つわものどもが夢の跡
豊島一族の平塚城跡を訪ねました。
<平塚城のなごり>
現在の平塚神社です。平安時代に豊島氏が城を築いたと伝わる場所ですが、正確な位置までは分かっていないようです。平塚神社はJR上中里駅すぐそばです。
<高低差>
凄い地形ですね。右手の丘が城跡(平塚神社)です。この坂道は堀切のなごり?ふと頭をよぎりましたが、長年かけて水が台地を削った跡なのかもしれません。
登ってきた坂を振り返ります。左手の階段を登ったところが平塚神社です。
正面から入るより、ここから上がった方が早い
■ 城跡として ■
この城跡に遺構はありません。ただ台地となっていることから、何らかの要塞であっても不思議ではないところです。豊島一族の城跡と推定されている飛鳥山からも徒歩圏内。説得力はあります。
<豊島氏による神社>
源義家が祀られています。鎌倉幕府をひらいた源頼朝も、室町幕府をひらいた足利尊氏も、この方を祖とします。通称は八幡太郎。源氏勢力の基盤をつくった英雄ですね。
この方を祀る理由は……
<伝説>
源義家が陸奥で清原氏一族の争いを鎮定した帰路にここへ立ち寄り、手厚くもてなした領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜。源義家が没した後、豊島太郎近義は城の鎮護のためにその鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き(これが平塚の名の由来)、そこに社を建てて義家ら兄弟の木像を安置した。そして「平塚三所大明神」と称し、一族の繁栄を祈願したと伝わります。
事実がどうかより、いい話ですね。実際、その後豊島一族は長らく繁栄しました。
やがて豊島氏が本拠を石神井城へ移すと、ここ平塚城は支城的な役割を担うようになります。一方で、城としての機能は失われたという説もあります。まぁ事実がどうであれ、この地が豊島氏と深い関わりがあったことは間違いありませんね。
ただ、始まりがあれば必ず終わりもあります。豊島一族、あの有名な太田道灌に敗れるとあって、その最後の方が有名かもしれません。石神井城主・豊島泰経は、道灌と江古田・沼袋原で戦い敗れます。石神井城へと逃れましたが、さらに攻められ落城し、ここ平塚城へと逃げ延びました。翌年、再び平塚城で挙兵しますが、またも城は落とされ、これをもって豊島氏は滅んだとされています。
(豊島泰経は消息不明。足立方面に逃れた、あるいは小机城(横浜市)へと逃れたとも言われています)。
諸説ありますが、平塚城での挙兵を史実とすれば、ここが豊島氏にとって最後の城だったことになります。
終焉の城跡であり、一族繁栄の基盤を作った城跡でもあります。
<つわものどもが夢の跡>
春の花が咲き誇っていました
■訪問:平塚城
( 平塚神社 )
[東京都北区上中里]
お城巡りランキング
2017年03月11日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/6039452
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック