桜の時期にあわせて埼玉県の岩槻城を訪問しました。
<桜咲く岩槻城跡>いわつきじょう
扇谷上杉氏の命を受けて太田道灌が父とともに築城した城。現在は公園として整備されています。桜が見頃となり、本日は家族連れで賑わっていました。
<太田道灌像>おおたどうかん
駅からここまで来る途中、旧岩槻区役所の敷地で撮影しました。さすが道灌ゆかりの地。城に到着する前から気分が盛り上がります。
■ 緊張にさらされ続けた城 ■
太田道灌がこの世を去ったのちも、岩槻城はその流れを汲む岩槻太田氏の城でした。古河公方と扇谷上杉氏の対立から生まれた城は、やがて小田原の北条氏と越後の上杉が争う関東の重要拠点となり、戦国時代を通していつも緊張にさらされた城でした。
徳川家康が関東に入ってからは、高力清長が二万石で入封。その後も岩槻の地は江戸を守る要衝と位置づけられ、その城主は幕府の重要ポスト(三河譜代の重臣の居城)でした。廃城は明治になってからです。
<公園入口付近>
<土塁>
土塁というより、こちら側が堀の底ということになります。現在の公園の広場は、昔の本丸の南に位置する沼でした。
<桜と土塁>
遺構はあまりないという評判も耳にしますが、そんなことはありません。確かに本丸付近は宅地化されてしまいましたが、南側に位置する曲輪に城のなごりが漂います。
<八ツ橋と沼>
かつての大きな沼(水堀)は、廃城後に埋められて姿を消しました。残されたこの沼が、かつてのなごりを今に留めています。
<花見客が沢山>
岩槻城址公園の桜は約600本。埼玉県内有数の花見の名所です。夜はライトアップされるようですが、私は夕方で退散してしまいました。
■ 湿地の平城 ■
岩槻城は元荒川に近く、半島のように突き出した台地の上に本丸・二の丸・三の丸といった曲輪を配置しています。本丸等の主郭部分を取り囲む沼を挟んだ北と南にも曲輪を配置。念入りな縄張りとなっています。水城と称されることもあることから、低地に広がる沼(水堀?)に浮かぶ要塞のような感じだったのでしょう。
<堀の中を歩く>
結構深い堀です
もともとはもっと深かったのでしょう
堀底の道。いい感じです。
■北条氏の足跡■
<堀障子>
堀の底に堀障子(現地説明あり)。いわゆる障子堀ですが、調査後埋め戻したとのこと。障子堀=北条という訳ではないですが、きっと岩槻城が北条氏配下の時に設けられたものでしょう。
戦国末期の秀吉による小田原征伐の時(1590年)、この城の城主は北条氏房(うじふさ)でした。北条氏政の子で五代目当主の氏直の弟です。既に太田氏の家督を継いでいたのですから、まぁ太田氏房ですね。この氏房の時に、岩槻城は大幅に拡張・改修されました。秀吉率いる天下軍に備えるためですね。実際に戦が始まると、氏房は城を家臣に任せ、自らは小田原の籠城戦に参加しました。敗戦後は当主である兄と共に高野山へ送られています(二年後に病没)。
氏房に代わってここ岩槻城の指揮をとったのは伊達房実。いわゆる伊達政宗と祖を同じくし、枝分れして武蔵国に根をはった伊達氏です(諸説あり)。岩槻太田氏に仕える房実は、約2千の兵で天下軍2万を迎え撃ちましたが、千人もの犠牲者を出す壮絶な戦いの末に落城となりました。
最後に
<鍛冶曲輪>
本丸・二の丸・三の丸とは別に、出丸のような役割を担った曲輪です。諸説ありますが、秀吉軍の攻撃に備えて整備された曲輪とも言われています。こちらにも見事な桜と花見客の姿が。そして、立派な石碑を見つけました。
<白鶴城址碑>
岩槻城は白鶴城とも呼ばれているのですね。初めて聞きました。沼地に守られた城ですから、湿地に佇む白い鶴に例えられたのでしょうか?現地ではそんな気がしました。後で調べたら、鶴が水面に落とした木の枝に舞い降りる様子を見て、道灌は竹をたばねて沼を埋める方法を思いついたという話に由来するそうです。
久しぶりの訪問。天気と桜に恵まれた城跡巡りとなりました。
------------■ 岩槻城 ■------------
別 名:岩付城 白鶴城
築城者:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
改修者:太田氏 北条氏 徳川氏
城 主:太田氏 北条氏 高力氏 他
廃 城:1871年(明治4年)
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]
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