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2018年11月01日

仙台伊達藩ゆかりの地 日テレタワー

つわものどもが夢の跡
今回は東北の雄・伊達家上屋敷跡を訪ねました。場所は汐留の日本テレビです。
<現地>
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■伊達家の上屋敷■
仙台の伊達家といえば加賀の前田家、薩摩の島津家につぐ外様大名。上屋敷もさぞ立派だったのでしょうね。仙台藩の初代藩主はご存じ伊達政宗ですね。政宗の時代の上屋敷は、現在の日比谷公園にあったとされています。
<日比谷公園>
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こちらは日比谷公園内の上屋敷跡です。
以前投稿させて頂いておりますので、良かったら覗いてみて下さい。
当ブログ関連記事→『記事へすすむ

他に愛宕下(現在の新橋5・6丁目)にも江戸屋敷を構えていましたが、1641年(既に政宗亡きあと)、今回訪問の場所に屋敷を設け、のちに上屋敷として使用したようです。

<今回の訪問の説明板>
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こんな雰囲気だったようです
発掘調査の結果、屋敷には庭園、付近には汐留川に接する舟入場なども確認されたそうです。

<日テレタワーの下>
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昔の面影はありませんが、この手前の道は、どうやら昔からあった道のようです。


■とある事件■
『寛永18年(1641)に設けた屋敷は、当初下屋敷として用いられたが、延宝4年(1676)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。
 元禄15年(1702)12月15日、本所吉良邸において、主君浅野内匠頭長矩の仇討ちを成し遂げ、その墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士は、この場所で粥のもてなしを受けたと言われる。あたかもレトルト食品のように瞬く間に作られた粥は、仙台名産の仙台糒(ほしい:うるち米を蒸して乾燥させた保存食)であった。』
[説明文を転記]
説明文の最後は仙台市と日本テレビの連名となってますから、信用できますね。

糒は干し飯とも書きます。読み方は同じ「ほしい」。一度煮た米を天日に干したもので、要するに非常食ですね。戦の時の携帯食でもありました。これに急ぎ手を加え、赤穂浪士たちに振舞ったわけですね。

極寒の冬。本懐を遂げた武士たち。伊達家、粋な計らいですね。大石内蔵助は、のちに取調べを受けますが、この件には触れませんでした。仙台伊達藩に迷惑がかかることを避けたかったのですね。戦国時代に遡れば、奥州の覇者を目指した伊達家と、豊臣秀吉に徴用された浅野家とは不仲。美談として脚色があったとしても、いい話ですね。

つわものどもが夢の跡
<日テレタワー>
shirononagori280 (1).JPG
赤穂浪士たちはこの付近を通って主君の墓所へ向ったわけですね。

■訪問:日本テレビ
(仙台藩芝口上屋敷跡)
[東京都港区東新橋]


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2018年10月16日

田村麻呂が陣を張った丘 赤羽八幡神社

つわものどもが夢の跡
今回はむかしむかし征夷大将軍が陣を張った丘を訪ねました。場所は東京都北区です。

<赤羽台>
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台地を貫通するJRのトンネル。左手奥の丘の上の鳥居、見えますでしょうか。神社の敷地の下を電車が通るという構造になっています。珍しいですね。

<丘の下の鳥居>
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冒頭の坂道を登っても良いのですが、探索も兼て別ルートから登ることにしました。画像は丘の下にある鳥居。この先に境内へ続く階段があります。

<階段>
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ここですね。高低差、伝わりますでしょうか。赤羽は武蔵野台地の北端に位置し、ちょうど台地が途切れる場所です。北には荒川が流れ、川に向かって低地が広がります。まぁこれはおおまかな話で、具体的な地形はかなり複雑。現地を訪問すると、丘と低地があちらこちらで入りくんでいることを実感します。

<赤羽八幡神社>
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階段を登りきるとこんな感じ。赤羽八幡神社です。坂上田村麻呂が東征の際にこの丘に陣を敷き、祭神を勧請したことに始まるらしいのですが、いろいろ情報があるので、由緒についてはウィキペディアさんの説明をそのまま転用させて頂きます。

