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2019年03月10日

風さそふ 浅野内匠頭終焉の地

つわものどもが夢の跡
浅野内匠頭が罪人として預けられた田村右京太の屋敷跡を訪ねました。

<浅野内匠頭終焉之地碑>
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■場所は新橋■
江戸城松之大廊下での事件のあと、拘束された浅野内匠頭の身柄は一関藩田村家の上屋敷へ移されました。屋敷は芝愛宕下、現在の住所だと港区新橋4丁目付近となります。

<説明板>
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藩主は田村建顕(たつあき)。官位として従五位下・右京大夫を任ぜられ、田村右京太の名で通っています。

■慌ただしい一日■
江戸城内での事件は午前。その後すぐ(午後2時頃には)、田村家へのお預けが決まります。田村右京太は急ぎ屋敷に戻り、藩士75名を身柄受け取りのために江戸城へ向かわせました。

夕方には浅野内匠頭が当地へ移送されています。その後間もなく、大目付の庄田安利らが田村家の屋敷に到着し、切腹と浅野家の改易を言い渡しました。

田村家では「しばらく預かる」つもりでいたようです。それが即刻切腹。間もなく、屋敷の庭で切腹が執行されました。

突然の事件、慌ただしいお役目、そして想定外の措置。田村家も大混乱だったことでしょう。

■田村家屋敷跡■
冒頭の石碑は日比谷通り沿いにあります。厳密に言うと、屋敷はもうちょっと奥(つまり現在の日比谷通りに面してはいない区画)のようです。石碑は目立つように、あえて人通りの多い場所に設置したのでしょう。まぁだいたい合ってます。

ところで
この付近で営業している和菓子屋さんがいま人気となっています。
<新正堂>
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こちら。新正堂さんです。

<看板>
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この看板の通り、このお店の名物は「切腹最中」です。

<切腹最中>
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お詫びの品としても人気があります。

新正堂さんは石碑から数百メートルのところ。田村家屋敷があった区画のようです。


■浅野内匠頭終焉の地■
さて
松之大廊下での刃傷から僅か半日で、浅野内匠頭には身分剥奪と所領の没収、切腹が言い渡されました。そして預けられた田村家屋敷でそのまま切腹。心の準備もなく、無念であったこと計り知れません。

<浅野内匠頭>
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官名から内匠頭(たくみのかみ)と呼ばれる浅野長矩(ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。この時35歳でした。

沙汰が言い渡された長矩は、幕府の役人に付き添われ、屋敷の庭へと移されました。切腹場は、朝廷から官位を任ぜられた五万石の藩主には似つかわしくない、とても簡素なものでした。お家断絶と切腹を言い渡した大目付ら立会いのもと、長矩は幕府徒目付の磯田武大夫の介錯で果てました。これが1701年4月21日の出来事です。


■浅野内匠頭 辞世の句■

風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残を いかにとやせん


<つわものどもが夢の跡>
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私の訪問は3月上旬。終焉之地の石碑の隣で、今年もまた春の花が咲き誇っていました。

■訪問
浅野内匠頭終焉之地碑
[東京都港区新橋]4丁目


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-----------(追 記)-----------
別な日に訪問した新正堂さんの画像を追加で貼っておきます。
<新正堂>
Seppukunomonaka.JPG
Seppuku-Monaka.JPG
Seppuku-no-monaka.JPG
とても美味しかったです。新正堂さん、素敵な商品をありがとうございます。
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2019年01月18日

白旗塚 (足立区)源義家のなごり

今回は足立区の古墳を訪ねました。ついに古墳ブログになったのか?そうではなく、この地が源義家ゆかりの地と聞いて訪問しました。

■白旗塚史跡公園■
<公園入口>
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竹ノ塚駅から歩いて10分程度です。

<公園内>
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古墳時代の雰囲気を醸し出すレプリカです。

<人形埴輪>
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ちょっと寂しげに感じるのは私だけでしょうか?

