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2024年08月23日

近藤勇墓所(三鷹市)龍源寺

<近藤勇胸像>こんどういさみ
Isami-Kondo-Statue-at-Ryugenji.JPG
三鷹市の龍源寺の門前で撮影しました。龍源寺は近藤勇の生家宮川家の菩提寺です。新選組局長・近藤勇(幼名宮川勝五郎)は、ここから徒歩数分のところで生まれました。生まれた家も龍源寺も、古くからある街道に面しています。

<龍源寺門前>りゅうげんじ
Stone-Monument-Isami-Kondo-Grave.JPG
山門の左手には六地蔵、奥に冒頭の近藤勇像、縦長の石碑(石柱?)には「史跡近藤勇墓所碑」と記されています。

<天然理心流の碑と庚申塔>
Stone-Monument-Kondo-Grave.JPG
「近藤勇と天然理心流の碑」と庚申塔などが並べられています。

「近藤勇と天然理心流の碑」は字が一部で読みにくいですが、鹿島神道流の修行を積んだ天然理心流創始者・近藤内蔵助長祐のことや、四代目を継承した近藤勇のことが紹介されています。全てはご紹介しませんが、総じて熱を帯びた文面となっており、近藤勇が剣豪の名に相応しいことが伝わってきます。『古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産』という言葉が印象に残りました。

<龍源寺参道>
Mitaka-Ryugenji-Gate.JPG
両脇にはイチョウの大木。奥が龍源寺本堂です。

<龍源寺本堂>
Mitaka-Ryugenji.JPG
御本尊は釈迦如来。曹洞宗の寺院です。近藤勇の墓はこちらの本堂裏手になります

<扁額>
Ryugenji-Plaque.JPG
龍源寺の山号は大沢山。ここは旧大沢村ですので地名由来ですね。創建は1644年とのことで、古くからこの地にあったお寺のようです。Wikiさんによれば、人見街道に面していることから、徳川将軍が鷹狩のための休憩所として立ち寄ったこともあるそうです。

<墓所>
Isami-Kondo-Grave-.JPG
複数の墓石が並んでいます。全て一族の墓。うち1基には「近藤勇墓」と刻まれています(この画像だと木の陰になっています)。養子勇五郎の墓もここにあります。近藤勇の墓は東京都指定文化財となっていますが、個人のお墓ですので、遠くからの撮影にさせて頂きました。墓所の雰囲気は伝わると思います。

<墓所内石碑>
Stone-Monument-Kondo.JPG
墓所内に辞世の碑が設置されています。全て漢字で私には難解ですが、冒頭の「孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流」は字の通り受け止めて良さそうです。援軍が絶えて孤立し、囚われの身となり、主君の恩を思うと涙が流れる。そんな感じだと思います(ちょっと雑ですみません)。

<説明板>
Isami-Kondo-Grave-Explanation-Board.JPG
三鷹市教育委員会さんによる説明文です。多少補足しながら要約させて頂くと、まず近藤勇が天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の生まれであること、宮川久次郎の三男であること、そして15歳で天然理心流近藤周助に入門し、28歳で近藤家の養子となったことが記されています。近藤は近藤周助の後継者となり、天然理心流四代目を襲名しています。

次に、土方歳三らと京都に上ったのが文久3年(1863)で、慶応3年(1867)の大政奉還までの4年間が、新選組として活躍した期間であると記されています。板橋宿で処刑されたのは慶応4年4月25日(1868年5月17日)。享年35歳でした。

<新選組局長>
Isami-Kondo-Statue-Ryugenji.JPG
流山で捕らえられた近藤勇は、その時点で新政府軍の本陣が置かれていた板橋宿に連行され、連日取り調べの後に斬首刑。近藤勇の首は、京都の三条河原で晒し首とされましたが、その後の行方がはっきりしていません遺体は遺族が引き取り、龍源寺に葬ったと伝わります。