『784年(延暦3)に坂上田村麻呂が当地に陣を張り、3柱を勧請したことにより創建された。その後源頼光、源頼政、太田道灌と太田一族により再興された。明治初期まで郷社(赤羽総鎮守)の扱いを受けていたが、明治5年に村社(赤羽村鎮守)に格下げされた。』
[出典元:Wikipedia 2018/10/15]


<境内>
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本殿には勝負事の神様が祀られています。他に境内神社として北野天満宮や稲荷神社、大黒主神社なども。ご利益の多い場所ですね。

坂上田村麻呂といえば征夷大将軍の二代目。初代の大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が高齢であったことから、これを補佐する立場だった田村麻呂は早くから実質的な役割を担っていました。北区赤羽は、荒川を渡れば埼玉県戸田市。これからもっともっと北へ向かう軍勢が、この丘に布陣して態勢を整えたというわけですね。
ちょっと話がそれますが、大伴弟麻呂も坂上田村麻呂も源氏ではありません。いつから「征夷大将軍は源氏じゃなきゃダメ!」のような雰囲気になったのですかね?

ウィキペディアさんの説明にもある通り、ここ赤羽八幡神社は清和源氏の3代目の源頼光や扇谷上杉家の家宰・太田道灌とも縁のある神社です。数々のご利益も魅力的ですが、武人ゆかりの地として訪ねてみるのもいいですね。

■訪問:赤羽八幡神社
[東京都北区赤羽台]4丁目


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2018年09月27日

伊達家上屋敷跡 政宗終焉の地

日比谷公園の皇居よりの隅に、こんな説明板があります。

<説明板>
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伊達政宗終焉の地と書かれていますね。むかしは無かったはず。ちょっと目をひくタイトルですね。

<屋敷跡>
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要するに、この付近は仙台藩の伊達家上屋敷跡ということですね。

伊達政宗は米沢で生まれ、会津で覇権を争い、仙台に王国を築きました(仙台藩初代藩主)。その最期は、仙台ではなく江戸屋敷だった。そういうことです。
この地は1601年から1661年まで、伊達家の上屋敷(外桜田上屋敷)として使用されていました。

政宗が亡くなったのは1636年(享年70)。体調を崩した政宗を心配して、時の将軍である徳川家光が自らこの地にあった屋敷へ見舞いに訪れたそうです。政宗はかなり弱っていたようですが、身なりを整えて将軍を迎えました。その数日後、政宗はこの世を去っています。最後の最後まで「伊達」を貫いたのですね。その政宗が亡くなると、家光は江戸で7日、京都で3日の間服喪するよう異例の指示を出しています。徳川幕府の支配下にある諸大名の中でも、伊達政宗は特別な存在だったことがわかります。

政宗の亡骸は、大名行列により国元へ送られました。墓所は仙台にあります。


<日比谷見附跡>
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冒頭の説明板は、日比谷見附跡を通り過ぎてすぐの場所です。
この日比谷御門、かつては高麗門・枡形・渡櫓・番所が石垣で囲まれていましたが、現在は石垣のみが残っています。江戸初期の工事(1629年)において、桝形を請け負ったのは仙台藩でした。そう、伊達政宗の仕事ということです。

<日比谷見附から見た内濠>
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手前の石垣が日比谷見附跡の上部です。そして道路の向こう側に見えている濠が江戸城の内濠。実際に現地で眺めると、距離を実感できます。

<石垣の上>
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いい眺め。最高のベンチです。

<心字池>
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公園造成時に造られた池。ここはかつて水濠だった場所です。

<池と石垣>
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城郭だった頃の雰囲気が伝わってくるようです。

ということで
『伊達政宗終焉の地』そのものに遺構のようなものはありませんが、近くの日比谷見附跡も、いわば伊達政宗ゆかりの地。そして城のなごりが漂う場所です。当ブログがきっかけで、足を止める人がいたら嬉しいです。

同じ景色も、ちょっと思い入れがあるだけで違って映ります。


■訪問:伊達政宗終焉の地
(仙台藩伊達家上屋敷跡)
[東京都千代田区日比谷公園]


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2018年09月18日

蝉坂 道灌が攻め上がった坂道(上中里) 