さてさて
この公園のメインは本物の古墳です。

<白旗塚古墳>
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直径12m高さ2.5mの円墳。

古墳時代初頭の6世紀前半頃のものと考えられています。かつては8基の古墳が並んでいたそうですが、現存するのはこの1基のみとなっています。

東京都指定史跡です。保護のためもあるのでしょう。堀が復元されています。

<古墳の正面>
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橋が架かっていますが立ち入りは禁止

ということで、説明が控えめで申し訳ございません。なにせ古墳の知識がほとんどありません。そろそろ本題に移ります。

■源氏の白旗■
<説明板>
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東京都教育委員会さんの説明文です。

最後の部分だけ抜粋すると
『白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が、奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗をたてたためと言われています』
とのこと。つまりこの地を通ったということですね。

源頼義は武勇の誉れ高い河内源氏2代目棟梁です。
そして有名な源義家。源氏を武家棟梁にまで押し上げた武将ですね。義家の評価については諸説あるものの、八幡太郎の名で語り継がれる英雄であることは間違いありません。

で、先ほどの説明だと「この地に白旗をたてた」とのこと。そうですか。実は「義家がこの地で白旗をたてて戦った」と聞き及んで訪問しました。奥州はまだまだ先。地元の野武士集団に襲われながら、これを苦戦の末に退けたのだと。しかしそんな説明はありませんでした。

ただまぁ白旗は戦における源氏の旗印。源平合戦では、源氏が白旗を掲げ、平家は赤旗を掲げました。日本人に浸透している「紅白」での対抗という構図はここからきているわけですね。その白旗をたてたということは、戦闘に至ったと拡大解釈しても・・・良いとはいいませんが、素人の私はそんなふうに受けとめました。

ここに限らず、足立区には奥州征伐に向かう源義家ゆかりの地が複数あります。のちの時代に街道として整備される以前から、この地は北へ向かうための通り道だったのでしょう。そのうちの一つに触れた。そんな小さな満足感で現地を後にしました。

<白旗塚>
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■訪問:白旗塚史跡公園
[東京都足立区東伊興]3丁目


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2018年12月17日

大石内蔵助 終焉の地 細川家下屋敷跡

つわものどもが夢の跡
主君・浅野内匠頭の仇討ち後、大石内蔵助が預けられた大名の屋敷跡を訪ねました。

<肥後熊本藩細川家下屋敷跡>
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■四家預かり■
吉良上野介の首を、泉岳寺の主君の墓前に供えた赤穂浪士たち。その身柄は、細川綱利(肥後熊本藩)・水野忠之(三河岡崎藩)・松平定直(伊予松山藩)・毛利綱元(長門長府藩)の4家にお預けとなりました。今回訪問したのは細川家の屋敷跡。肥後熊本藩細川家下屋敷跡です。ここには大石内蔵助を含む17名が預けられました。

<現在の屋敷跡>
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扉の隙間から中を撮影

預けられた家によりますが、浪士たちは罪人のような扱いではなく、あくまで武士として扱われたと伝わります。その中でも、特に細川家の待遇は良かったようです。まぁ初めてのことで、預かる側の対応も当初はまちまち。戸惑いもあったでしょう。浪士を預かった大名たちは互いに連絡を取り合い、細川家に倣った対応をしたようです。


■細川綱利■
幕府より17名の預かりを命じられた細川綱利は、いろんな文献を読む限り、かなり赤穂浪士たちに惚れ込んでいたような気がします。あまりの厚遇に、大石内蔵助ら浪士側から、食事などを簡素にするよう頼まれたそうです。ほぼ接待のような感じだったのでしょうか?
更に綱利は、浪士たちの助命を幕府に願い出て、召抱えの話までしていたそうです。これはもう「惚れ込んだ」という表現が一番適切なのではないでしょうか。


■沙汰を待つ■
浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には、即日切腹が決まりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討入りについては、40日以上の時間が費やされました。死を覚悟しているとはいえ、浪士たちはこの間どんな思いだったのでしょうか。

