最後の将軍となった徳川慶喜の墓所を訪ねました。
■谷中霊園■やなかれいえん
<霊園内>
ここにはたくさんの著名人のお墓があります。横山大観や渋沢栄一などなど。お墓そのものは撮影したくないので、とりあえず満開の桜を。都会のど真ん中とは思えない美しい場所で、訪れる人もたくさんです。ただどうでしょう。やはり墓地です。はしゃぐ場所ではないし、夜の訪問はちょっと遠慮したいですね。
<案内>
約七千のお墓があるそうです。とにかく広すぎて、どうなることかと思いましたが大丈夫。とても親切です。
<墓所到着>
どうやら到着したようです。この柵に囲まれた一画が徳川慶喜墓所です。葵の御紋がついたお墓の前は、やはり佇む人が多く、少し待ってから正面へ向かいました。それでも、人が途切れることはありませんでした。
<徳川慶喜墓所>
こちらが正面。中には入れませんが、様子は充分に伺えます。
独特のお墓(円墳状の墓)の隣には『従位勲一等徳川慶喜墓』と刻まれた石柱があります。柵の間から望遠で撮影できますが、気持ちとして私はここまで。静けさの中に放たれる威光。これを感じただけで充分です。
拝見させて頂きました。ありがとうございます。
■最後の将軍■
徳川慶喜というと、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか?最後の将軍。まぁその通りですね。同じことを「最後の征夷大将軍」と言い直すと、かなり感慨深いものがありませんかね?。私だけでしょうか・・・
更に慶喜に関してもうひとつ気になっていたのが、今回訪問の墓所です。他の将軍が増上寺や寛永寺に埋葬されているのに、慶喜だけは別。「そういうものか」と漠然と事実だけを受け入れていましたが、今回を機に調べました。まぁいろいろ説はあるにせよ、2つに絞られるような気がします。
まずひとつ目は、慶喜は将軍職を辞めた人物であることから、歴代将軍の墓所には墓を建てられなかったとする考え方です。そしてもう一つは、明治天皇に感謝の意を示す為に、自らの葬儀は仏式ではなく、神式で行なうように遺言したためとする説です。この背景として、慶喜は歴代天皇陵が質素なことにいたく感動していたという話があります。
将軍を辞職した。まぁそういう捉え方もありますかね。慶喜が新政府軍と戦って討ち死にしていたら、菩提寺に眠ることができた。筋から言うと、そういうことですね。時代背景を考えると、望ましいとは思えませんね。ならば、これで良かったとご本人もお思いになるのではないでしょうか。
明治天皇に感謝。私個人が抱く慶喜イメージだと、これがしっくりきます。繰り返しますが、私個人のイメージです。慶喜は1837年生まれ(水戸藩主の七男として江戸藩邸にて誕生)。将軍辞職が1867年ですから、まだ30歳です。没するのが1913年で76歳ですから、その後の人生の方がずっとずっと長いわけですね。将軍を辞した慶喜は、静岡で趣味に没頭する日々を送り、政治的な野心は全く持たなかったようです。やがて30年もの時を経て、慶喜は東京の巣鴨に転居。1902年には公爵に叙せられ、貴族院議員となります。これにより35年振りに政治と関わることになるのですが、それは野心とは程遠い姿だったようです。政治と無関係に過ごした35年という長い年月と、かつて不本意ながらも『朝敵』のような立場だった自分に与えられた待遇。明治天皇に感謝する思いがあったというのが、自然な流れと受けとめたいですね。
■つわものどもが夢の跡■
1908年の春、慶喜は明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されます。これは大政奉還の功によるものでした。武家の棟梁が支配する世の中は、源頼朝から始まりました。そして徳川慶喜により幕引きとなったわけですね。
将軍としての慶喜の評価はバラバラです。何を軸に評価するかで、最高にも最低にも成り得ます。これほど極端に評価が分かれること自体が、いかに厳しい環境に立たされていたを物語っているような気がします。
■谷中霊園■
[東京都台東区谷中]7丁目
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--------(追 記)--------
当ブログは、私の個人的な思いが込められていたり、歴史認識で一般的ではないものも混じっている可能性があります(今回は特にあり得ると思っています)。追記として、現地で撮影した説明板(東京都教育委員会さんの説明)をそのまま掲載します。
<説明板>
東京都指定史跡 徳川慶喜墓
所在地:台東区谷中7-2 寛永寺墓地内
指定:昭和44年3月27日
徳川慶喜(1837から1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、大5代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
平成22年3月建設 東京都教育委員会
2018年03月30日
2018年03月29日
鬼門を守った徳川家菩提寺(寛永寺)
つわものどもが夢の跡
今回の訪問は寛永寺。増上寺と並ぶ徳川家菩提寺です。
<徳川家霊廟>
徳川将軍15代のうち6人が眠る場所です。
■寛永寺■かんえいじ
<根本中堂>こんぽんちゅうどう
天台宗関東総本山。江戸時代初期、徳川家康の側近となり、江戸の都市計画に強い影響を与えた天海によって開山されたお寺です。天海は家康・秀忠・家光の三代から信頼を得た天台宗の層。寛永寺の建立は寛永2年で、三代将軍家光の時です。創建時の元号がそのまま使われているわけですね。今と違って、これは結構重みのあることなのではないでしょうか。
<書院>
根本中堂の裏手。いい雰囲気です。非公開ですが、ここにはあの徳川慶喜が蟄居していた部屋があるそうです。
<境内>
むかしの寛永寺は、いまでいう上野公園をも含んでいたということですから、そうとう広かったわけですね。上野公園と言えば、思い出すのは上野の山と不忍池(しのばずのいけ)。この立地に深い意味があったようです。
■東の比叡山■
寛永寺の山号は東叡山(とうえいざん)。「東の比叡山」という意味ですね。比叡山は京の都からみて北東(丑寅)。ここに建立された延暦寺は、都の鬼門を守る役割を担ってきました。「東の比叡山」である寛永寺の存在は、この構図とまったく同じです。延暦寺にならって江戸の北東、つまり鬼門の方角に建てられました。ちなみに、反対側の南西、つまり裏鬼門には増上寺が位置しているとも言われています。鬼門と裏鬼門にある2つの寺が、徳川家の菩提寺ということになりますね。ただこれには諸説あるので、増上寺のことはあくまで参考程度に。
そして上野の不忍池ですが、これは琵琶湖に見立てられたと考えて間違いありません。まぁちょっとスケールに違いがありますが、存在する意味として受け取って下さい。弁財天が祀られている不忍池の中の島は、琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)を模したといわれています。
天海はひとりの僧というより徳川家のブレーン的な存在。江戸の町は風水を背景に設計されたという話がよく聞かれますが、天海の影響が強くあらわれていることは間違いありません。
この風水の考え方(四神相応など)も興味深いところではありますが、その捉え方にも諸説ある上に、私本人も薄っぺらな知識しかないのでまたいつか。ただ北東の方位を鬼門と呼び、鬼が出入りする方角として忌み嫌われてきたことは良く知られていますよね。城郭巡りをしていると、城からみて北東に寺や神社が設けられている光景をよく目にします。これは鬼門を封じているわけですね。
<説明板>
現地に大きな説明板が設置されています。寺院に精通しているわけではないので助かります。これなら予備知識少な目でいきなり訪問しても大丈夫。
■江戸に二つの菩提寺■