久しぶりに北区の上中里付近を散策しました。

<蝉坂>せみざか
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既に江戸時代にはそう呼ばれていたそうです。この蝉坂という名は、かつて太田道灌が攻め上った坂、つまり「攻め坂」から転訛したものと伝わっています。

<平塚城跡>
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この地は道灌により滅ぼされた豊島氏の居城跡と考えられています。

<平塚神社>
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城跡は現在平塚神社となっています。源義家、源義綱、源義光が祀られています。そもそも平塚という地名の由来は、源義家から授かった鎧を城の守り本尊として埋めた低い塚とのこと。

<平塚城伝承地>
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豊島氏代々の居城であったが、太田道灌に攻められ落城とあります。

道灌が攻め上がった坂。なんとなく納得ですね。

<攻め坂>
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以前ここ平塚城を散策した際、この坂は城の脇を流れる川であったのだろうと感じました。つまり天然の堀ということですね。しかし道灌がまさにここを攻め上がったとしたら、川なんてことはあり得ませんね。

蝉坂の存在を知り、長らく信じてたことが吹き飛ばされてしまいました。まぁ趣味で城跡巡りをしている素人の妄想なんて、そんなものなのかも知れません。

ということで
道灌ゆかりの坂のご紹介でした。

■訪問:蝉坂
[東京都北区上中里]1-47


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--------(追 記)--------
豊島氏の平塚城跡については、以前投稿させてもらっています。良かったら覗いてみて下さい。太田道灌vs豊島氏について、もうちょっと言及させてもらっています。
2017年03月11日
記事→『豊島一族の城跡 平塚城
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2018年09月17日

面影橋と山吹の里 道灌ゆかりの地

西早稲田に用事があったので、ついでといってはなんですが、太田道灌と関連する史跡を訪ねました。

<石碑>
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山吹の里」に関する史跡です。裏は現在工事中のようです。白い壁が無機質ですが、石碑には重みがありました。

<山吹之里>やまぶきのさと
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深く刻まれた「山吹之里」は良いとして、周辺の細かい文字が気になりましたが読めず

<半跏思惟像>はんかしゆいぞう
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思索にふけるお姿ですが、詳細わからず(弥勒菩薩?)

<説明板>
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えっとそうですか。この碑に使われている石は1686年に建立された供養塔の転用だそうです。ちょっと不思議な感じがしたのはその影響でしょうか。

<神田川>
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石碑の場所は神田川沿いです。新宿区には山吹町という地名がありますが、そこよりちょっと西側になります。現地説明板によれば『新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は通称「山吹の里」といわれています』とのこと。

<面影橋>
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面影橋の近く。川の北側です。都電荒川線・面影橋駅もすぐ近く。雨のせいか人影もまばらでした。

<面影橋の説明板>
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鎌倉街道沿いにあり、姿見橋ともいわれていました。歌人の在原業平が鏡のような水面に姿を映したためなど、その名の由来には諸説あるようです。いずれにせよ、この地にはむかしから橋があったのですね。


■ 山吹伝説 ■
ちょっとラフですが簡単に言えば

『鷹狩に出た道灌がにわか雨にあい、蓑を借りるべく農家を訪ねた。しかし出迎えた娘は和歌とともに山吹の一枝を差し出すだけで蓑は貸してはくれなかった。若い道灌はこれに腹を立てたが、あとになって和歌に込められた意味を知り、己の無知を恥じた。そしてその日を境に和歌を学んだ。』

といった感じですかね。和歌は
七重八重 花は咲けども山吹の 
実の一つだに なきぞ悲しき


(ヒント) 実の⇒蓑

山吹の花は七重八重に咲くのに
実が一つも結ばないのは不思議です


実はこの伝説に関する史跡はあちらこちらに存在しています。都内だと荒川区、横浜市の金沢区、そして埼玉県越生町など。当然ながら、どの場所も「ここが山吹の里ですよ!」と主張しています。

本当はどこ?

議論は尽きません。ただまぁ、自分がそうだと思う場所で良いのではないでしょうか。私個人は、道灌の出身地と思われる埼玉県越生町が一番相応しいと思っています。

ちょっといい加減?