死罪・切腹・助命

選択肢はこの3つです。ただの罪人という扱いなら死罪。武士の面目を保つなら切腹。助命は浪士の行為を認めることになります。

<屋敷跡>
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こちらは冒頭の画像の位置からちょっと離れた場所。周辺も散策してみました。柵があって入れませんが、この付近一帯も細川家の下屋敷だったようです。

<旧細川邸のシイ>
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[港区高輪]1−16−25
赤穂事件の当時から、屋敷内にあったとされるシイノ木です。ということは、死を覚悟している赤穂浪士達も、この木を眺めたのかもしれませんね。

<説明板>
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高さ10mで、幹の囲りは8mもあるようです。

<巨木>
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東京都指定天然記念物です。

<高低差>
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シイノ木の脇に階段があります。下まで結構な高低差がありますね。

<崖の上>
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下から撮影。屋敷は崖の上にあったようですね。

大石内蔵助良雄■くらのすけよしたか
赤穂浪士たちを率いて、仇討ちを成し遂げたことで知られる大石内蔵助。この方、もともとの立場は播磨国赤穂藩の筆頭家老。重要ポストですね。赤穂事件後、血気盛んな元藩士たちを抑えて、ひたすら『お家再興』を優先しようとしたのも、その立場あってのことかもしれません。

そもそも大石家は下野国で名を馳せた小山氏の一族(藤原秀郷の末裔)。常陸国で浅野家に仕えて、浅野長直(浅野長政の三男)が赤穂に転封されるタイミングで大石家も赤穂へ移りました。内蔵助本人は赤穂の生まれ。赤穂城内で生まれたそうです。

細川家に預けられた時、内蔵助は四十代半ばでした。もはや思い残すこともない。そんな感じでしょうか。ただ、かなり思慮深い男です。そして主君・浅野内匠頭に仕えるだけでなく、浅野という「家」を支えてきた家老です。もしかしたら、沙汰を待つこの状況においても、まだ僅かな期待があったかもしれませんね。だからこそ、仇討後に勝手に自害するのではなく、出頭して幕府に判断を委ねたのでしょう。


■切腹■
元禄16年2月4日 (1703年3月20日)
幕命により赤穂浪士達は各々の屋敷で切腹となりました。細川家では、場所は庭先ながら畳三枚を敷くなど最高の格式とし、介錯人も厳選したとされています。

[細川家で切腹した17名]
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大石内蔵助
吉田忠左衛門・原惣右衛門
片岡源五右衛門・間瀬久大夫
小野寺十内・間喜兵衛
礒貝十郎左衛門・堀部弥兵衛
近松勘六・富森助右衛門
潮田又之丞・早水藤左衛門
赤埴源蔵・奥田孫太夫
矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門

この地が終焉の地となりました。

藩主の細川綱利は、切腹後に血で染まった庭を清めることを拒否。赤穂浪士は守り神であると言ったそうです。また、幕府は浪士たちに切腹を命じるとともに、吉良家の領地没収と信州配流を決めています。

<赤穂義士史蹟碑>
shirononagori291c.JPG

■大石内蔵助(良雄)の辞世の句■

あら楽し
思ひは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし


浅野家のお家再興は叶いませんでしたが、やるだけのことはやった。そんな思いでしょうか。

つわものどもが夢の跡
shirononagori291a.JPG

■訪問:
肥後熊本藩細川家下屋敷跡
(大石良雄外十六人忠烈の跡)
[東京都港区芝] 5-20-20


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2018年12月14日

赤穂浪士ゆかりの地 水野監物邸跡

元禄 15年 12 月 14日夜
旧赤穂藩士47名が,江戸本所松坂町の吉良邸へ討ち入りました。今回の訪問は、主君の仇討ちを果たした赤穂浪士のうち、9人が預けられた大名屋敷の跡地です。