徳川家の菩提寺は?と聞かれると、まず港区の『増上寺』が思い浮かびます。そういう方、結構多いのではないでしょうか。しかし今回訪問の寛永寺も徳川家菩提寺。どっちが本当?ではなく、両方です。
江戸に入った家康が、徳川家菩提寺と定めたのは増上寺でした。増上寺はもともとあった寺です。これに対し、ここ寛永寺は江戸時代になってから建立された寺。当初はあくまで徳川家の祈祷寺という位置づけでしたが、先述のような天海の影響力もあり、まぁいろいろと経緯はあったようですが、結果としては増上寺と並ぶ徳川家菩提寺となっています。
ちょっと状況を整理すると、15人の将軍の墓所は下記の通り。家康と家光の墓所は日光、最後の将軍である慶喜は諸事情から別となっているので、残るは12人ですね。
●寛永寺
家綱(4代)・綱吉(5代)・吉宗(8代)・家治(10代)・家斉(11代)・家定(13代)
●増上寺
秀忠(2代)・家宣(6代)・ 家継(7代)・家重(9代)・家慶(12代)・家茂(14代)
結果的なのか、意図的なのか、とにかく6人ずつとなっています。
■上野戦争■寺の荒廃
戊辰戦争の時に「上野の山」で戦闘があったことは良く知られていますね。この時に旧幕府軍(江戸城の無血開城に不満を持つ彰義隊)が集結したのがここ寛永寺でした。これを新政府軍が包囲。そして戦闘に至りました。江戸時代を通して保たれた寛永寺の姿は、この時に失われました。また、寺領の大半は新政府により没収となったことから、すぐに復興というわけにはいかなかったようです。
現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院から移築されたもの。もともと寛永寺にあった根本中堂は、彰義隊と新政府軍の戦いの際に焼失してしまいました。
■徳川歴代将軍御霊廟■
さて、本日のテーマの墓所へ
<勅額門>ちょくがくもん
第二次世界大戦で、お墓に付随する貴重な建造物の大半は焼失したとのこと。増上寺もそうでした。とても残念でですね。ただこの門は難を逃れました。とても貴重です。
<重要文化財>
重要文化財に指定されています。
6人の将軍がこの門の奥で眠られているわけですね。
綱吉と吉宗は歴代将軍の中でも比較的人気者。そのお二人がここ寛永寺。あまり不謹慎なことは言えませんが、将軍さまの人気度合だと、もう一つの菩提寺である増上寺に勝るかもしれませんね。私個人は戦国武将ファンなので、家康の後継者であり、信康や秀康の弟である秀忠に思い入れがありますが、さて一般的にはどうなんでしょう。
将軍を中心に説明してきましたが、あの篤姫(天璋院)のお墓もこの奥です。ちょっと寛永寺が有利ですかね。逆に、なおさら増上寺を応援したくなりました。
あくまで墓所ですが、とても新鮮な気分になりました。今に残る徳川幕府のなごり。また訪問したいですね。
■訪問:寛永寺
[東京都台東区上野桜木]
お城巡りランキング
---------- 画像追加 ----------
上野公園を訪問した時の画像を追加で貼っておきます。
<東叡山全景>
現在の上野公園一帯が寛永寺の境内でした。
<清水観音堂>
京都の清水寺を模した舞台造りのお堂です。不忍池を見下ろせる斜面上に築かれました。
<旧寛永寺五重塔>
重要文化財です
<上野東照宮>
寛永寺の境内に創建された東照社が上野東照宮のはじまりです。こちらも重要文化財です。
今回の訪問は寛永寺。増上寺と並ぶ徳川家菩提寺です。
<徳川家霊廟>
徳川将軍15代のうち6人が眠る場所です。
■寛永寺■かんえいじ
<根本中堂>こんぽんちゅうどう
天台宗関東総本山。江戸時代初期、徳川家康の側近となり、江戸の都市計画に強い影響を与えた天海によって開山されたお寺です。天海は家康・秀忠・家光の三代から信頼を得た天台宗の層。寛永寺の建立は寛永2年で、三代将軍家光の時です。創建時の元号がそのまま使われているわけですね。今と違って、これは結構重みのあることなのではないでしょうか。
<書院>
根本中堂の裏手。いい雰囲気です。非公開ですが、ここにはあの徳川慶喜が蟄居していた部屋があるそうです。
<境内>
むかしの寛永寺は、いまでいう上野公園をも含んでいたということですから、そうとう広かったわけですね。上野公園と言えば、思い出すのは上野の山と不忍池(しのばずのいけ)。この立地に深い意味があったようです。
■東の比叡山■
寛永寺の山号は東叡山(とうえいざん)。「東の比叡山」という意味ですね。比叡山は京の都からみて北東(丑寅)。ここに建立された延暦寺は、都の鬼門を守る役割を担ってきました。「東の比叡山」である寛永寺の存在は、この構図とまったく同じです。延暦寺にならって江戸の北東、つまり鬼門の方角に建てられました。ちなみに、反対側の南西、つまり裏鬼門には増上寺が位置しているとも言われています。鬼門と裏鬼門にある2つの寺が、徳川家の菩提寺ということになりますね。ただこれには諸説あるので、増上寺のことはあくまで参考程度に。
そして上野の不忍池ですが、これは琵琶湖に見立てられたと考えて間違いありません。まぁちょっとスケールに違いがありますが、存在する意味として受け取って下さい。弁財天が祀られている不忍池の中の島は、琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)を模したといわれています。
天海はひとりの僧というより徳川家のブレーン的な存在。江戸の町は風水を背景に設計されたという話がよく聞かれますが、天海の影響が強くあらわれていることは間違いありません。
この風水の考え方(四神相応など)も興味深いところではありますが、その捉え方にも諸説ある上に、私本人も薄っぺらな知識しかないのでまたいつか。ただ北東の方位を鬼門と呼び、鬼が出入りする方角として忌み嫌われてきたことは良く知られていますよね。城郭巡りをしていると、城からみて北東に寺や神社が設けられている光景をよく目にします。これは鬼門を封じているわけですね。
<説明板>
現地に大きな説明板が設置されています。寺院に精通しているわけではないので助かります。これなら予備知識少な目でいきなり訪問しても大丈夫。
■江戸に二つの菩提寺■
徳川家の菩提寺は?と聞かれると、まず港区の『増上寺』が思い浮かびます。そういう方、結構多いのではないでしょうか。しかし今回訪問の寛永寺も徳川家菩提寺。どっちが本当?ではなく、両方です。
江戸に入った家康が、徳川家菩提寺と定めたのは増上寺でした。増上寺はもともとあった寺です。これに対し、ここ寛永寺は江戸時代になってから建立された寺。当初はあくまで徳川家の祈祷寺という位置づけでしたが、先述のような天海の影響力もあり、まぁいろいろと経緯はあったようですが、結果としては増上寺と並ぶ徳川家菩提寺となっています。
ちょっと状況を整理すると、15人の将軍の墓所は下記の通り。家康と家光の墓所は日光、最後の将軍である慶喜は諸事情から別となっているので、残るは12人ですね。
●寛永寺
家綱(4代)・綱吉(5代)・吉宗(8代)・家治(10代)・家斉(11代)・家定(13代)
●増上寺
秀忠(2代)・家宣(6代)・ 家継(7代)・家重(9代)・家慶(12代)・家茂(14代)
結果的なのか、意図的なのか、とにかく6人ずつとなっています。
■上野戦争■寺の荒廃
戊辰戦争の時に「上野の山」で戦闘があったことは良く知られていますね。この時に旧幕府軍(江戸城の無血開城に不満を持つ彰義隊)が集結したのがここ寛永寺でした。これを新政府軍が包囲。そして戦闘に至りました。江戸時代を通して保たれた寛永寺の姿は、この時に失われました。また、寺領の大半は新政府により没収となったことから、すぐに復興というわけにはいかなかったようです。
現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院から移築されたもの。もともと寛永寺にあった根本中堂は、彰義隊と新政府軍の戦いの際に焼失してしまいました。
