ビルが建ち並ぶ東京のど真ん中。ひっそりとしていながら、神聖な空気が漂います。ここは平将門を供養している場所です。
■平将門の首塚■ たいらのまさかど
戦いに敗れた平将門の首級は、平安京まで運ばれ、都大路の河原に晒されました。3日目に夜空へ舞い上がり、故郷に向かって飛んでゆきましたが、力尽きてこの地に落ちたと伝えられています。将門の首級が落ちたと伝わる場所は他にも複数ありますが、ここ大手町が最も有名な伝承地。ちなみに、「さらし首」という言葉はよく耳にしますが、史料で確認できる範囲では将門が最初だそうです。
<大手町>
将門塚の位置に黄色の丸で加筆させてもらいました。正直言って、遠くからはあまり目立ちません。三井物産本社ビル付近、住所だと千代田区大手町一丁目2番1号になります。
<説明板>
将門首塚の由来が記されています。
<屋敷跡>
右手の説明板によれば、ここは江戸時代、酒井雅楽頭(譜代大名)の上屋敷だったそうです。
■平将門の戦い■
平将門は桓武平氏の武将。下総国佐倉(現在の佐倉市)を領有していました。上総国の国司であった父の死後、将門はまず身内と争って勝利、そしてその勢いは関東の他の国へと及びました。やがて自らを「新皇」と称し、朝廷と対立する立場に。つまり、朝廷からみて逆賊となったわけですね。しかし勢いもそこまで。関東武士・藤原秀郷らによって討たれました。
上の説明板から引用すると『平良将の子将門は 下総国に兵を起し 忽ちにして坂東八ヶ国を平定 自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが 平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった』とのこと。
[将門塚保存会説明を抜粋]
<神田明神の幟>
14世紀初頭に疫病が流行。「これは将門の祟りだ」と噂されました。そこで神田明神が将門の霊を供養したところ、蔓延していた疫病が収まりました。これを機に、神田明神では平将門を神として祀ったそうです。
ただ明治時代になると、天皇が参拝する神社に「逆臣」が祀られていることが不都合となり、祭神から外されてしまったそうです。再び将門が神として祀られたのは昭和になってから。しかも昭和59年といいますから、復活までずいぶん長い時間を要したわけですね。
<神田明神による説明>
少し抜粋すると、『(平将門公は)武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』とのこと。
西暦800年代の話ですからね。「強き」は絶大な権力を持つ朝廷から派遣された役人、そして「弱き」は民衆ということでしょう。搾取され続ける民衆の立場からすれば、将門は英雄だったのかもしれません。
<将門塚碑>
当ブログ、お墓の類は極力撮影を避けますが、こちらは供養碑ということで。ガラス張りとなっています。畏れ多くも、直接触れようとする方が多いからでしょうか。
<カエルの置き物>
傍らにガマガエルの置き物。ここだけでなく、周辺には多数の蛙の置物が奉納されています。将門の首が胴体を求めて飛んできたという伝説から「無事にカエル」という意味が込められているとのこと。そんな願いから、この地を訪れる人もいるわけですね。
ここ将門塚については、「移設しようとすると関係者が急死する」といった言い伝えがあります。最近でも、触れれば祟られると噂されたり、心霊スポットとして取り上げられたりしています。
受けとめ方は人それぞれで良いと思います。どうであれ、多くの人が訪れているのは事実。今回の私の訪問時(日曜日)にも、人が途切れることはありませんでした。
日本には「たたり神」という言葉、というか考え方が存在します。普通なら恐れられたり避けられたりする対象が、手厚く祀りあげることで、逆に強力な守護神となるという考え方です。菅原道真の例と同じく、将門が祀られる背景には、こういうものの捉え方があるわけですね。権力に苦しめられる民衆にとって、既存の権力を打ち砕く将門はどんな存在だったのでしょうか。それを感じてみる。思いを馳せてみる。日本人らしいとはどういうことなのか、気付く機会になるのではないでしょうか。
私なりに思うところがありましたが、それは私の内側にしまっておきます。ただ「鎮魂」という言葉の意味が、この日はいつもより重く感じられました。
<平将門の首塚>
怖い場所ではありません
たくさんの人たちから崇敬を受け続けてきた場所なのです。
以上です。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
■訪問:平将門の首塚(将門塚)
[東京都千代田区大手町]1-2-1
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