■水野監物邸跡■ みずのけんもつ
<屋敷跡地>
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ここは三河岡崎藩水野家芝三田屋敷跡。とっても、路地の奥の狭いスペースに、屋敷の庭を模したような空間があるだけ。石灯籠と説明板が目印です。

<説明板>
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本懐を遂げた赤穂浪士たちは、肥後熊本藩細川家・三河岡崎藩水野家・伊予松山藩松平家・長門長府藩毛利家に分かれて 幕府の沙汰を待ちました。大石内蔵助は細川家。ここ水野家には以下の9人が預けられました。

間光興・奥田行高・矢頭教兼
村松高直・間瀬正辰・茅野常成
横川宗利・三村包常・神崎則休

この時の藩主は第4代の水野忠之(監物)。将軍吉宗の享保の改革を老中として支えた人物であり、後に天保の改革で名を馳せる水野忠邦は忠之の子孫。名門の譜代大名家ということですね。

赤穂事件の時、水野忠之はまだ三十代前半(老中となるのはもっと後の話です)。細川家を手本に、浪士たちを手厚くもてなしたと伝わります。

<石灯籠>
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そして2月4日
幕命により、浪士たちは屋敷内で切腹となります。庭先ながら畳二枚が敷かれ、格式を重んじた形で刑に処されました。

<慶応仲通り商店街>
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場所はJR田町駅から徒歩数分。ここを潜って更に進んだ小径の奥が屋敷跡です。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。

■訪問:水野監物邸跡
[東京都港区芝] 5-20-20


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2018年12月06日

勝海舟 生誕の地(両国公園)

つわものどもが夢の跡
幕末に活躍した幕臣・勝海舟の生まれた場所を訪ねました。

<両国公園>
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最寄り駅はJR両国駅。両国公園の一角が、勝海舟生誕の地です。父親・小吉の実家で生まれた勝海舟(幼名麟太郎)は、7歳までこの地で過ごしたそうです。

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もともと石碑だけだったようですが、大河ドラマ(西郷どん)の影響もあるのでしょうか?内容が充実しています。

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大きな説明パネルには、勝の経歴が詳しく記されています。鳶が鷹を生んだ・黒船来航・幕府海軍の礎となる・・・
充実しすぎて、全部読むには時間がかかります(私には)。

かなり抜粋すると
蘭学を学び、西洋の測量や航海なども学び、やがて幕府の船として初めて太平洋を横断する咸臨丸の航海にも加わりました。新政府軍による江戸城総攻撃の直前、幕府側の代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城に成功。のちには明治政府にも重用されました。そして最後は、徳川慶喜が政府に赦免されることにも尽力しています。
大活躍ですね。

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生い立ちに遡れば、勝の実家は旗本といっても知行は僅か41石。組織の安定期においては、重要なポストに就くことなどできない家柄です。外圧により組織の秩序が流動化した。これにより、働きの場を得ることができたのでしょうね。

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■訪問:両国公園
[東京都墨田区両国]4-25-24


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2018年12月04日

町火消「め組」の供養碑 増上寺

つわものどもが夢の跡
今回は江戸の消防団として活躍した「め組」の話です。

<供養碑>
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増上寺境内に設けられている町火消「め組」の供養碑です。徳川家の菩提寺として知られる寺の境内に、町人の供養碑があることが意外でした。

■町火消■まちびけし
火消は言うまでもなく消防の任務についていた者達ですね。密集した江戸の町の悩みの種だった火事。大惨事になったこともあります。町火消は心意気のある者達が集まって、勝手にやっていた?訳でなく、幕府の定めた制度のもとで運営されていました。

武士によるものを武家火消というのに対し、町人によるものを町火消と呼びました。江戸初期は武士が主体でしたが、中期以降は町火消が主体となって活躍。いちいち上層部の認可が必要な武士階級より、民営化した方が効率が良かったのかもしれませんね。町火消の大半は鳶職で構成されていました。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」方法が主流でしたから、並みの町人より、力強い鳶職が適役だったのでしょうね。