■徳川歴代将軍御霊廟■
さて、本日のテーマの墓所へ
<勅額門>ちょくがくもん
第二次世界大戦で、お墓に付随する貴重な建造物の大半は焼失したとのこと。増上寺もそうでした。とても残念でですね。ただこの門は難を逃れました。とても貴重です。
<重要文化財>
重要文化財に指定されています。
6人の将軍がこの門の奥で眠られているわけですね。
綱吉と吉宗は歴代将軍の中でも比較的人気者。そのお二人がここ寛永寺。あまり不謹慎なことは言えませんが、将軍さまの人気度合だと、もう一つの菩提寺である増上寺に勝るかもしれませんね。私個人は戦国武将ファンなので、家康の後継者であり、信康や秀康の弟である秀忠に思い入れがありますが、さて一般的にはどうなんでしょう。
将軍を中心に説明してきましたが、あの篤姫(天璋院)のお墓もこの奥です。ちょっと寛永寺が有利ですかね。逆に、なおさら増上寺を応援したくなりました。
あくまで墓所ですが、とても新鮮な気分になりました。今に残る徳川幕府のなごり。また訪問したいですね。
■訪問:寛永寺
[東京都台東区上野桜木]
お城巡りランキング
---------- 画像追加 ----------
上野公園を訪問した時の画像を追加で貼っておきます。
<東叡山全景>
現在の上野公園一帯が寛永寺の境内でした。
<清水観音堂>
京都の清水寺を模した舞台造りのお堂です。不忍池を見下ろせる斜面上に築かれました。
<旧寛永寺五重塔>
重要文化財です
<上野東照宮>
寛永寺の境内に創建された東照社が上野東照宮のはじまりです。こちらも重要文化財です。
2018年03月25日
最後の武士と桜 近藤勇墓所
つわものどもが夢の跡
今回の訪問は、満開の桜に囲まれた新撰組局長の墓所です。
<近藤勇像>こんどういさみ
近藤勇像。その左手が「供養塔」になります。
生まれで身分が固定されてしまう世の中。近藤勇はそんな秩序が崩壊し始めた時に、農民から武士となり、ついには幕臣にまで登り詰めた男でした。
■訪 問■駅から1分
<埼京線板橋駅>
近藤勇の墓所は、住所だと北区滝野川になりますが、JR埼京線の『板橋駅』から徒歩1分。わざわざ行くというより、意識していればフラっと寄れてしまう距離です。板橋駅の出口は2つしかありません。東口(滝野川口)のほうです。迷う方が難しいほど、本当に駅の目の前です。
<到着>
3月下旬。桜が出迎えてれました。
<駅前の桜>
これ公園とかではなく駅前ですよ!毎年この時期はこんな感じ。いい眺めです。喫煙所もあります(すみません。私はスモーカーです)。あとベンチも充実。その付近は禁煙ですからご安心下さい。
<墓所入口>
こちらが墓所の入口です。派手さはありませんが目立ちます。まぁ関心のない人は素通りとなりますが、探している人の目には自然と飛び込んできます。
近藤勇といえば、いわずと知れた幕末の武士ですね。そして新撰組局長。こちらでは「隊長」となっています。とにかくリーダーということですね。勇の名で通っていますが、実はこれは通称で、本名だと昌宜(まさよし)。まぁそれ以前、その後も名がたくさんあるので、あまりこだわる必要ありませんかね。新撰組局長・近藤勇です。
■近藤勇墓所■
当ブログ、お墓そのものの撮影はなるべく控えるようにしていますが、今回は墓所を訪ねているので・・・ちょっとだけ。気持ち遠くから。ここには、遠く離れた五稜郭で亡くなった土方歳三の供養碑もあります。
■最期の地■
冒頭でもふれさせてもらいましたが、近藤勇は農民の家に生まれました。生家は現在の東京都調布。私ながらく日野市と思っていましたが、勘違いだったようですね(土方歳三が日野出身)。社会が激動へ向かうなか、近藤勇は武士の身分を手に入れ、更には武士として認められるべく幕府に尽しました。
攘夷派を敵にまわして奮闘した新撰組、そのリーダー近藤勇。京を震撼させた武装集団は、利害の反する者たちからは憎まれて当然の存在ですね。幕府が屈することなく、時代が大きく変わることもなければ、英雄のように扱われたことでしょう。幕府の要職につけたかもしれません。
でも戦況は逆、ということは、扱われかたも逆になりますね。
千葉県の流山で、岩倉具定が率いる軍に追い詰められた近藤勇は出頭を決意。ここで、同志であり友だった土方歳三と別れることになります。身柄は板橋宿に送られ斬首に。ここ板橋で短い生涯を閉じました。切断された首は京都に送られ、三条河原で曝し首となりました。今回訪問の墓所には、胴体が埋葬されているそうです。
このあたりのお話、つまり近藤勇の最期についてはいろいろな話が出回っていて、どれが史実なのか私にはよくわかりません。ほんといろんな情報が交錯していますね。そこで、北区の飛鳥山博物館さんの説明をそのまま引用させて頂きます。以下はホームベージの写しです。
『慶応4年(1868)4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人である永倉新八が発起人となり造立されました。高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、銘文と近藤勇、土方歳三、合計110名の隊士などの名前が刻まれています。
本供養塔には、近藤勇のほか多くのゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。』
[出典元:北区飛鳥山博物館HP]
参考になりました。飛鳥山博物館さん、ありがとうございます。
さて、上の記載だと『一里塚付近に設けられた刑場』とありますね。街道の途中に臨時に設けたとも解釈できます。もしかしたら、けっこう質素な刑場だったのかもしれません。いろいろと悪い話も耳にしますが、今回は満開の桜のなか、地元の人に親しまれている武士の墓所を訪ねているので、そこには触れずにおきます。
■墓所が複数■
実は近藤勇の墓所と呼ばれている場所は他に複数あります。例えば東京都三鷹市、福島県会津若松市、あるいは山形県米沢市など。事実はわかりませんが、それぞれにいまでも訪れる人がいて、それぞれに近藤勇に思いを馳せる。それは間違いありませんね。墓所そのものより、時代を越えて多くの人たちが近藤勇を思うところに、本当の価値があることだと思います。男冥利に尽きる。そう感じます。
■つわものどもが夢の跡■
武士の世が終わりに近づくなかで、武士を夢見た豪傑でした。
<板橋駅東口>
35歳で散った最後の武士。私はここ板橋にて、その生涯にしばし思いを馳せました。
<武士の背中>
合いたくなったらまた来ます。
[東京都北区滝野川]
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今回の訪問は、満開の桜に囲まれた新撰組局長の墓所です。
<近藤勇像>こんどういさみ
近藤勇像。その左手が「供養塔」になります。
生まれで身分が固定されてしまう世の中。近藤勇はそんな秩序が崩壊し始めた時に、農民から武士となり、ついには幕臣にまで登り詰めた男でした。
■訪 問■駅から1分
<埼京線板橋駅>
近藤勇の墓所は、住所だと北区滝野川になりますが、JR埼京線の『板橋駅』から徒歩1分。わざわざ行くというより、意識していればフラっと寄れてしまう距離です。板橋駅の出口は2つしかありません。東口(滝野川口)のほうです。迷う方が難しいほど、本当に駅の目の前です。
<到着>
3月下旬。桜が出迎えてれました。
<駅前の桜>
これ公園とかではなく駅前ですよ!毎年この時期はこんな感じ。いい眺めです。喫煙所もあります(すみません。私はスモーカーです)。あとベンチも充実。その付近は禁煙ですからご安心下さい。
<墓所入口>
こちらが墓所の入口です。派手さはありませんが目立ちます。まぁ関心のない人は素通りとなりますが、探している人の目には自然と飛び込んできます。