近藤勇の墓については、ここ三鷹の他に、処刑された板橋など、複数存在しています。普通なら墓はひとつですが、時代背景やご本人の影響力からして、自然なことなのかもしれません。それぞれの場所で、幕末の動乱を生きた近藤勇に思いを馳せる人たちがいまもいる。どこが最も有力な墓であるかという議論より、そのことの方が尊いと個人的には思っています。

<龍源寺門柱>
Ryugenji-Temple-Mitaka.JPG
現在の住所だと、龍源寺は三鷹市なのに対し、すぐ近くの近藤勇出生地は調布市になります。市境ですからあり得ることですが、生れ育った者にとってはこの付近全てが故郷。そういう意味で、今回は近藤勇本人の故郷の墓を訪ねたという思いがしました。

ということで
三鷹市の近藤勇墓所のご紹介でした。

■訪問:
近藤勇の墓(龍源寺)

[東京都三鷹市大沢] 6丁目


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■参考・出典
・近藤勇と天然理心流の碑
(三鷹市剣道連盟)
・現地説明板
(三鷹市教育委員会)
・Wikipedia:2024/8/23
・みたか都市観光協会HP
三鷹web観光案内>おすすめスポット
>大沢

https://kanko.mitaka.ne.jp/docs/2021111000015/
タグ:東京

新選組局長ゆかりの地(調布市)近藤勇生家跡と近藤神社

新選組局長・近藤勇の生家跡を訪ねました。
<近藤勇生家跡>
Birthplace-Kondo-Isami.JPG
こちらです。現地は調布市と三鷹市の市境付近。標柱と説明板の以外は、勇の産湯に使ったとされる井戸が残っているだけです。

<産湯井戸>
BirthplaceWell-KondoIsami.JPG
近藤勇はこの地で暮らす百姓・宮川家の三男として生まれ、のちに近藤家の養子となりました。

<説明板>
Birthplace-Kondo-Explanation-Board.JPG
調布市教育委員会さんによる分かり安い説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます(『』内は原文:改行省略)。
『この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。十五歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。』

生涯でいろいろな名のある近藤勇の最初の名は宮川勝五郎。のちに養父となる天然理心流・近藤周助に15歳で入門しました。実父の宮川久次郎は比較的裕福な百姓であったようで、屋敷がそうとう広かったことが説明文から伝わってきます。

現在の生家跡は、広い屋敷内の隅っこのごく一部。更に農地もあったのですから、感覚的には、この付近一帯が近藤勇が生まれた場所と受け止めることにしました。宮川家は屋敷の一部を道場として提供するなどしたため、付近の出稽古先として賑わったそうです。近藤勇というと、師匠であり養父である近藤周助の話をよく耳にしますが、実家である宮川家も、剣豪が育つに相応しい環境だったように思えます。

説明文によれば、昭和18年までは家が残っていたようです。ここは調布飛行場の近く。当時の陸軍機の離着陸の都合で取り壊されたようです。

<もうひとつの説明板>
Birthplace-Kondo-Guidance-Board.JPG
説明板はもうひとつ設置されています。宮川家の説明から始まり、天然理心流入門や4代目襲名、そして板橋で処刑されたことなどが経緯も含めて紹介されています。左側には宮川家の写真や復元図なども掲載されているのですが、私の訪問時にはちょっと色あせておりました。この説明板だと、宮川家は裕福というより、村の中間層だったことになります。どっちみち諸説あるので、私は「比較的恵まれた環境」というふうに理解したいと思います。

そして

<近藤神社>
Kondo-Shrine-Chofu.JPG
こちらは生家跡のすぐお隣の近藤神社です。昭和元年、有志の手により建てられました。言うまでもなく、近藤勇が祀られています。

実は
事前のネット検索で見た近藤神社には、木製の鳥居がありましたが、私の訪問時(2024年8月18日)にはありませんでした。

<鳥居の跡>
Traces-Shrine-Gate.JPG
事情はわかりませんが、鳥居は根元からなくなっています。きちんと切断された断面を見ると、割れ目が柱の内部にまで至っているように見えます。古い木製の鳥居でしたので、付け替えるのかもしれませんね(そう思うことにしたというだけです)。