■め組■
町火消の始まりは8代将軍吉宗の時。南町奉行の大岡忠相(ただすけ)により、火消の組織化が成されました。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに「ん組」が加わり48組)と、東の本所・深川を担当する16組(のちに3組に統合)に分けて町火消が設けられました。

吉宗、大岡越前、め組。『暴れん坊将軍』を思い出す方も多いかと思われます。まさにその時代のお話です。

■め組の喧嘩■1805年3月
これは江戸時代に実際に起きた町火消しと力士の乱闘事件です。芝神明宮境内で開催中の相撲の入場を巡ってトラブルになり、これを発端に双方が徐々にエスカレートして、最後は大乱闘に至ったというものです。屈強な鳶職が多いといっても、よりによって力士と戦わなくてもと思いますが、その辺りが気質を現わしているのかも知れませんね。『火事と喧嘩は江戸の華』などと言ったりしますが、め組はその両方を地でいった男達なのかもしれませんね。

<め組のけんか>
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芝大門の近くで撮影

で、この喧嘩に対する町奉行のお裁きや如何に?これには相撲興行を取り仕切る寺社奉行、更には勘定奉行まで加わって協議がなされたそうです。結果はめ組に厳しいものとなりました。そもそも喧嘩の原因は、入場無料の「め組」の二人が、知人まで境内に連れ込もうとした事。更に、緊急時しか使用が認められていない火の見櫓の早鐘を、喧嘩で鳴らしており、これらの事実を元に、裁きが言い渡されたようです。め組は二人が江戸追放で他は罰金。比較的軽い罰で済んだようです。力士は江戸払いが一人、他はお咎めはなしでした。ちょっと変わった裁きが、この時に鳴らされた小型の鐘が遠島となっています。

<芝神明宮のいま>
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現在の芝神明宮。増上寺のすぐそばです。伊勢宮の分霊を祀っていることから、「関東のお伊勢さま」として親しまれてきました。明治以降は芝大神宮と呼ばれています。

<拝殿>
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<め組>
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この界隈はめ組の管轄でした。左右の狛犬の足元、台座にしっかりと『め組』の名が刻まれています。

<境内の力石>
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力石は力競べのための重い石のことですね。境内のこの力石は、芝大神宮で行われた興行で、力士・藤吉が片手で持ち上げたものとされています。五拾貫余?50貫は約190キロになります。それを片手で!凄いですね。
め組の喧嘩を意識し過ぎて、江戸時代の力士?と思い込んでしまいましたが、後で調べたら藤吉(通称は「金杉の藤吉」)は明治時代の力士とのことです。ただ、神社と相撲と庶民が、いまよりずっと近い距離だったような雰囲気は味わえました。

<芝大神宮>
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[東京都港区芝大門]

■つわものどもが夢の跡■
<供養碑>
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増上寺の境内は史跡が多く、見どころ満載。その中にあって、この供養碑はちょっと地味です。ただ、当ブログがきっかけで立ち止まってくる人がいたら嬉しいです。江戸の町を悩まし続けた火事。これに命掛けで立ち向った者達の供養碑です。

<増上寺>
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[東京都港区芝公園]


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大平出羽守と奥澤神社

つわものどもが夢の跡
吉良氏から奥沢城を任された大平出羽守ゆかりの地を訪ねました。

■奥澤神社■
<奥澤神社>
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世田谷区奥沢の奥澤神社です。

創建の時期は明らかではありませんが、世田谷城を居城とする吉良氏が奥沢に城を築いた頃と考えられています。城を任された家臣の大平氏が、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請した。これが現在に続く奥澤神社の始まりと考えられています。

<鳥居と大蛇>
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これは目立ちますね

<藁で作った大蛇>
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江戸時代中期頃から、厄除としてこの大蛇を抱えて練り歩く行事が行われるようになったそうです。いまでも「大蛇お練り行事」として続いています。この地の伝統となっているわけですね。