近藤勇といえば、いわずと知れた幕末の武士ですね。そして新撰組局長。こちらでは「隊長」となっています。とにかくリーダーということですね。勇の名で通っていますが、実はこれは通称で、本名だと昌宜(まさよし)。まぁそれ以前、その後も名がたくさんあるので、あまりこだわる必要ありませんかね。新撰組局長・近藤勇です。
■近藤勇墓所■
当ブログ、お墓そのものの撮影はなるべく控えるようにしていますが、今回は墓所を訪ねているので・・・ちょっとだけ。気持ち遠くから。ここには、遠く離れた五稜郭で亡くなった土方歳三の供養碑もあります。
■最期の地■
冒頭でもふれさせてもらいましたが、近藤勇は農民の家に生まれました。生家は現在の東京都調布。私ながらく日野市と思っていましたが、勘違いだったようですね(土方歳三が日野出身)。社会が激動へ向かうなか、近藤勇は武士の身分を手に入れ、更には武士として認められるべく幕府に尽しました。
攘夷派を敵にまわして奮闘した新撰組、そのリーダー近藤勇。京を震撼させた武装集団は、利害の反する者たちからは憎まれて当然の存在ですね。幕府が屈することなく、時代が大きく変わることもなければ、英雄のように扱われたことでしょう。幕府の要職につけたかもしれません。
でも戦況は逆、ということは、扱われかたも逆になりますね。
千葉県の流山で、岩倉具定が率いる軍に追い詰められた近藤勇は出頭を決意。ここで、同志であり友だった土方歳三と別れることになります。身柄は板橋宿に送られ斬首に。ここ板橋で短い生涯を閉じました。切断された首は京都に送られ、三条河原で曝し首となりました。今回訪問の墓所には、胴体が埋葬されているそうです。
このあたりのお話、つまり近藤勇の最期についてはいろいろな話が出回っていて、どれが史実なのか私にはよくわかりません。ほんといろんな情報が交錯していますね。そこで、北区の飛鳥山博物館さんの説明をそのまま引用させて頂きます。以下はホームベージの写しです。
『慶応4年(1868)4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人である永倉新八が発起人となり造立されました。高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、銘文と近藤勇、土方歳三、合計110名の隊士などの名前が刻まれています。
本供養塔には、近藤勇のほか多くのゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。』
[出典元:北区飛鳥山博物館HP]
参考になりました。飛鳥山博物館さん、ありがとうございます。
さて、上の記載だと『一里塚付近に設けられた刑場』とありますね。街道の途中に臨時に設けたとも解釈できます。もしかしたら、けっこう質素な刑場だったのかもしれません。いろいろと悪い話も耳にしますが、今回は満開の桜のなか、地元の人に親しまれている武士の墓所を訪ねているので、そこには触れずにおきます。
■墓所が複数■
実は近藤勇の墓所と呼ばれている場所は他に複数あります。例えば東京都三鷹市、福島県会津若松市、あるいは山形県米沢市など。事実はわかりませんが、それぞれにいまでも訪れる人がいて、それぞれに近藤勇に思いを馳せる。それは間違いありませんね。墓所そのものより、時代を越えて多くの人たちが近藤勇を思うところに、本当の価値があることだと思います。男冥利に尽きる。そう感じます。
■つわものどもが夢の跡■
武士の世が終わりに近づくなかで、武士を夢見た豪傑でした。
<板橋駅東口>
35歳で散った最後の武士。私はここ板橋にて、その生涯にしばし思いを馳せました。
<武士の背中>
合いたくなったらまた来ます。
[東京都北区滝野川]
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2018年03月24日
徳川家菩提寺の桜 増上寺
つわものどもが夢の跡
今回の訪問は増上寺。いわずと知れた徳川家の菩提寺です。春の訪れを告げる桜が開花し始めました。
■咲き始め■まだまだこれから
<大梵鐘>
数日前の雪が嘘のような穏やかな春の日。桜が急に勢いを増してきました。境内の桜は約200本。まだ満開とまではいきませんが、場所によっては見応えがあります。
<三解脱門と桜>
歴史ある建造物と桜のコントラスト。景色として深みがありますね。この「三解脱門(さんげだつもん)」は国の重要文化財。戦争で多大な被害のあった増上寺ですが、難を逃れた貴重な門です。
■徳川家菩提寺■
江戸に入った家康が徳川家菩提寺と定めた増上寺。徳川将軍15代のうち6人が眠る場所です。戦前まであったという国宝級の霊廟は焼失してしまいましたが、全体として今でも立派。そして深い歴史の刻まれたお寺です。
<三解脱門(正面)>
威風堂々。この画像、人がいっぱいだったので下の方は避けて撮影してます。 手前は日比谷通り。
三解脱門はその名が示すとおり、3つの煩悩(むさぼり・いかり・おろかさ)を解脱する門。私も門をくぐりましたので、もう何も悩みがなくスッキリしてます・・・(そんな安易なものではありません)。
<三つ葉葵>
その紋所、目に入っております
<大殿と桜と東京タワー>
浄土宗の寺院。立派な本堂です。こちらは1975年に再建されたものです。
■もうひとつの菩提寺■
実は徳川家菩提寺と呼ばれるお寺はもう一つあります。寛永寺(かんえいじ)です。当初は徳川家の祈祷寺という位置づけで、菩提寺ではありませんでした。しかし徳川将軍15代のうち、6人が葬られています。人数だと増上寺と同じですね。
増上寺は家康が江戸へ入る以前から存在した寺院。前身である光明寺が、空海の弟子により建立されたのが9世紀というからそうとう古いですね。これに対し、寛永寺は江戸時代になってから新たに建立された寺院。この背景には家康に側近として仕えた天台宗の僧『天海』の存在がありました。天海の進言により、江戸城の鬼門にあたる上野に天台宗の寺院が建立された。これが寛永寺の始まりです。よく京の都の鬼門を守る比叡山延暦寺に例えられますね。寛永寺も徳川家の手厚い保護を受けたお寺ですが、菩提寺となるのは家康の死後の話。家康にとっては、徳川家菩提寺は増上寺のままだったということですね。
■歴代将軍6人とは■
ここ増上寺は秀忠を筆頭に6人の墓所となります。
秀忠(2代)・家宣(6代)・ 家継(7代)・家重(9代)・家慶(12代)・家茂(14代)
先述の寛永寺は家綱(4代)・綱吉(5代)・吉宗(8代)・家治(10代)・家斉(11代)・家定(13代)。初代と三代は特別で、家康が日光東照宮、家光は日光山輪王寺。それから最後の将軍となった慶喜ですが、増上寺でも寛永寺でもなく、台東区の谷中霊園に眠ります。この経緯はちょっとわからないのですが、慶喜は大政奉還で将軍という職を辞したからというお話もありますが、一方で仏式ではなく神式で葬儀を行なうよう遺言したという話もあります。
■御廟所■
<安国殿>
大殿となりの安国殿。この右側に廟所への入り口があります。
<入口>
分りやすくしてもらっています。
<千躰地蔵尊>
このお地蔵さんの脇を通って進みます。ここに限らず、境内には多数のお地蔵さんが並んでいます。赤い帽子と風車。総じてかわいい顔が多いですね。それもそのはず。子供に幸多きことを願うための地蔵尊です。
さて、いよいよ
<徳川家廟所>
こちらになります。徳川秀忠を含む6人の将軍が眠る場所。
<鋳抜門>
正室・側室ほかも、この門の奥に埋葬されているそうです。特別期間は中へ入ることもできますが、私はここまででした。
■他を散策■
せっかく来たので、あとは目的もなくてくてくと
<黒門>
三代将軍家光が増上寺に寄進した門。正面の門(解脱門)の向かって左手のほうにあります。現在は通用門的な使われ方となっていますが、かつて増上寺の方丈の表門であったことから方丈門と呼ばれたそうです。個人的に地味好みなので、やや老朽化しているところも含め、魅力的に感じてしまいます。