そうともとれますね。ただ、そもそもこの伝説自体の真偽も曖昧で、生まれた場所にも諸説あるのです。大切なことは、太田道灌がそのような人物として語り継がれているということ。そこには「こんなステキな人がいて欲しい」という我々日本人に共通の美意識のようなものが込められているのではないでしょうか。

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この日はあいにくの雨。でもこの場所を訪れるには相応しい天気なのかも知れません。蓑はありませんが、しっかり傘をさして訪問しました。

■訪問:山吹の里の碑
[東京都豊島区高田]1-18-1


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---------(追 記)---------

■当ブログ過去記事■
<山吹の里公園>
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[埼玉県入間郡越生町西和田]‎
ヤナブキの花の時季をねらって、同じく山吹伝説の地である埼玉県越生町を訪問した時の記事です。宜しかったら覗いてみて下さい。
2017年04月22日
記事→『若き日の道灌の逸話
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2018年08月09日

もののふの道とばかりを一筋に 赤穂浪士・潮田高教と浅野家(泉岳寺)

つわものどもが夢の跡
名族の末裔を調べるうちに、ひとりの武士がどうにも気になってしまい、その墓所を訪ねました。

<泉岳寺>せんがくじ
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赤穂浪士たちが主君とともに眠る場所です。何度か来たことはありますが、今回訪問の理由は大石内蔵助でも堀部弥兵衛でもありません。

■ 潮田高教 ■ うしおだ たかのり
通称は又之丞(またのじょう)。赤穂浪士四十七士の一人です。赤穂藩士であることは間違いありませんが、常陸国(茨城県)の笠間藩と関係が深い人物です。

赤穂で常陸国?

赤穂事件の浅野家といえば赤穂藩の藩主ですよね。ただ、その前は笠間藩ということは、あまり世間に知られていません。第14代当主の長政が常陸国真壁藩初代藩主となった時代を経て、のちに常陸国笠間へ移封となっています。これらの経緯から、赤穂浪士のなかには茨城県ゆかりの武士がたくさん含まれています。潮田高教も、そのひとりなのです。


■ 潮田家 ■
潮田高教のルーツを更に調べた結果、祖父が笠間藩浅野氏家老・藤井又左衛門に仕えたことまではわかりました。現在の茨城県桜川市真壁町に住んでいたようです。

私個人の関心事は、戦国末期に寿能城(現在のさいたま市大宮区)の城主だった潮田資忠(すけただ)とのつながりでした。しかし明確な情報には辿り着かず(残念)。前の記事で投稿させて頂きましたが、潮田資忠の子孫は、のちに土井利勝に仕えて、古河藩家老となっています。古河、つまり茨城県ですね。笠間藩も同じ茨城県。古河の潮田家と潮田高教について、何となくつながりを感じる方が自然ではないでしょうか。


■ 浅野内匠頭 ■たくみのかみ
1701年4月21日。赤穂藩主である浅野内匠頭は、江戸城松の廊下にて刃傷(にんじょう)に及びました。内匠頭はその日のうちに切腹。浅野家はお取り潰し。斬りつけられた吉良上野介には、何らお咎めはありませんでした。潮田高教ら赤穂藩士たちの苦悩は、ここから始まります。

<江戸城松之大廊下>
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[皇居東御苑内]


■ 主君の墓所 ■
1703年1月30日(元禄15年12月14日) 深夜。四十七士は表門隊と裏門隊の二手に分かれ、吉良邸に討ち入りました。潮田高教は裏門隊に加わっていたそうです。本懐を遂げると、高教は吉良義央の首級を槍の先に括りつけました。ドラマなどでよく登場するシーンですね。仇の首を天に掲げるかのようにして歩いた浪士が、今回の主役・潮田高教です。一人の死者もださなかった赤穂浪士たち。討ち取った首を主君の墓前に供えるべく、泉岳寺へと向かいました。

<泉岳寺山門>
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<境内案内>
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<大石内蔵助像>おおいしくらのすけ
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一番有名な浪士の銅像ですね。

<本堂>
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曹洞宗の寺院です。

<案内板>
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迷うことなく墓所へ進めます。

<首洗い井戸>
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泉岳寺に到着した浪士たちは、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したと伝わります。

<井戸>
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現在の「首洗い井戸」です。

<赤穂義士墓の入り口>
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墓所はこの門をくぐった先にあります。