■奥沢城■
<奥沢城跡>
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当ブログでも何回かご紹介させて頂いた奥沢城跡です。吉良頼康により築かれ、家臣の大平出羽守が城主をつとめました。世田谷城の出城的な存在。築城者を大平出羽守とする説もあります。大平氏はもともと地元の有力な土豪。戦国期に吉良氏の家臣に加わり、耕地の開発などで力を発揮しました。

<土塁跡>
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城のなごり。低湿地の台地に築かれた平城を、ほぼ方形に取り囲んでいた土塁の跡です。

<九品仏浄真寺>
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戦国末期、吉良氏は北条氏の勢力に組み込まれていました。豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、奥沢城は廃城。跡地に浄真寺が創建され、現在に至っています。

<境内>
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深まる秋

■帰農■
吉良氏の家臣としてこの地を任された大平出羽守。その間、娘・常盤姫が吉良頼康の側室となりながら亡くなる悲劇もありました。そして1590年の小田原北条氏滅亡。主君である吉良氏は下総国に逃れました。では大平出羽守はどうしたのでしょう。

元々地元の土豪だった大平氏。この地に留まり、等々力で帰農しました。地元の名主と伝わります。

■つわものどもが夢の跡■
名門家の配下となり、世田谷周辺の村々を任された大平出羽守。この神社は、領内の更なる発展に思いを馳せた大平出羽守の夢の跡なのかも知れませんね。

<奥澤神社本堂>
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[東京世田谷区奥沢]


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--------(追 記)--------
奥沢城については別途まとめています。城跡ブログのつもりで運営しておりますので、良かった覗いてみて下さい。『鷺草伝説』として語り継がれる大平出羽守の娘の悲話についても多少触れさせて頂いています。
2018年07月01日
記事→『奥沢の城跡
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2018年11月27日

江戸無血開城に至る会談の場所 田町の薩摩藩邸跡

■西郷・勝会見の場所■
<西郷南洲・勝海舟会見の地>
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新政府軍による江戸城総攻撃が開始される直前、攻める側の西郷隆盛と、幕府側の勝海舟の会談が行われた場所です。2018年大河ドラマ「西郷どん」の影響で、ちょっとした人気スポットになっています。

<現地撮影>
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西郷と勝の会談

<現地撮影(地図)>
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ここはかつて薩摩藩の蔵屋敷があったところ。

<三菱自動車>
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現在は三菱自動車工業の本社ビルとなっています。

二人の会談はまず高輪の薩摩藩下屋敷で行われ、翌日この地にて2度目の話し合いがなされたようです。二人といっても、各々が複雑な事情をたくさん背負った上での交渉。条件が合意に至らない場合、戦もあり得ました。既にその準備はできていましたので。ギリギリの話し合いだったわけですね。


ちょっと移動して、同じく港区芝の別の場所へ

<薩摩藩上屋敷跡>
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こちらは薩摩藩上屋敷跡。NEC本社ビルの敷地です。

<石碑>
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冒頭の蔵屋敷跡から徒歩圏内。上屋敷があるなら、なんでここを会談の場所としなかったの?実は薩摩藩と対立関係にあった庄内藩の焼き討ちにより、薩摩藩の上屋敷は既に焼失していました。

<NEC本社ビル付近>
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晩秋の薩摩藩上屋敷跡。将軍家に嫁ぐ篤姫が、江戸で暮らし始めた場所ということですね。


■江戸無血開城■
江戸城の明け渡しが決まりました。これにより、江戸城下は戦火を免れました。兵士のみならず、市民の命も救われたわけですね。

ただ、ここで戦はここで終わりませんでした。徳川家の本城が、戦うことなく明け渡された。この事実は、のちの会津戦争にも大きく影響したのではないでしょうか。そういう意味でも、今回訪問の地は、歴史的に重みのある場所だと思えました。

<田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)跡>
shirononagori285 (1).JPG