<近藤勇生家跡と近藤神社>
Birthplace-Kondo-Isami-Chofu-City.JPG

ということで
近藤勇生家跡と近藤神社のご紹介でした。

<人見街道沿い>
Birthplace-Kondo-Isami-Chofu.JPG
現地は道路に面しています。ここから徒歩数分のところに、近藤勇墓所である龍源寺があります。

■訪問:近藤勇生家跡
[東京都調布市野水]1-6-8


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■参考・出典
・Wikipedia:2024/8/23
・現地説明板
(調布市教育委員会)
・調布観光ナビHP
>近藤勇生家跡

https://csa.gr.jp/contents/16004
タグ:東京

2023年12月23日

強運の御神木(芝東照宮)

<大イチョウ>
Sacred-Tree- Shiba-Toshogu.JPG
芝東照宮の大イチョウです。徳川家光が植樹したと伝わる神木です。説明板によれば推定樹齢は350年。それ以上というお話も耳にします。都の天然記念物に指定されています。

<芝東照宮>
Shiba-Toshogu-Shrine.JPG
芝東照宮は日光・久能山・上野と並ぶ四大東照宮のひとつとされ、もともとはかなり豪勢な造りでした。しかし東京大空襲により社殿は焼失。現在の社殿は1969年に再建されたものです。それだけ大きな被害を受けた時でも、御神木の大イチョウは無事でした。

強運の御神木

<御神木>
Located-inside-Shiba-Park.JPG
理屈で説明できない神域をここに感じてしまうのは、きっと私だけではないと思います。

<年末の銀杏>
Big-Ginkgo-Shiba-Toshogu-Shrine.JPG
私の訪問は12月も既に半ばを過ぎていましたが、まだまだ黄葉が見事

強運の大イチョウは、再建された東照宮のそばで毅然と佇んでいます。

■訪問:芝東照宮の大イチョウ
[東京都港区芝公園]4丁目8-10


■当ブログ過去記事■
芝東照宮については過去に投稿させて頂いております。ブログを始めた頃の拙い内容ですが、良かったら覗いてみて下さい。
shirononagori221 (7).JPG
港区芝公園の東照宮
(クリックで記事に移動します)


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■参考
現地説明板(東京都教育委員会)

タグ:23区

2023年12月17日

上野東照宮 震災も戦火もくぐり抜けた強運の社殿

東照大権現とは、徳川家康が亡くなったあとに贈られた神号のこと。権現とは、神仏が人という仮の姿でこの世に現れる事を意味します。2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、3代将軍となる家光の乳母・春日局が、家康を指して「神の君」と呼んでいました。その言葉通り、家康は死後に神として崇められました。

<上野東照宮>
Ueno-Toshogu-Shrine-Dedicated-spirit-Tokugawa-Ieyasu.JPG
東照宮は東照大権現、つまり神格化された徳川家康を祀る神社です。家康の死後、徳川家と関係の深い大名家が競うように建立したため、東照宮そのものは全国に多数あります。しかしここ上野の東照宮は、日光や久能山に準じる存在感を放っています。

上野東照宮の創建は1627年(寛永4年)。藤堂高虎が、自身の屋敷地に創建したことに始まります。藤堂高虎は築城の名手としても知られ、江戸城を造り直した徳川家の重臣でした。

<水舎門>
Ueno-Toshogu-Shrine-Gate.JPG
鳥居の先のこの門は、元々は社殿の水舎として使用されていたものとのこと

<五重塔>
Precinct-Ueno-Toshogu.JPG
境内から見える旧寛永寺五重塔。老中・土井利勝の寄進で東照宮の塔として建てられましたが、一旦焼失し、その後再建。明治の神仏分離により寛永寺に譲渡され、のちに都に寄贈されています。寛永寺といえば、将軍家が重用した天海僧正を開祖とする徳川家の菩提寺。上野東照宮はもともとは寛永寺の境内社でした。