<案内図>
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お墓そのものの撮影は遠慮させて頂きます。潮田高教の墓所に赤線を引かせてもらいました。忠義の武士たちの墓標に刻まれた「刃」の文字に、複雑な思いがしました。庶民の評価がどうであれ、切腹を命じられた者たちの墓なのです。

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■ 潮田氏の居城・寿能城 ■じゅのうじょう
潮田高教が忠義を尽くした浅野家。この浅野家は、かつて豊臣政権下で五奉行に名を連ねた浅野長政の分家です。秀吉による小田原征伐の際、潮田家の居城・寿能城を攻め落としたのは浅野長政でした。

<寿能城跡>
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[さいたま市大宮区寿能町]

それから約百年、潮田家の血縁者と思われる高教が、浅野家の仇を討つべく命を捧げたところに、浅からぬ人の縁を感じずにはいられません。潮田高教、この時35歳でした。

■潮田高教 辞世の句■
武士の道とばかりを一筋に
思ひ立ちぬる死出の旅路に

もののふの みちとばかりをひとすじに
おもいたちぬる しでのたびじに

<つわものどもが夢の跡>
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他の浪士たち同様、潮田高教も主君・浅野内匠頭とともにこの地で眠っています。

■訪問:泉岳寺
[東京都港区高輪]2丁目


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2018年05月27日

板橋に残る西国の雄・宇喜多秀家のなごり

つわものどもが夢の跡
五大老にも名を連ねた宇喜多秀家。そんな西国の雄にゆかりの寺が、板橋区にあると聞き及び、訪問してみました。

<東光寺>
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境内に秀家の供養塔があります。

<供養塔>
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こちらですね。それにしても、なんで板橋に・・・


■宇喜多秀家■うきたひでいえ
いわずと知れた戦国武将。若い頃から秀吉に重用され、五大老に名を連ねるところまで上りつめました。元の名は家氏。「秀」の字は秀吉に与えられ秀家を名乗りました。

[五大老]
@徳川 家康:関東支配
A前田 利家:北陸支配
B上杉 景勝:東北南部
C毛利 輝元:中国西部
D宇喜多秀家中国東部

いかに凄いかをお伝えすべく、五大老の話を最初にもってきてしまいましたが、こうして列記するとやや小粒に見えなくもないですね。お察し頂けると思いますが、他がとんでもなく巨大な存在なだけ。岡山城主・宇喜多秀家は、備前ほかで57万4,000石を領する大大名(当時として全国6番目)。世が世なら、更に勢力を拡大できたかもしれない武将です。父親はいわゆる下克上で成り上がった宇喜多直家。戦国期に一気に頭角を現した一族なのです。


■運命の関ヶ原■慶長5年
宇喜多秀家の率いる軍勢は西軍の主力。総勢で1万7千といわれています。東軍屈指の軍である福島正則の軍勢と激突しました。しかし結果はご存じの通り。自軍の奮闘とは関係なく、秀家は敗軍の将となります。
宇喜多家は改易。つまり身分を剥奪され所領も没収。秀家はしばらくの逃走の末に捕らえられ、石田三成同様死罪。の、はずではたが、前田家の懇願により久能山(静岡市)への幽閉となり、だいぶたった慶長11年に八丈島への島流しとなりました。宇喜多秀家、この時34歳でした。


■加賀前田家の支援■
宇喜多秀家の妻・豪姫は前田利家の四女です。授かった息子2人は秀家とともに八丈島に流罪となってしまい、実家である前田家に戻りました。

この関係あってのことです。前田家は、八丈島に流された宇喜多家に支援を続けました。徳川家に怒られませんかね?途中からは、ちゃんと幕府の許可も得ていたようです。食糧や衣服、金銀を送り続けました。

ただ、やはり関ヶ原で徳川相手に奮闘した人物です。秀家の罪が許されることはありませんでした。そして明暦元年(1655年)、83歳で亡くなりました。お墓は八丈島にあります。

それにしても、当時の83歳ですからね。かなり長生きです。関ヶ原には名だたる武将がたくさん参加していますが、東軍西軍合わせても、宇喜多秀家ほど長く生きた例はありません。