■訪問:西郷・勝会見の地
[東京都港区芝]5丁目


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2018年11月05日

吉良邸跡 清水一学ほか家臣の石碑

つわものどもが夢の跡
赤穂浪士が討ち入った吉良邸跡を訪問しました。

■本所松坂町公園■ほんじょ
吉良家屋敷跡はJR両国駅東口から徒歩圏内(10分以内)です。国技館や大江戸博物館とは逆側になります。

<吉良邸跡>
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到着しました。ここですね。では中に入ってみますか。赤穂浪士は47名で討ち入りましたが、一人で突入です。

<入口>
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いきなり奥に吉良上野介を発見!といっても、何の遺恨もありません。

<吉良上野介義央公座像>よしひさ
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吉良家は清和源氏足利氏流の名門。吉良義央は、幕府の儀式や典礼を任されている高家旗本でした。そしてこの屋敷の主ですね。

<首洗いの井戸>
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みしるし洗いの井戸。名の通りです。

<松坂稲荷>
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こちらは「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したもの。

<展示物>
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忠臣蔵に基づいた各種の展示物。忠臣蔵は好きです。大好きな話です。ただ、諸説ありながら、ほぼヒール役になっている吉良さんに同情する思いもあります。そもそもここは、吉良さんのおうちですよね!

<忠臣蔵に関する立て札>
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公園というより、壁に囲まれたミニ博物館のような空間です。広さは30坪弱。ここはかつての屋敷の一部に過ぎず、吉良邸の広さはこの説明文によれば2550坪だったそうです。ピンときませんが、そうとう広いことは分ります。

赤穂浪士が正門と裏門の二手に分かれて討ち入ったことは良く知られていますね。ではその距離とはどんなものだったのか?47名で押し入っても、討ち漏らす可能性は充分あったのではないか?

それを実感してみたい。空間を肌で感じてみたい。今回の訪問の目的は、たったそれだけです。
公園から少し離れたところに、吉良邸の正門跡と裏門跡の立て札があります。これを確認してみますかね。

<吉良邸正門跡>
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屋敷の東側、ここですね。門はありませんが、この札のお陰で位置はわかります。大石内蔵助を筆頭に、23人が正門から屋敷へ突入しました。大高源五や原惣右衛門は表門隊です。

<吉良邸裏門跡>
shirononagori283 (2).JPG
場所は変わってこちらは裏門跡。屋敷の西側です。最年少の大石主税を筆頭に、24人がこちら側から討ち入りました。堀部安兵衛や不破数右衛門、潮田又之丞らも裏門隊です。

ということで、同じ屋敷の正門と裏門ですが、結構な距離でした。屋敷を挟んで意思の疎通を図るのは難しそうですね。吉良邸は東西約134m、南北が約63mもあったとのこと。炭小屋に隠れた吉良上野介を、なかなか見つけられなかったというのも納得です。また、確実を期するため、浪士数名がこの周辺に住んで事前調査を行っていたというのも分かる気がしました。


■吉良家の家臣■
松之大廊下での刃傷事件から約半年後、吉良家は呉服橋(今で言うと八重洲)からこの地に移転を命じられました。以前より人気の少ない郊外へ引っ越してくれたのですから、これは襲撃する側にとっては好都合。狙われるかもしれない上野介本人も、吉良家の家臣たちも、そのことは充分意識していたことでしょう。

<家臣の石碑>
shirononagori283 (11).JPG
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士たちが遂に吉良邸へ討ち入りました。厳密にいうと15日の明け方ということになります。当時屋敷内には百人前後の家来がいましたが、実際に赤穂浪士たちと戦ったのは40人にも満たなかったとされています。石碑には、寝込みを襲われながら奮闘し、命を落とした家臣たちの名が刻まれています。

<吉良家家臣二十士>
shirononagori283 (12).JPG
吉良家側の死傷者は三十八名とされています。この石碑には家老の小林平八郎、清水一学など、二十士の名が記されています。みな主君を守るべく戦いました。

■清水一学■ いちがく
忠臣蔵の小説や時代劇では、知的にして二刀流の達人として登場しますね。私のイメージもそのままです。よって、名門吉良家に古くから仕える家柄なのだろうと思っていました。