<神楽殿>
Ueno-Toshogu-Shrine-Kagurahall.JPG

<御水舎>
Ueno-Toshogu-Shrine-Purification-Fountain.JPG

<鈴が吊るされた御水舎>
UenoToshogu-Shrine-2.JPG

<銅燈籠>
Precinct-Ueno-Toshogu-Shrine.JPG
全国の大名から奉納された銅燈籠

<唐門>
Ueno-Toshogu.JPG
1651年造営の唐破風造り四脚門。重要文化財です。

そして

<社殿>
UenoToshogu-mainbuilding.JPG
豪華な造りの社殿。この社殿は徳川家光が改築(1651年)したもので、国の重要文化財に指定されています。現在は家康、吉宗、慶喜が祀られていますが、創建当初の祭神は家康と天海僧正、そして藤堂高虎だったようです。

Ueno-Toshogu-The-shrine-gold.JPG
金色殿とも呼ばれています

The-shrine-gold-Ueno-Toshogu.JPG
見事な彫刻です


Ueno-Toshogu-Shrine-main-building.JPG
東京のど真ん中でありながら、戦災や震災でも崩壊を免れて今に至ります。凄いことですね。

強運の神が祀られている

そんな思いからでしょうか。都内屈指のパワースポットと言われています。


■訪問:上野東照宮
[東京都台東区上野公園]9-88


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■参考■
・・Wikipedia:2023/12/17
・現地説明板
・上野東照宮HP

https://www.uenotoshogu.com/
タグ:23区

2023年05月16日

赤坂の勝海舟邸跡(勝安房邸跡)

港区赤坂でこんな光景と出会いました

<勝海舟と坂本龍馬>
Two-strong-personalities-Katsu-Sakamoto.JPG
いうまでもなく、師弟関係ですね

この地は勝海舟屋敷跡とのこと。もっとも、勝海舟はたびたび引っ越しをしましたので、そのうちのひとつということになります。

<説明板と石碑>
Katsu-Mansion-Ruins-Akasaka.JPG
勝安房邸跡と題して説明がなされています。安房(あわ)とは官位に由来する呼び名ですね(幕末に安房守(あわのかみ)を名乗ったため)。維新後は安房から安芳に代えたことから、 石碑の方は勝安芳邸址と刻まれています。

説明文を以下に転記させて頂きます。 
『この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治五年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遣しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成十五年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生ブラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。』

波瀾万丈な生涯をおくった勝海舟の最後の住かということですね。敷地はその後小学校として、現在は福祉施設として活用されています。

さて
その勝海舟のお隣に毅然と立つ龍馬ですが、開国論者の勝を斬るために会いに行ったものの、逆に世界情勢や軍備の必要性を説かれ、その場で弟子になったという話が広く知られています。いい話ですね。ただ、実際にはしかるべき地位の方の紹介状を受けた上で訪問しているので、本当に斬りかかるということは考えにくく、ちょっと誇張された話なのかもしれません。ただ、龍馬が海舟に心服していたことは間違いありません。龍馬は、海軍操練所の設立や薩摩藩との交渉役を任されました。勝との出会いで、いわば「働きの場」を与えられたわけですね。

Two-great-men-Katsu-Sakamoto.JPG
幕末に大きな役割を果たした師弟の姿です

■訪問:勝安房邸跡
(勝海舟邸跡)
[東京都港区赤坂]6丁目

■参考及び出典
現地説明板(港区)



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2022年12月14日

本懐を遂げた赤穂浪士たちが渡った橋(港区)金杉橋

本日12月14日は赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日です。

ということで、本懐を果たした浪士たちが、泉岳寺に向かう道中に渡った橋をご紹介します。渡った橋なら他にもありますが、こぼれ話が伝わる港区の橋の話です。

<金杉橋>かなすぎはし
Kanasugihashi.JPG
こちらです

<国道15号>
Kanasugi-bridge.JPG
国道15号が古川を渡る地点に架けられている橋です。旧東海道であり、江戸時代には既に橋が架けられていました。

さて
吉良邸のあった本所(両国)からここまでくれば、泉岳寺は目と鼻の先です。ここで大石内蔵助は、四十七士のひとり・磯貝十郎左衛門に声を掛けます。十郎左衛門には病床の母がいて、金杉橋のお隣の将監橋近くに身を寄せていることから、立寄って暇乞い、つまり別れを告げてくるように促しました。