■支援の継続■
加賀前田家から八丈島の宇喜多家(浮田と改名)への支援は、秀家亡き後も続けられました。息子もいますからね。そしてなんと、江戸時代が終わるときまでずっと続けられたそうです。やがて明治政府から罪を許され、宇喜多秀家の子孫は八丈島から板橋へ移ります。

なんで板橋?加賀藩前田家の下屋敷は、ここ板橋区にありました。秀家の子孫は、この地で前田家から土地と資金の支援を受けたようです。秀家の供養塔は、この時に子孫によって建立されたと考えられます。諸事情で供養塔の設置場所はいろいろ変わったようですが、今は東光寺の境内にあります。

<境内>
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お墓は避けて撮影しています。説明板(板橋区教育委員会)があり、とても分りやすい。

<供養塔>
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伊豆半島で切り出される「小松石」で造られています。素人目には分かりませんが、耐久性に優れる反面、加工が難しいそうです。

<秀家卿の文字>
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加工が難しい石材、そしてこの文字の彫られかたからして、かなり腕の良い職人の仕事と評価されているそうです。


■つわものどもが夢の跡■
人生の半分以上を八丈島で過ごした宇喜多秀家。ご本人のご苦労や心の葛藤まで想像が及びませんが、かつて五大老に名を連ね、官位は中納言、そして幾多の戦で勇敢に戦った戦国武将という実績が色あせることはありません。ついでに言うと、かなりの美男子だったとか。

八丈島までは行けませんが、ここ板橋で西国の雄のなごりを感じることができます。

<東光寺正面>
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■訪問:宇喜多秀家供養塔
   ( 東光寺境内 )
[東京都板橋区板橋]4-13-8



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2018年04月28日

巣鴨駅近く 徳川慶喜ゆかりの地

ここは巣鴨駅のすぐそば。徳川慶喜巣鴨屋敷跡です。

<石碑>
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十五代将軍の屋敷が巣鴨?ではなく、将軍職を辞した後の話。しかも、駿府での長い長い謹慎生活の後の話です。

<説明板>
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庭に梅が植えられ、町の人たちからは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれていたそうです。将軍職であったらあり得ない場所、あり得ない親しまれ方ですね。説明板には「梅の木は故郷の水戸に因んだ」と記されています。

<地図拡大>
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赤丸〇は私が筆をいれました。石碑の位置です。これによると、このヘン一帯が屋敷だったようです。現在の白山通りに面して門があったのですね。石碑付近のお店もその奥も、徳川慶喜屋敷跡ということですね。結構広いです。

<江戸切絵図>
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図の下半分の黄色い線が中山道。つまり白山通りです。街道沿いですが、昔はもっと静かでのどかな場所だったのでしょう。

■慶喜61歳■
以前徳川慶喜の墓所を訪ね、大政奉還後の慶喜について多少ブログに掲載させて頂きました。宜しければ覗いてみて下さい。
記事へ→「最後の将軍

慶喜は1837年生まれで、将軍辞職が1867年。まだ30歳でした。当時の30歳ですから、現代人とは成熟度合いも違うでしょうし、特別な教育も受けていたわけですから覚悟も違う(と思われます)。それでも若いですよね。駿府(静岡)では政治とは無縁の生活をおくり、巣鴨へ移り住んだ時には61歳。1897年(明治30年)のことでした。約30年もの時を経て、再び江戸に、まぁもう既に東京ですね、居を構えたわけです。その後、慶喜は公爵に叙せられ、貴族院議員にも就いています。

陰では、元幕臣の勝海舟の働きかけがあったとのこと。勝海舟は徳川幕府の幕引き、そして徳川家の存続に尽力しました。勝家は旗本ながら知行はわずか41石。身分がものを言う組織では、到底抜擢されない家柄です。秩序が流動化したこと、そして将軍が慶喜だったからこそ、働きの場を得られたのだと思います。新たな時代への過渡期に活躍した人物ですから、徳川慶喜、そして仕えた勝海舟も、人によって評価がバラバラですね。どんな立ち位置で見るかによって、全く違う評価になります。個人的には、好意の目で見ています。

<石碑と説明板>
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屋敷のそばを鉄道が通ることになり、慶喜はこれを嫌ってこの地を去りました。転居先は文京区小日向(現在の文京区春日2丁目)。ここ巣鴨での暮らしは、約4年間でした。