<台徳院霊廟惣門>たいとくいんれいびょう
もともとは秀忠の霊廟の表門。霊廟は戦災で大半が失われました。焼失を免れた惣門が現在ここに移設されています。左右には金剛力士像、そして見た目はご覧の通り。門だけでもこれだけの立派さなのです。現在の廟所はやや地味で、個人的には好きですが、本来もっと豪華だったことが伝わってきますね。
<大門>
こちらはいわゆる大門(現在は鉄筋)。浜松町方面から増上寺へ向かう途中にあります。お店も多いので、この付近で飲んだ経験のある方も多いのではないでしょうか(私も時々)。
■つわものどもが夢の跡■
徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を樹立したのが1603年。徳川慶喜が政権返上を決意した大政奉還が1867年。江戸時代の定義にもいろいろあるようですが、いずれにしても250年以上ですね。
故郷を離れ、新天地でみつけた増上寺を菩提寺と定めた家康。子孫の安泰を夢見たことは間違いありませんが、250年も先まで見据えていたでしょうか。徳川家代々でつないだ歴史は、家康本人の夢を越えたのかもしれませんね。
■増上寺■
最寄駅:芝公園・御成門・大門
[東京都港区芝公園]4
今回の訪問は増上寺。いわずと知れた徳川家の菩提寺です。春の訪れを告げる桜が開花し始めました。
■咲き始め■まだまだこれから
<大梵鐘>
数日前の雪が嘘のような穏やかな春の日。桜が急に勢いを増してきました。境内の桜は約200本。まだ満開とまではいきませんが、場所によっては見応えがあります。
<三解脱門と桜>
歴史ある建造物と桜のコントラスト。景色として深みがありますね。この「三解脱門(さんげだつもん)」は国の重要文化財。戦争で多大な被害のあった増上寺ですが、難を逃れた貴重な門です。
■徳川家菩提寺■
江戸に入った家康が徳川家菩提寺と定めた増上寺。徳川将軍15代のうち6人が眠る場所です。戦前まであったという国宝級の霊廟は焼失してしまいましたが、全体として今でも立派。そして深い歴史の刻まれたお寺です。
<三解脱門(正面)>
威風堂々。この画像、人がいっぱいだったので下の方は避けて撮影してます。 手前は日比谷通り。
三解脱門はその名が示すとおり、3つの煩悩(むさぼり・いかり・おろかさ)を解脱する門。私も門をくぐりましたので、もう何も悩みがなくスッキリしてます・・・(そんな安易なものではありません)。
<三つ葉葵>
その紋所、目に入っております
<大殿と桜と東京タワー>
浄土宗の寺院。立派な本堂です。こちらは1975年に再建されたものです。
■もうひとつの菩提寺■
実は徳川家菩提寺と呼ばれるお寺はもう一つあります。寛永寺(かんえいじ)です。当初は徳川家の祈祷寺という位置づけで、菩提寺ではありませんでした。しかし徳川将軍15代のうち、6人が葬られています。人数だと増上寺と同じですね。
増上寺は家康が江戸へ入る以前から存在した寺院。前身である光明寺が、空海の弟子により建立されたのが9世紀というからそうとう古いですね。これに対し、寛永寺は江戸時代になってから新たに建立された寺院。この背景には家康に側近として仕えた天台宗の僧『天海』の存在がありました。天海の進言により、江戸城の鬼門にあたる上野に天台宗の寺院が建立された。これが寛永寺の始まりです。よく京の都の鬼門を守る比叡山延暦寺に例えられますね。寛永寺も徳川家の手厚い保護を受けたお寺ですが、菩提寺となるのは家康の死後の話。家康にとっては、徳川家菩提寺は増上寺のままだったということですね。
■歴代将軍6人とは■
ここ増上寺は秀忠を筆頭に6人の墓所となります。
秀忠(2代)・家宣(6代)・ 家継(7代)・家重(9代)・家慶(12代)・家茂(14代)
先述の寛永寺は家綱(4代)・綱吉(5代)・吉宗(8代)・家治(10代)・家斉(11代)・家定(13代)。初代と三代は特別で、家康が日光東照宮、家光は日光山輪王寺。それから最後の将軍となった慶喜ですが、増上寺でも寛永寺でもなく、台東区の谷中霊園に眠ります。この経緯はちょっとわからないのですが、慶喜は大政奉還で将軍という職を辞したからというお話もありますが、一方で仏式ではなく神式で葬儀を行なうよう遺言したという話もあります。
■御廟所■
<安国殿>
大殿となりの安国殿。この右側に廟所への入り口があります。
<入口>
分りやすくしてもらっています。
<千躰地蔵尊>
このお地蔵さんの脇を通って進みます。ここに限らず、境内には多数のお地蔵さんが並んでいます。赤い帽子と風車。総じてかわいい顔が多いですね。それもそのはず。子供に幸多きことを願うための地蔵尊です。
さて、いよいよ
<徳川家廟所>
こちらになります。徳川秀忠を含む6人の将軍が眠る場所。
<鋳抜門>
正室・側室ほかも、この門の奥に埋葬されているそうです。特別期間は中へ入ることもできますが、私はここまででした。
■他を散策■
せっかく来たので、あとは目的もなくてくてくと
<黒門>
三代将軍家光が増上寺に寄進した門。正面の門(解脱門)の向かって左手のほうにあります。現在は通用門的な使われ方となっていますが、かつて増上寺の方丈の表門であったことから方丈門と呼ばれたそうです。個人的に地味好みなので、やや老朽化しているところも含め、魅力的に感じてしまいます。
<台徳院霊廟惣門>たいとくいんれいびょう
もともとは秀忠の霊廟の表門。霊廟は戦災で大半が失われました。焼失を免れた惣門が現在ここに移設されています。左右には金剛力士像、そして見た目はご覧の通り。門だけでもこれだけの立派さなのです。現在の廟所はやや地味で、個人的には好きですが、本来もっと豪華だったことが伝わってきますね。
<大門>
こちらはいわゆる大門(現在は鉄筋)。浜松町方面から増上寺へ向かう途中にあります。お店も多いので、この付近で飲んだ経験のある方も多いのではないでしょうか(私も時々)。
■つわものどもが夢の跡■
徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を樹立したのが1603年。徳川慶喜が政権返上を決意した大政奉還が1867年。江戸時代の定義にもいろいろあるようですが、いずれにしても250年以上ですね。
故郷を離れ、新天地でみつけた増上寺を菩提寺と定めた家康。子孫の安泰を夢見たことは間違いありませんが、250年も先まで見据えていたでしょうか。徳川家代々でつないだ歴史は、家康本人の夢を越えたのかもしれませんね。
■増上寺■
最寄駅:芝公園・御成門・大門
[東京都港区芝公園]4
2018年01月07日
太田道灌ゆかりの地
<桔梗門>ききょうもん
[千代田区] 江戸城 内桜田門
太田道灌の家紋(桔梗)がこの門の瓦についていたことが呼び名の由来です。この門より奥が江戸城の三の丸。皇居一般参観の時は、ここが入城門になっています。
■太田道灌ゆかりの地■
江戸城の築城者として有名な太田道灌。戦国初期の関東地方において、比類なき活躍をしながらも悲劇の結末でこの世を去りました。道灌と関係のある「ゆかりの地」は、関東に沢山ありますが、その一部を当ブログでも紹介させて頂いております。もっともっと訪問してみたいところはありますが、本日現在のリストです。
「これ何?」と思えるものがあったら、どうぞ覗いてみてて下さい(クリックで該当記事へ移動します)。
【埼玉県】
道灌ゆかりの寺 芳林寺(岩槻)
桜咲く道灌ゆかりの名城 (岩槻城)
山吹の里 (越生町) 若き日の道灌の逸話
道灌築城と伝わる朝霞市の城(岡城)
さいたま市岩槻区の芳林寺
【都内】
道灌vs豊島兄弟 (江古田原古戦場)
道灌の陣城跡 (沼袋氷川神社)
道灌橋の跡と井草川の暗渠(陣幕)
道灌館跡 (御殿山)
赤羽の地形と道灌築城の城跡(稲付城)
日暮里駅前広場
いまのところ以上です
[千代田区] 江戸城 内桜田門
