攻撃を受けて激戦となりながら、久留里城が落ちることはなく、難攻不落の名を坂東に知らしめたという内容でしめくくられています。
戦国時代に入った関東では、北条氏が小田原に進出し、やがて三浦半島にまで勢力を伸ばしました。このことは、江戸湾を挟んだ安房国を拠点に勢力拡大を成していった里見氏にも大きく影響します。里見氏と小田原北条氏の関係は、周辺の勢力との兼ね合いも含めてかなり複雑なものとなり、やがて幾度となく戦うことになります。このうち、久留里城付近を舞台とした1554年・1555年の激突に関しては、里見軍が北条軍を退けました。
強敵を退けた里見氏の雄姿をたたえる石碑ということですね
■訪問:里見北条古戦史碑
(久留里城薬師曲輪跡)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
・里見北条古戦史碑
(上総ライオンズクラブ)
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山城に鎮座する八幡神(久留里城)雨城八幡神社
<雨城八幡神社>うじょう
久留里城跡の雨城八幡神社です。雨城(うじょう)とは久留里城の別名です。
<薬師曲輪跡>
雨城八幡神社はほぼ山頂に位置する薬師曲輪跡に鎮座しています。
城跡の神社というと、城の鬼門に祀られたことに始まるとか、城主の氏神とかを想像してしまいますよね。しかし、残念ながら現地に御由緒や説明板は見当たらず、創建時期や歴史等は分かりません。御祭神が八幡神であることは間違いありませんね。
<久留里城本丸跡>
久留里城を居城とした里見氏は、清和天皇から始まる源氏の新田氏一族の分家です。その里見氏が、源氏の氏神八幡神を祀ったのが雨城八幡神社のはじまり?とはどこにも記されていませんが、素人会社員の城巡りですので、そうだったら良いなぁと勝手な想像を膨らませて楽しんでまいりました。
<八幡宮>
根拠を示せず恐縮ですが、現地で似たようなことを思う方がいてくれたら嬉しいです。
最後にまともな話を
久留里城がなぜ雨城と呼ばれているかだけご紹介しておきます。
<雨城の説明板>
こちらは山を登る途中で撮影した説明板です。以下に転記させて頂きます。
『久留里城のことを、雨城とも言います。「築城後、三日に一度の割合で、雨が降ったので、雨城と言うようになった」と、古書「久留里記」に記されています。』
とのことです。
■訪問:雨城八幡神社
(久留里城薬師曲輪跡)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
雨城に関する説明板
お城巡りランキング
久留里城跡の雨城八幡神社です。雨城(うじょう)とは久留里城の別名です。
<薬師曲輪跡>
雨城八幡神社はほぼ山頂に位置する薬師曲輪跡に鎮座しています。
城跡の神社というと、城の鬼門に祀られたことに始まるとか、城主の氏神とかを想像してしまいますよね。しかし、残念ながら現地に御由緒や説明板は見当たらず、創建時期や歴史等は分かりません。御祭神が八幡神であることは間違いありませんね。
<久留里城本丸跡>
久留里城を居城とした里見氏は、清和天皇から始まる源氏の新田氏一族の分家です。その里見氏が、源氏の氏神八幡神を祀ったのが雨城八幡神社のはじまり?とはどこにも記されていませんが、素人会社員の城巡りですので、そうだったら良いなぁと勝手な想像を膨らませて楽しんでまいりました。
<八幡宮>
根拠を示せず恐縮ですが、現地で似たようなことを思う方がいてくれたら嬉しいです。
最後にまともな話を
久留里城がなぜ雨城と呼ばれているかだけご紹介しておきます。
<雨城の説明板>
こちらは山を登る途中で撮影した説明板です。以下に転記させて頂きます。
『久留里城のことを、雨城とも言います。「築城後、三日に一度の割合で、雨が降ったので、雨城と言うようになった」と、古書「久留里記」に記されています。』
とのことです。
■訪問:雨城八幡神社
(久留里城薬師曲輪跡)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
雨城に関する説明板
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