人も車も電車も通る賑やかな巣鴨駅の近く。石碑を見かけたら、ちょっと足を止めてみては如何でしょうか。徳川慶喜ゆかりの地です。

■訪問:徳川慶喜巣鴨屋敷跡
[東京都豊島区巣鴨]1丁目


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2018年04月14日

港区芝公園の東照宮

土曜出勤の午後を利用した港区内の史跡巡り。新橋から愛宕を経由して仙石山の城跡推定地へ。そして東京タワーの下を通過して芝公園へ辿りつきました。前回の投稿はそこで目にした「中世の城跡のような」古墳。今回は帰路となる地下鉄三田線の「芝公園駅」真上にある芝東照宮です。


<芝東照宮>
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いわずと知れた家康を祀る東照宮。まっすぐ進むと

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天気の良い土曜日ということもあってか、人が途切れることがありませんでした。

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昔は増上寺の一部でした。まぁいまでもすぐ近くですが、一応切り離されています。

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御祭神は徳川家康公。はい、承知しております。

東照宮を訪問しておいてなんですが、戦国期の上杉ファンとしては、徳川家康さんには「巨大な壁」になってもらわないと困ります。そうでないと盛り上がりません。もっとはっきり言うと、すみませんがプロレスでいうところのヒール役ですかね。

でも本当はわかっています。凄い人だと。信長や秀吉と比較して地味ですが、結果として天下を取りました。更に、この大将を必死に支えた家臣団が魅力的です。とんぼ切りの本多忠勝、赤鬼・井伊直政、半蔵こと服部正成・・・。あと途中で家康のもとを去ってしまいましたが、石川数正(かずまさ)も好きですね。それらのつわものどもを束ねていた。家康はいわゆる「持ってる人」だったのかもしれません。

■東照宮■とうしょうぐう
東照宮と聞くと、まず『日光』を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。しかしあちこちにありますね。東照宮とは、神格化された徳川家康(=東照大権現)を祀る神社。一つである必要はありません。家康の死後、徳川家と関係の深い大名家が競うように建立したため、一時期その数は五百を越えたそうです。そして現存でも百以上。よくみかける訳ですよね(今回ブログにまとめるまで、もっと多いと思っていました)。

「権現」とは、神仏が人という仮の姿でこの世に現れる事を意味します。豊臣秀吉の神号は「大明神」でしたが、徳川家のブレーンだった南光坊天海の助言で「大権現」となりました。秀吉が実質一代で滅んだことを背景にした助言のようです。天海の宗教上の都合もあったようですが、長くなるので・・・

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■四大東照宮■
<拝殿>
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日光のほかに、ここ芝東照宮、そして久能山東照宮、上野東照宮を四大東照宮と呼ぶそうです。日光以外は並列と思いきや、今回訪問の芝はそのなかでも特別な存在のようです。上野東照宮が徳川家菩提寺の寛永寺内にあったのと同じく、芝東照宮も増上寺内にありました。明治初期の神仏分離令により、寺から切り離され、芝東照宮となりました。豪華な造りだったそうですが、残念ながら1945年の東京大空襲により焼失。現在の社殿は1969年に再建されたものです。

<神木の大イチョウ>
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芝東照宮のイチョウ。拝殿の向かって右手になります。

<説明板>
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1641年に家光が増上寺の安国殿再建を行った時に植えられたといわれています。推定樹齢350年。家康は東照大権現として神格化され、徳川の世は十五代で250年も続きました。それでも、この一本のイチョウより短いわけですね。

<帰路>
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新緑が鮮やかです。来ようと思えばいつでも来れた場所。何となく来た甲斐がありました。

■訪問:芝東照宮
[東京都港区芝公園]4-8


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2018年03月30日

最後の将軍 徳川慶喜の墓所

最後の将軍となった徳川慶喜の墓所を訪ねました。

■谷中霊園■やなかれいえん

<霊園内>
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ここにはたくさんの著名人のお墓があります。横山大観や渋沢栄一などなど。お墓そのものは撮影したくないので、とりあえず満開の桜を。都会のど真ん中とは思えない美しい場所で、訪れる人もたくさんです。ただどうでしょう。やはり墓地です。はしゃぐ場所ではないし、夜の訪問はちょっと遠慮したいですね。