太田道灌の家紋(桔梗)がこの門の瓦についていたことが呼び名の由来です。この門より奥が江戸城の三の丸。皇居一般参観の時は、ここが入城門になっています。
■太田道灌ゆかりの地■
江戸城の築城者として有名な太田道灌。戦国初期の関東地方において、比類なき活躍をしながらも悲劇の結末でこの世を去りました。道灌と関係のある「ゆかりの地」は、関東に沢山ありますが、その一部を当ブログでも紹介させて頂いております。もっともっと訪問してみたいところはありますが、本日現在のリストです。
「これ何?」と思えるものがあったら、どうぞ覗いてみてて下さい(クリックで該当記事へ移動します)。
【埼玉県】
道灌ゆかりの寺 芳林寺(岩槻)
桜咲く道灌ゆかりの名城 (岩槻城)
山吹の里 (越生町) 若き日の道灌の逸話
道灌築城と伝わる朝霞市の城(岡城)
さいたま市岩槻区の芳林寺
【都内】
道灌vs豊島兄弟 (江古田原古戦場)
道灌の陣城跡 (沼袋氷川神社)
道灌橋の跡と井草川の暗渠(陣幕)
道灌館跡 (御殿山)
赤羽の地形と道灌築城の城跡(稲付城)
日暮里駅前広場
いまのところ以上です
タグ:太田道灌
2017年08月18日
半蔵の眠る丘(西念寺)服部半蔵と徳川信康
戦国武将好きです。今回は服部半蔵ゆかりの地を訪ねました。家康の長男・信康ゆかりの地でもあります。
■西念寺■ さいねんじ
服部半蔵が開基した寺です。「忍者が寺?」と思われる方もいるかと思います。まず半蔵の身分ですが、伊賀国の出身で忍者の血をひく男ですが、厳密には武士。今川の家来から始まり、のちに徳川十六神将の一人に数えられた立派な武士です。
では「なぜ寺を?」ですね。これは徳川家康の長男・信康の菩提のため。「鬼の半蔵」とまで呼ばれた男のこの思いは、全く異なる時代を生きる私たちの心にも響くものがあります。四谷駅から徒歩圏内。閑静な住宅街にその寺を訪ねました。
<正門より撮影>
浄土宗の寺です(専称山安養院西念寺)
<説明板>
住所は新宿区若葉。江戸時代には徳川家に仕える伊賀衆の組屋敷があったとされています。服部半蔵は、徳川家に仕えるこの伊賀衆の組頭という立場でした。この位置から江戸城へ向かうと、いわゆる江戸城「半蔵門」に辿りつきます(説明するまでもなく、門の名の由来ですね)。
■服部半蔵と徳川信康■
織田信長の要求に従い、徳川家康は自分の長男・信康に対して切腹を命じます(1579年)。これにはいろんな説があります。私個人は「賢明にして勇猛果敢な徳川家の長男に対し、織田信長が将来を見据えて潰しにかかった」という説を信じています。まぁ他にもいろんな考え方があるようですが、とにかくどれをとっても信康本人からみたら理不尽な言い掛かりばかり。徳川家康の長男として生まれ、織田信長の長女を側室とし、将来有望と思われた信康ですが、僅か二十年の生涯を終えることになりました。
この時、介錯役を命じられたのは服部半蔵でした。主の息子です。服部半蔵をもってしても、これを果たすことはできませんでした(検死役が代わって介錯したそうです)。
半蔵が名を上げる家康の「伊賀越え」はこれより後の話(1582年)。明智光秀が本能寺で信長を討った直後ですね。このとき境にいた家康は、四面楚歌の上に僅かな家来しか連れていません。窮地の家康を、半蔵は伊賀盆地を経由して三河の岡崎まで送り届けました。小牧・長久手の戦い(1584年)や小田原征伐(1590年)でも、半蔵は活躍しました。そして晩年、半蔵は信康の菩提をとむらうため西念と号し、仏門に帰依したと伝わります。
<信康の供養塔>
半蔵は信康の慰霊のために供養塔を建て、その菩提を弔いながら余生を過ごしました。
<説明板>
岡崎三郎信康。松平宗家の居城である岡崎城主を務めたことから、岡崎三郎と名乗りました。松平信康、そして徳川信康でもあります。ただ、後の時代に「徳川」姓は将軍家と御三家のみに許されることとなり、信康は死後にも関わらず「松平」に格下げされました。
そこまでする?
と個人的には思いますが、歴史を操作できる立場の人は何でもしますからね。
私が信康の存在を意識するようになったきっかけは、ずばり「花の慶次」(原作:隆慶一郎・漫画:原哲夫)です。原哲夫さんは北斗の拳で有名ですね。小説家の隆慶一郎さんは「花の慶次」で知り、原作となった小説「一夢庵風流記」も読みました。それ以降ファンです。
その「花の慶次」の終盤、家康の次男・秀康が登場した時、兄の信康も一瞬だけ登場しました。不世出の武将にして心優しき男。そして父親から冷遇される腹違いの弟を不憫に思い、気を配る優しい兄。そう描かれていました。こういう若い時の記憶、というか思いは、なかなか変えられません。私にとっての信康のイメージは、いまも変わっていません。
徳川信康。世間でどう決められているかは関係なく、私にとっては今後も家康長男・徳川信康です。
■半蔵の眠る丘■
<服部半蔵の墓>
服部半蔵正成の墓。こちらはあくまで個人のお墓なので、何となく遠くから撮影しました。四谷は地形が複雑。お墓のすぐ右手は谷になっています。半蔵が亡くなったのは1596年。関ヶ原の戦いより前ですね。争いの世しか知らないままこの世を去りました。服部半蔵の眠る場所は、信康の供養塔のすぐそばです。
西念寺
[場所:東京都新宿区若葉]二丁目
お城巡りランキング
■西念寺■ さいねんじ
服部半蔵が開基した寺です。「忍者が寺?」と思われる方もいるかと思います。まず半蔵の身分ですが、伊賀国の出身で忍者の血をひく男ですが、厳密には武士。今川の家来から始まり、のちに徳川十六神将の一人に数えられた立派な武士です。
では「なぜ寺を?」ですね。これは徳川家康の長男・信康の菩提のため。「鬼の半蔵」とまで呼ばれた男のこの思いは、全く異なる時代を生きる私たちの心にも響くものがあります。四谷駅から徒歩圏内。閑静な住宅街にその寺を訪ねました。
<正門より撮影>
浄土宗の寺です(専称山安養院西念寺)
<説明板>
住所は新宿区若葉。江戸時代には徳川家に仕える伊賀衆の組屋敷があったとされています。服部半蔵は、徳川家に仕えるこの伊賀衆の組頭という立場でした。この位置から江戸城へ向かうと、いわゆる江戸城「半蔵門」に辿りつきます(説明するまでもなく、門の名の由来ですね)。
■服部半蔵と徳川信康■
織田信長の要求に従い、徳川家康は自分の長男・信康に対して切腹を命じます(1579年)。これにはいろんな説があります。私個人は「賢明にして勇猛果敢な徳川家の長男に対し、織田信長が将来を見据えて潰しにかかった」という説を信じています。まぁ他にもいろんな考え方があるようですが、とにかくどれをとっても信康本人からみたら理不尽な言い掛かりばかり。徳川家康の長男として生まれ、織田信長の長女を側室とし、将来有望と思われた信康ですが、僅か二十年の生涯を終えることになりました。
この時、介錯役を命じられたのは服部半蔵でした。主の息子です。服部半蔵をもってしても、これを果たすことはできませんでした(検死役が代わって介錯したそうです)。
半蔵が名を上げる家康の「伊賀越え」はこれより後の話(1582年)。明智光秀が本能寺で信長を討った直後ですね。このとき境にいた家康は、四面楚歌の上に僅かな家来しか連れていません。窮地の家康を、半蔵は伊賀盆地を経由して三河の岡崎まで送り届けました。小牧・長久手の戦い(1584年)や小田原征伐(1590年)でも、半蔵は活躍しました。そして晩年、半蔵は信康の菩提をとむらうため西念と号し、仏門に帰依したと伝わります。
<信康の供養塔>
半蔵は信康の慰霊のために供養塔を建て、その菩提を弔いながら余生を過ごしました。
<説明板>
岡崎三郎信康。松平宗家の居城である岡崎城主を務めたことから、岡崎三郎と名乗りました。松平信康、そして徳川信康でもあります。ただ、後の時代に「徳川」姓は将軍家と御三家のみに許されることとなり、信康は死後にも関わらず「松平」に格下げされました。
そこまでする?