<古川と将監橋>しょうげんはし
Kanasugibashi-Furukawa.JPG
金杉橋から見た古川の上流です。奥に将監橋が見えています。すぐ近くですね。

磯貝十郎左衛門は、突然切腹となった主の亡骸を片岡源五右衛門らとともに引き取り、泉岳寺に葬った男です。その日のうちに仇討ちを決意したものの、筆頭家老として浅野家再興を優先する大石内蔵助と話が合わず、独自の行動で仇討ちの機会をうかがっていました。最終的には赤穂四十七士に名を連ねますが、主君への熱い思いは、内蔵助にも充分伝わっていたはずです。金杉橋での配慮には、そういった背景があったのでしょう。

しかし、十郎左衛門はこれを辞退しました。病の母、そして母を預かってもらっている家に災いが及ぶことを懸念したからです。その思いも、内蔵助には伝わっていたことでしょう。

kanasugi-hashi.JPG
そんな心のやりとりがあった橋です

ということで
本懐を遂げた赤穂浪士たちが渡った金杉橋と、四十七士のひとり・磯貝十郎左衛門のお話でした。十郎左衛門は通称で、正式には礒貝正久といいます。ちょっと付け足すと、利発な上に美男子だったそうです。

Kanasugi-bashi.JPG

■訪問:金杉橋
[東京都港区芝1丁目]
[ 〃 浜松町2丁目]

■参考
Wikipedia:2022/12/13



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2022年10月22日

板橋宿平尾脇本陣(板橋区)近藤勇が幽閉されていた屋敷跡

流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇が、処刑までのあいだ幽閉されていた板橋宿の脇本陣跡を訪ねました。
<板橋宿脇本陣跡>
itabashi-wakihonjin-ato.JPG
板橋宿の脇本陣跡です。脇本陣は、本陣の役割を補うための重要な施設。この地はその役割を担っていた豊田市右衛門の屋敷跡です。近藤勇がここへ連行された時、本陣には新政府軍が駐留していました。

現在は立派なマンションが建つのみで、かつての面影はありませんが、通り沿いに目印の碑と説明板が設置されています。

<平尾町脇本陣の碑>
itabashi-wakihonjin-monument.JPG

<説明板>
Itabashi-Wakihonjin-Explanation-board.JPG
板橋区教育委員会による説明文が記されています。全てご紹介致しませんが、脇本陣を務めた豊田家と、近藤勇に関するところだけ転記させて頂きます

まずは豊田家について
『豊田家は、板橋宿 の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。』
ここでいう平尾は、板橋宿のなかのひとつのエリアを指します。もう少し具体的に言うと、板橋宿は上宿・中宿・下宿の3つの宿場で構成されていて、平尾宿は下宿の別称です。その平尾宿は3つの宿場でもっとも南側に位置するため、日本橋から中山道を通って北上してきた場合、最初の宿場となります。

次に近藤勇について
『慶応四年(一八六九)四月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。』
脇本陣で拘束された近藤勇は、本陣で新政府軍による取り調べを受けました。平尾一里塚とは、ここから少し離れた宿場の入り口付近で、現在のJR板橋駅付近(北区滝野川)になります。

近藤に対する取り調べは20日間続き、脇本陣では牢に入り、昼夜を問わず見張り役がついていました。お役目を申しつけられた横倉喜三次は、旗本・岡田将監の家臣にして剣の達人。言い換えると、もともとは幕府直属家臣配下の武士。最終的には近藤勇の介錯を務めることになります。立場は違いますが、横倉喜三次は同じく剣の達人である近藤に敬意を持って接したと伝わります。脇本陣で過ごすあいだ、どんな言葉を交わしたのでしょうか。

Itabashiwakihonjinato.JPG
横倉喜三次は、介錯を務めて受け取った報奨金を全て近藤の法要につぎ込みました。ここは二人の剣豪の思いが通じ合った場所なのかもしれませんね。