ところが、実際には三河の百姓の生まれです。幼名は藤作。少年期から剣術に励み、吉良家当主である義央に目をかけられ、15歳で中小姓にとりたてられました。剣術に優れていたようですが、二刀流というのは後世のつくり話のようです。赤穂浪士が討ち入った時、一学は25歳になっていました。主である吉良上野介を守るべく奮戦したようですが、この屋敷内で命を落としました。

自分の才能を見出してくれた人に、一学はきっと日頃から忠義を尽くしていたことでしょう。それは立場が上の者にただ従うといった組織上の役割ではなく、己を認めた者に対し、恩を返したいという欲求に近いものだったのではないでしょうか。死を覚悟で討ち入った赤穂浪士も忠義なら、命懸けでこれと戦った清水一学もやはり忠義の侍。そう受けとめたいですね。

以上
赤穂浪士ファンが、吉良邸の広さを実感してみたくなり現地を訪問したものの、吉良家の家臣団に同情するような気持ちになったという内容でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

■訪問
本所松坂町公園
[東京都墨田区両国]


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タグ:23区

2018年11月02日

港区の塩釜公園 伊達家ゆかりの地

つわものどもが夢の跡
新橋5丁目の公園を訪ねました。

<公園のシンボル>
shirononagori281 (1).JPG
訪問した公園を象徴する鳥居と参道。鹽竈(しおがま)神社です。

<塩釜公園>
shirononagori281 (7).JPG
場所は新橋5丁目。港区の愛宕山から5百メートルほど東へ行ったところです。画像は公園の入り口付近、奥は冒頭の神社になっています。昼時には、どこからともなくサラリーマンが集まってきて、思い思いにランチを済ます姿が見受けられる場所。この時もなるべく人を避けて撮影しました。

この公園、港区のホームページによれば『関東大震災復興後、町民が憩える公園をつくろうという計画を伊達興宗伯が聞き約400坪の敷地を愛宕下町会に寄付した』とのこと。

伊達?そう、あの伊達家です。興宗(おきむね)さんは明治生まれの伊達家32代当主(ちなみに政宗で17代)です。ここは仙台伊達藩の屋敷(中屋敷?)のあった場所。伊達家のご厚意から始まり、現在の姿に至っているわけですね。

shirononagori281 (2).JPG

もうちょっと正確に言うと、屋敷内にあった鹽竈神社の境内だった場所です。伊達家に限らず、大名は屋敷内に自身の国から神社の分霊を移して祀りました。鹽竈神社は、伊達の領内(塩竈市)にある本社から、四代藩主綱村(正宗のひ孫)が、芝口上屋敷(汐留の伊達家屋敷)へ分霊を迎え祀ったのがはじまりです(1695年)。のちにこの地に移されました。

<鹽竈神社のお隣>
shirononagori281 (4).JPG
同じ敷地内の稲荷神社です。こちらもいい雰囲気です。


つわものどもが夢の跡

<鹽竈神社の社殿>
shirononagori281 (3).JPG
伊達家屋敷内の神社は、いつしか庶民にも参拝が許されるようになります。安産の神様として信仰を受け、多くの女性が安産祈願に訪れたそうです。やがて境内が公園として整備され、いまでは会社員の憩いの場。もともとは伊達家の私的な神社でしたが、開かれたことで、たくさんの人に恩恵を与え続けています。

■訪問:塩釜公園
[東京都港区新橋]5丁目


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---------(追 記)---------
2020年の12月初旬に再訪したところ、銀杏が鮮やかだったので画像を追加しておきます。

SN281ad202012 (1).jpg
SN281ad202012 (2).jpg
SN281ad202012 (5).jpg

続いて
お隣の稲荷神社

SN281ad202012 (3).jpg

SN281ad202012 (4).jpg
よく見ると大黒さまと恵比寿さまが顔を出して笑ってます
タグ:23区
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