と個人的には思いますが、歴史を操作できる立場の人は何でもしますからね。
私が信康の存在を意識するようになったきっかけは、ずばり「花の慶次」(原作:隆慶一郎・漫画:原哲夫)です。原哲夫さんは北斗の拳で有名ですね。小説家の隆慶一郎さんは「花の慶次」で知り、原作となった小説「一夢庵風流記」も読みました。それ以降ファンです。
その「花の慶次」の終盤、家康の次男・秀康が登場した時、兄の信康も一瞬だけ登場しました。不世出の武将にして心優しき男。そして父親から冷遇される腹違いの弟を不憫に思い、気を配る優しい兄。そう描かれていました。こういう若い時の記憶、というか思いは、なかなか変えられません。私にとっての信康のイメージは、いまも変わっていません。
徳川信康。世間でどう決められているかは関係なく、私にとっては今後も家康長男・徳川信康です。
■半蔵の眠る丘■
<服部半蔵の墓>
服部半蔵正成の墓。こちらはあくまで個人のお墓なので、何となく遠くから撮影しました。四谷は地形が複雑。お墓のすぐ右手は谷になっています。半蔵が亡くなったのは1596年。関ヶ原の戦いより前ですね。争いの世しか知らないままこの世を去りました。服部半蔵の眠る場所は、信康の供養塔のすぐそばです。
西念寺
[場所:東京都新宿区若葉]二丁目
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2017年04月16日
兵どもが村の跡 伊賀の里・荻窪
つわものどもが夢の跡
今回は杉並区の荻窪に残る伊賀者のなごりのお話です。最初に言っておきますが、遺構とか、物的証拠と出会えたわけではありません。そこに漂うなごり。それを感じてみたくなった。そんな記録です。
■荻窪の支配者■おぎくぼ
古くは豊島氏の領地でした。武蔵国、特に現在の東京で勢力のあった清和源氏の流れをくむ名族ですね。しかし扇谷上杉家の太田道灌に敗れて滅亡。荻窪も扇谷上杉の支配下となります。その後、関東覇者となった小田原北条氏が支配する時期を経て、国替えでやってきた徳川の領地に。伊賀と荻窪に関連があるとするなら、始まりはこの頃からということでしょうね。
■2つの村の話■
江戸時代初期、荻窪には「上荻窪」と「下荻窪」の2つの村がありました。まず下荻窪村、こちらは伊賀棟梁である服部半蔵の知行地だったという話があります。そしてもう一つ、上荻窪村は伊賀同心八名の知行地だったとのこと。まぁ勝手に移り住んだわけではなく、徳川家配下の者として、正式に知行を受けていたわけですね。同心の身分は、下級武士くらいに受け止めて大筋間違いありません。
■伊賀者■ いがもの
ドラマや小説でたびたび取り上げられる忍者。影の者でありながら、今ではすっかりメジャーな存在ですね。その代表格である伊賀の忍者。彼らは特定のクライアントを持たなかったと言われています。つまり、誰かに仕えて忠誠を尽くすというより、依頼ごとに仕事をしていたわけですね。いわばフリーランスのプロフェッショナル。なんか格好いいですね。では、どうしてその伊賀者たちが、徳川に従属しているのでしょう。
本能寺の変の直後、身の危険を察して浜松を目指した家康のいわゆる「伊賀越え」が縁で、大勢の伊賀忍者たちが徳川家に召し抱えられることになったそうです。護衛してもらったお礼ですね。この「伊賀越え」は、「三河一向一揆」・「三方ヶ原の戦い」と並び、徳川家康の人生の三大危機と言われています。つまり大ピンチだったわけですね。家康は助かってよほど嬉しかった、そして伊賀の者たちに感謝していたのでしょう。ちょっと別な評価をすると、家康は伊賀忍者の実力を目の当たりにしたことで、これは「使えるぞ」と考えたのかもしれませんね。更に、伊賀越えの時に家康のお供をしたメンバーには、徳川四天王などの重鎮が含まれます。家康本人と同じことを考えたかもしれません。
■伊賀者のなごり■
<忍川橋>
繰り返しになりますが、忍者に関わる遺構のようなものはありません。ただこの忍川橋といった名に、それらしい雰囲気が漂います。忍という一文字だけですが・・・
<忍川上橋>
こちらにも忍の文字
まぁ地名などに忍の字が使われているケースは、全国に沢山ありますね。全部ではないですが、湿地帯に由来しているという話を良く耳にします。ここ荻窪もその類なのでしょうか?ただ、こういった橋の名に加えて、現在の荻窪駅付近には忍ヶ谷戸(しのびがやど)という地名があり、『伊賀の里が善福寺川の谷あいにあったことから、忍び者の谷戸と呼ばれ、やがて忍ヶ谷戸という呼び名になった』ともいわれています。ちょっと信じてみたくなるお話です。
目で見て分かる痕跡はないものの、そんな話が伝わるこの付近。何となく服部半蔵率いる伊賀忍者の里だったような気がしないでもない。史実かどうか不明です。現地にそういう雰囲気が漂う。そんなお話として受け取って下さい。
■服部半蔵について■
あまりにも有名な名前ですね。
ただ、当主が代々「半蔵」を名乗ったことはあまり知られていません。そう、服部半蔵は一人ではないのです。歴代のうち、一般的にイメージされる人物、つまり徳川忍軍の棟梁は、二代目服部半蔵になります。また、いわゆる忍者は初代で、二代目の服部半蔵正成はあくまで武士。先述の「伊賀越え」以前から、正成は武士として徳川に仕えていました。
さて、その服部半蔵ですが、知行地となったここ荻窪にも、屋敷をかまえていたのでしょうか?江戸城近くに半蔵の屋敷があったことは知られてますが、お勤めのない時は荻窪の別宅ですごしたとか、家族がいたとか・・・。いろいろ調べましたが、あまりはっきりしません。
配下の者たちはどうだったのでしょう。「伊賀越え」により召し抱えられた伊賀者は、なんと二百人もいたそうです。全て正成に預けられました。結構な大所帯ですね。一般的には、麹町付近に半蔵の屋敷があり、配下の者たちもその付近の甲州街道沿いに住んだと考えられています。いわゆる半蔵門に繋がる道沿いということですね。
ただ家族も含めれば大人数。収まる場所にも限度があり、知行地だった荻窪にも関係者が移り住んだ?なんてことがあっても不思議ではないですね(ここ、また個人的妄想です)。