■訪問:板橋宿平尾脇本陣跡
(豊田家屋敷跡)
[東京都板橋区板橋]3-15

<補足>
itabashi-wakihonjin-sign.JPG
現地は旧中山道沿いではなく脇道に入ってすぐのところです。

■参考及び出典
現地説明板
(板橋区教育委員会)
Wikipedia:2022/10/22



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2022年10月08日

徳川秀忠生母・お愛の方ゆかりの新宿の寺院(天龍寺)

今回は新宿三丁目駅近くの天龍寺のご紹介です。
<天龍寺山門>
tenryuji-gate.JPG
創建は1591年。開基は戸塚忠春とその娘、開山は小田原最勝寺五世の春屋宗能和尚と伝わります。

戸塚忠春?

遠江国の武士です(戸田忠春とも伝わります)。今川家に仕えて、今川義元が北条氏康と激突した際に討死となりました。

その娘?

お愛の方と呼ばれるこの方は、あの徳川家康の側室となり、二代将軍となる秀忠の母となった女性です。尾張清洲藩主となる松平忠吉(家康四男)の生母でもあります。家康には多くの側室がいましたが、秀忠を生んだことで正式な側室となりました。西郷局といい、お愛の方は通称です。

そのゆかりの寺院ということですね

<本堂と寺務所>
temple-shinjuku-tenryuji.JPG
曹洞宗の寺院です。緑も少なく、外見はちょっと無機質な感じもしますが、場所が場所ですので、逆によくぞこの広さを確保しているなぁという印象です。昔はこの境内に湧いていた湧水が、渋谷川の源流だったとも言われています。水も緑も豊かな寺院だったのでしょう。

天龍寺は遠江国にあった戸塚忠春の菩提寺・法泉寺を前身とする寺院です。家康が関東へ移るに際し、現在の牛込付近に移され、法泉寺近くを流れていた天竜川にちなんで天龍寺と改められました。1683年(天和3年)の牛込の火事が原因で、この地に移転となったそうです。

ということで
戸塚忠春とその娘であるお愛の方ゆかりの天龍寺のご紹介でした。江戸の名鐘で知られる寺院ですが、徳川家と関係の深い寺院としてご紹介させて頂きました。

<三つ葉葵>
tenryuji-gate-aoi.JPG

■訪問:天龍寺
[東京都新宿区新宿]4丁目

■参考
猫の足あと

https://tesshow.jp/shinjuku/temple_shinjuku_tenryu.html



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2022年10月02日

太田道灌騎馬像(日暮里駅前広場)鷹狩りをする若き道灌の姿

今回は日暮里駅前の太田道灌像の話です。

<太田道灌騎馬像>
doukan-equestrian-statue.JPG
道灌が馬で駆け抜けようとしている勇ましい姿です

<鷹狩り>
equestrian-statue-outa-doukan.JPG
戦ではなく鷹狩りをしている姿です

その鷹狩りの最中の逸話として語り継がれているのが「山吹の里伝説」。文武両道で知られる道灌が、まだ若い頃の話です。

<説明板>
explanation-yamabukidensetu.JPG
荒川区による説明が記されていますので、前半を抜粋してご紹介させて頂きます。

『太田道灌 山吹の里伝説
鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げた。
「七重八重花は咲けども山吹の
 実の一つだになきぞ悲しき」
(後拾遺和歌集・兼明親王)
 「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は、家臣から「山吹」の意を告げられる。娘が古歌に託して「実の」に「蓑」をかけ「お貸しできる蓑もございません」と詫びていたことを知った道灌は、この後、和歌の道に精進するようになったと言われている。』


歌人としても知られる太田道灌ですが、最初から文武両道だったわけではなく、若いころの決意を起点に、そうなっていったと受け止めました。

山吹の里は道灌の逸話として有名ですが、候補地がたくさんあのます。史跡は高田馬場や埼玉県越生市他ほか複数存在しています。ここ荒川区もその候補地のひとつということになります。説明文の中盤には
『荒川区周辺は、道灌の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川六丁目)辺りに住んでいた高畠三左衛門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝える』と記されています。

doukan-yamabukidensetu.JPG
こちらは山吹の一枝を道灌に捧げた娘の像です。現地説明をそのまま引用すると『高畠三左衛門の娘』です。

yamabuki.JPG
一枝の山吹。お貸しできる蓑もなく、これが精一杯の返答だったのでしょう

ということで
山吹の里伝説をイメージした太田道灌の騎馬像のご紹介でした。

Tokyo-Arakawaku-Doukan.JPG

■訪問:太田道灌騎馬像
 (日暮里駅前広場)
[東京荒川区西日暮里]2丁目

■参考及び抜粋
現地説明板(荒川区)



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2022年09月03日

お稲荷さんの引越(新橋)仙台伊達藩屋敷跡の稲荷社

今回は街のオアシスのようだった稲荷神社の引越の話です。神社仏閣ブログのつもりはありませんが、仙台伊達藩の屋敷跡ということで、ちょっとだけ触れさせて頂きます。

場所は新橋5丁目の塩釜公園。仕事のついでに久しぶりに訪問してみて、異変に気付きました。

twitter-Isuke-Shiogama.jpg
あれ、工事中かな

この時は参道の修復工事であろうと思いました。

ところが
しばらく間をおいて訪問してみると

twitter-Isuke-Shiogama (2).jpg
鳥居もお稲荷さんもなくなっている!

少し焦りましたが、塩釜神社参道(画像右手の鳥居)の向こうに移されていました

twitterIsuke-220623-Shiogama.jpg
こちらに避難か、土台のコンクリがかなり重厚になったなぁ

twitter-Isuke-2206-Shiogama-inari.jpg
これは仮のお姿なのだろう

そうと思い、現地を去りました。

それからしばらくはお邪魔する機会もなく、数ヶ月が経過。そして真夏の暑い日に近くを通ったついでに訪れてみると

Shiogama-jinja-parking.JPG
あれ?お稲荷さんの敷地が舗装されている

実は、それ以前も稲荷神社の手前は駐車場でした。どうやら、今回の工事は駐車場拡張のためだったようです。

で、お稲荷さんはどうなったのか?

Shiogama-jinja-New.JPG
ここが、そのまま移転先か

私が仮と思った場所が、どうやらお稲荷さんの引越先だったようです。これからはここに鎮座…ですか。むかしを知るだけに、ちょっと寂しい感じがします。

まぁだからと言ってどうこう言える立場ではありません。せめて、いままで何度もお世話になったことに感謝して、その画像を記録として残したいと思います。以下は工事前の様子です

<鹽竈神社>しおがま
shirononagori281 (1).JPG
shirononagori281 (2).JPG
塩釜公園の顔とも言うべき神社です。伊達正宗のひ孫・綱村(四代藩主)が、伊達領内の本社から分霊を迎え祀ったのがはじまりとされています。当初は伊達家屋敷内の神社でしたが、のちに庶民に開かれた神社となりました。

そして
<鹽竈神社のお隣>
shirononagori281 (4).JPG
今回お引越となった稲荷神社です

<公園の説明板>
shirononagori281 (7).JPG
Shiogama-jinja-Shrine-Premises-Sendai.JPG
明治時代と思われる鹽竈神社の左手には稲荷社。昔からそういう位置関係だったわけですね。今後の移転で、今後は参道の右手となります


<街のオアシス>
twitter-Isuke-Shiogama-oasisinthecity.jpg
塩釜神社隣りの稲荷社は、まさに街のオアシスでした。実際にはビルに囲まれています。しかし木々の緑で外部から遮断され、何とも美しい空間でした。素通りしないで立ち寄りたく雰囲気、多少は伝わると思います。まぁ場所が場所だけに、いままでが贅沢過ぎたのかもしれません。

ということで
伊達家屋敷跡のお稲荷さんの引越のお話でした。これも時の流れと受け止めるべきなのでしょうね。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:塩釜公園
(仙台伊達藩屋敷跡)
[東京都港区新橋]5丁目



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