<案内>
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約七千のお墓があるそうです。とにかく広すぎて、どうなることかと思いましたが大丈夫。とても親切です。

<墓所到着>
sirononagori216 (1).JPG
どうやら到着したようです。この柵に囲まれた一画が徳川慶喜墓所です。葵の御紋がついたお墓の前は、やはり佇む人が多く、少し待ってから正面へ向かいました。それでも、人が途切れることはありませんでした。

<徳川慶喜墓所>
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こちらが正面。中には入れませんが、様子は充分に伺えます。

独特のお墓(円墳状の墓)の隣には『従位勲一等徳川慶喜墓』と刻まれた石柱があります。柵の間から望遠で撮影できますが、気持ちとして私はここまで。静けさの中に放たれる威光。これを感じただけで充分です。

拝見させて頂きました。ありがとうございます。


■最後の将軍■
徳川慶喜というと、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか?最後の将軍。まぁその通りですね。同じことを「最後の征夷大将軍」と言い直すと、かなり感慨深いものがありませんかね?。私だけでしょうか・・・

更に慶喜に関してもうひとつ気になっていたのが、今回訪問の墓所です。他の将軍が増上寺や寛永寺に埋葬されているのに、慶喜だけは別。「そういうものか」と漠然と事実だけを受け入れていましたが、今回を機に調べました。まぁいろいろ説はあるにせよ、2つに絞られるような気がします。

まずひとつ目は、慶喜は将軍職を辞めた人物であることから、歴代将軍の墓所には墓を建てられなかったとする考え方です。そしてもう一つは、明治天皇に感謝の意を示す為に、自らの葬儀は仏式ではなく、神式で行なうように遺言したためとする説です。この背景として、慶喜は歴代天皇陵が質素なことにいたく感動していたという話があります。

将軍を辞職した。まぁそういう捉え方もありますかね。慶喜が新政府軍と戦って討ち死にしていたら、菩提寺に眠ることができた。筋から言うと、そういうことですね。時代背景を考えると、望ましいとは思えませんね。ならば、これで良かったとご本人もお思いになるのではないでしょうか。

明治天皇に感謝。私個人が抱く慶喜イメージだと、これがしっくりきます。繰り返しますが、私個人のイメージです。慶喜は1837年生まれ(水戸藩主の七男として江戸藩邸にて誕生)。将軍辞職が1867年ですから、まだ30歳です。没するのが1913年で76歳ですから、その後の人生の方がずっとずっと長いわけですね。将軍を辞した慶喜は、静岡で趣味に没頭する日々を送り、政治的な野心は全く持たなかったようです。やがて30年もの時を経て、慶喜は東京の巣鴨に転居。1902年には公爵に叙せられ、貴族院議員となります。これにより35年振りに政治と関わることになるのですが、それは野心とは程遠い姿だったようです。政治と無関係に過ごした35年という長い年月と、かつて不本意ながらも『朝敵』のような立場だった自分に与えられた待遇。明治天皇に感謝する思いがあったというのが、自然な流れと受けとめたいですね。


■つわものどもが夢の跡■
1908年の春、慶喜は明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されます。これは大政奉還の功によるものでした。武家の棟梁が支配する世の中は、源頼朝から始まりました。そして徳川慶喜により幕引きとなったわけですね。

将軍としての慶喜の評価はバラバラです。何を軸に評価するかで、最高にも最低にも成り得ます。これほど極端に評価が分かれること自体が、いかに厳しい環境に立たされていたを物語っているような気がします。

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■谷中霊園■
[東京都台東区谷中]7丁目

 
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--------(追 記)--------
当ブログは、私の個人的な思いが込められていたり、歴史認識で一般的ではないものも混じっている可能性があります(今回は特にあり得ると思っています)。追記として、現地で撮影した説明板(東京都教育委員会さんの説明)をそのまま掲載します。

<説明板>
sirononagori216 (7).JPG

東京都指定史跡 徳川慶喜墓
所在地:台東区谷中7-2 寛永寺墓地内
指定:昭和44年3月27日
徳川慶喜(1837から1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、大5代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
平成22年3月建設 東京都教育委員会


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