ちなみに、正成は「関ケ原の戦い」より前に他界しています。江戸時代には存在しません。ですから、下荻窪村が江戸時代初頭に服部半蔵の知行だったというお話は、服部半蔵の名が三代目に引き継がれた後の話ということになりますね。そしてそれに従う者たちも、もはや身分は同心。忍者ではなく武士です。更に代替わりしていくことも考慮すると、仮に荻窪と伊賀に深い関わりがあったとしても、いわゆるリアルな忍者が住んだというより、その子孫たち、あるいは江戸城の警備で甲賀組などとともに活躍する「伊賀組」の関係者が住んだ、そんなふうに想像する方が無難かもしれませんね。
<忍川橋と善福寺川>
場所はJR荻窪駅の南側になります。
伊賀忍者の子孫と関係があった・・・かもしれない荻窪。そんなことを意識しつつ、橋の名に「忍」の字を確かめながら善福寺川沿いを散歩して帰路につきました。
[東京都杉並区荻窪]4丁目
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今回は杉並区の荻窪に残る伊賀者のなごりのお話です。最初に言っておきますが、遺構とか、物的証拠と出会えたわけではありません。そこに漂うなごり。それを感じてみたくなった。そんな記録です。
■荻窪の支配者■おぎくぼ
古くは豊島氏の領地でした。武蔵国、特に現在の東京で勢力のあった清和源氏の流れをくむ名族ですね。しかし扇谷上杉家の太田道灌に敗れて滅亡。荻窪も扇谷上杉の支配下となります。その後、関東覇者となった小田原北条氏が支配する時期を経て、国替えでやってきた徳川の領地に。伊賀と荻窪に関連があるとするなら、始まりはこの頃からということでしょうね。
■2つの村の話■
江戸時代初期、荻窪には「上荻窪」と「下荻窪」の2つの村がありました。まず下荻窪村、こちらは伊賀棟梁である服部半蔵の知行地だったという話があります。そしてもう一つ、上荻窪村は伊賀同心八名の知行地だったとのこと。まぁ勝手に移り住んだわけではなく、徳川家配下の者として、正式に知行を受けていたわけですね。同心の身分は、下級武士くらいに受け止めて大筋間違いありません。
■伊賀者■ いがもの
ドラマや小説でたびたび取り上げられる忍者。影の者でありながら、今ではすっかりメジャーな存在ですね。その代表格である伊賀の忍者。彼らは特定のクライアントを持たなかったと言われています。つまり、誰かに仕えて忠誠を尽くすというより、依頼ごとに仕事をしていたわけですね。いわばフリーランスのプロフェッショナル。なんか格好いいですね。では、どうしてその伊賀者たちが、徳川に従属しているのでしょう。
本能寺の変の直後、身の危険を察して浜松を目指した家康のいわゆる「伊賀越え」が縁で、大勢の伊賀忍者たちが徳川家に召し抱えられることになったそうです。護衛してもらったお礼ですね。この「伊賀越え」は、「三河一向一揆」・「三方ヶ原の戦い」と並び、徳川家康の人生の三大危機と言われています。つまり大ピンチだったわけですね。家康は助かってよほど嬉しかった、そして伊賀の者たちに感謝していたのでしょう。ちょっと別な評価をすると、家康は伊賀忍者の実力を目の当たりにしたことで、これは「使えるぞ」と考えたのかもしれませんね。更に、伊賀越えの時に家康のお供をしたメンバーには、徳川四天王などの重鎮が含まれます。家康本人と同じことを考えたかもしれません。
■伊賀者のなごり■
<忍川橋>
繰り返しになりますが、忍者に関わる遺構のようなものはありません。ただこの忍川橋といった名に、それらしい雰囲気が漂います。忍という一文字だけですが・・・
<忍川上橋>
こちらにも忍の文字
まぁ地名などに忍の字が使われているケースは、全国に沢山ありますね。全部ではないですが、湿地帯に由来しているという話を良く耳にします。ここ荻窪もその類なのでしょうか?ただ、こういった橋の名に加えて、現在の荻窪駅付近には忍ヶ谷戸(しのびがやど)という地名があり、『伊賀の里が善福寺川の谷あいにあったことから、忍び者の谷戸と呼ばれ、やがて忍ヶ谷戸という呼び名になった』ともいわれています。ちょっと信じてみたくなるお話です。
目で見て分かる痕跡はないものの、そんな話が伝わるこの付近。何となく服部半蔵率いる伊賀忍者の里だったような気がしないでもない。史実かどうか不明です。現地にそういう雰囲気が漂う。そんなお話として受け取って下さい。
■服部半蔵について■
あまりにも有名な名前ですね。
ただ、当主が代々「半蔵」を名乗ったことはあまり知られていません。そう、服部半蔵は一人ではないのです。歴代のうち、一般的にイメージされる人物、つまり徳川忍軍の棟梁は、二代目服部半蔵になります。また、いわゆる忍者は初代で、二代目の服部半蔵正成はあくまで武士。先述の「伊賀越え」以前から、正成は武士として徳川に仕えていました。
さて、その服部半蔵ですが、知行地となったここ荻窪にも、屋敷をかまえていたのでしょうか?江戸城近くに半蔵の屋敷があったことは知られてますが、お勤めのない時は荻窪の別宅ですごしたとか、家族がいたとか・・・。いろいろ調べましたが、あまりはっきりしません。
配下の者たちはどうだったのでしょう。「伊賀越え」により召し抱えられた伊賀者は、なんと二百人もいたそうです。全て正成に預けられました。結構な大所帯ですね。一般的には、麹町付近に半蔵の屋敷があり、配下の者たちもその付近の甲州街道沿いに住んだと考えられています。いわゆる半蔵門に繋がる道沿いということですね。
ただ家族も含めれば大人数。収まる場所にも限度があり、知行地だった荻窪にも関係者が移り住んだ?なんてことがあっても不思議ではないですね(ここ、また個人的妄想です)。
ちなみに、正成は「関ケ原の戦い」より前に他界しています。江戸時代には存在しません。ですから、下荻窪村が江戸時代初頭に服部半蔵の知行だったというお話は、服部半蔵の名が三代目に引き継がれた後の話ということになりますね。そしてそれに従う者たちも、もはや身分は同心。忍者ではなく武士です。更に代替わりしていくことも考慮すると、仮に荻窪と伊賀に深い関わりがあったとしても、いわゆるリアルな忍者が住んだというより、その子孫たち、あるいは江戸城の警備で甲賀組などとともに活躍する「伊賀組」の関係者が住んだ、そんなふうに想像する方が無難かもしれませんね。
<忍川橋と善福寺川>
場所はJR荻窪駅の南側になります。
伊賀忍者の子孫と関係があった・・・かもしれない荻窪。そんなことを意識しつつ、橋の名に「忍」の字を確かめながら善福寺川沿いを散歩して帰路につきました。
[東京都杉並区荻窪]4丁目
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