<旧田村右京太夫屋敷跡>
以下に抜粋します
『舊・田村右京太夫屋敷跡にして元禄十四年(辛巳3月14日)に淺野内匠頭の自刃せし所なり』とのこと。続いて淺野内匠頭の辞世の句です。『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせむ』
田村新交町会さん、ありがとうございます。元禄十四年は西暦1701年。この当時の将軍は第5代の徳川綱吉でした。
日比谷通り沿いのこの場所は、江戸城内で刃傷沙汰を起こした赤穂藩主・浅野長矩の身柄を預かった一関藩主・田村建顕の屋敷跡です。将軍綱吉の裁断により、浅野長矩は即日切腹。一関藩田村家上屋敷が、そのまま浅野内匠頭長矩終焉の地となりました。
<浅野内匠頭終焉之地>たくみのかみ
<命日>
[撮影:2022年3月14日]
やむを得ない事情とはいえ、他藩の藩主の身柄を急遽預かった上に、その日のうちに切腹の段取りまでせねばならなかった田村家。その対応については諸説あるようですが、想定していない役割をまっとうせねばならず、混乱の一日だったと思われます。
この大役を任された田村家
そのルーツは、三春城を居城とし、伊達家と深い関りのあった戦国武将の田村家にあります。
<参考画像:三春城>
[福島県田村郡三春町]
三春田村家は、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。強豪揃いの周辺と比較して、決して大きな勢力とは言えませんでしたが、伊達家との繋がりで一定の地位を保っていました。しかし秀吉の奥州仕置により領地は没収。ここで一旦はお家断絶となりました。
初代仙台藩主である伊達政宗の正室・愛姫は、三春城の田村家の出です。愛姫は実家の断絶を嘆き、田村家再興を願ったままこの世を去りました。息子であり、仙台藩の第2代藩主となった伊達忠宗の時代に、孫の宗良(忠宗の三男)が仙台藩62万石のうち3万石を分知されて田村宗良を名乗り、田村家は再興されました(この時は岩沼藩)。後に一関に移り、初代一関藩主となったのが、官位から右京太夫と呼ばれる田村建顕(たつあき)でした。伊達政宗と愛姫のひ孫ですね。
藩主といっても、仙台藩のいわば子分のような小藩であり、更に外様大名という立場です。しかし学問に秀でていた田村建顕は将軍家に重用され、要職に就いていました。
松之大廊下での事件があった当日、いろんな偶然や事情があったにせよ、田村家は幕府から一定の信頼を得ているからこそ、浅野内匠頭の預りを命じられたのでしょう。厄介な話だから外様に振られたのかとも思いましたが、信頼を得ていたと受け止めておきます。
<令和4年3月14日>
今年も春の花が咲き誇っていました
ということで
浅野内匠頭終焉の地となった田村右京太夫屋敷跡と一関藩田村家のルーツのお話でした。
最後に
参考にしたWikiさんから抜粋させて頂くと『田村邸から50mほど離れた別の場所に長矩をしのぶ記念碑が再建』とあります。古地図を参考に現地を歩きましたが、正確な場所の特定はできませんでした。ただ、だいたいこのあたりというのはあっているようなので、納得することにしました。
■訪問:
田村右京太夫屋敷跡
(浅野内匠頭終焉之地碑)
[港区新橋]4丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/14
・説明板(田村新交町会)
お城巡りランキング
--------追 記--------
当ブログでは浅野内匠頭終焉之地碑について別途投稿しております。良かったら覗いてみて下さい。
■投稿:2019年03月10日
■タイトル:風さそふ
浅野内匠頭終焉の地
『→記事へすすむ』
--------追々記--------
本文では正確な場所の特定はできなかったとしましたが、こちらのお店は屋敷跡の一部で営業をしています。
<新正堂>
切腹最中で有名な新正堂さんです。お店につきましては前回の投稿で多少ご紹介させて頂いたので、今回は店舗の裏手の有難い場所をご紹介させて頂きます。
<田村銀杏稲荷>たむらいちょういなり
ビルに内包されている田村銀杏稲荷
浅野内匠頭が切腹した田村家上屋敷の庭には大銀杏がありました。しかし関東大震災で焼けてしまい、残った切り株の上にお稲荷さんが祀られたそうです。その稲荷神社も姿を消しましたが、新正堂さんが自費で再建したそうです。
人が意識して残した田村家上屋敷のなごりですね
2022年03月14日
2022年02月05日
岡田将監ゆかりの橋(港区)将監橋
今回は元戦国武将の名に由来する橋の話です
<将監橋>しょうげんはし
港区芝の将監橋です。橋の名は、この近くに屋敷を構えた岡田将監に由来します。
■岡田善同■おかだよしあつ
尾張国に生まれ、織田信長から始まり、佐々成政や小西行長の配下を渡り歩き、最終的には徳川家康に仕えた戦国武将です。天下分け目の関ヶ原での活躍が認められ5千石の旗本となりました。官職は伊勢守、岡田将監を名乗りました。
■美濃国の治水事業に貢献■
戦で認められた岡田将監ですが、徳川配下では農政や治水事業で活躍。家康からの信任も厚く、名古屋城の築城や伊勢神宮造営といった重要な仕事に関わるとともに、1613年から1629年には美濃国代官(美濃郡代)となり、治水奉行として尾張国の御囲堤築堤のさいの美濃国側の工事を指揮しています。[出典:Wikipedia]
ちなみに、尾張側の工事は、関東の治水で名を馳せた伊奈忠次が指揮したようです。また、1629年までとなっているのはこの年に没したためで、事業は子である岡田善政が引き継ぎました。善政も『将監』を名乗ったそうです。
美濃国の治水事業に貢献した岡田将監親子
家康からの厚い信任といい担った役割といい、関東郡代を世襲した伊奈一族とちょっと似てませんかね?
<高速道路の下>
川の上は首都高が走っているので、橋も高架下になります
<橋の名>
「しょうかんばし」ではなく「しょうげんはし」
<古川(上流側)>
都内にはありがちですが、いまでは陽の当らない川です。上流は渋谷川、下流である港区内では古川と呼ばれます。
<古川(下流側)>
東京湾へ注ぐ古川。かつては川沿いに多くの漁民が暮らしていたそうです
橋は岡田将監が掛けたとする説もあります。土木事業に精通した人物だけに、なんら不思議ではありませんね。ただ詳細は不明。それから、岡田善同を意識して冒頭で元戦国武将といわせて頂きましたが、あとを継いだ息子も将監を名乗ったのですから、父子どちらの話なのかもわかりませんね。
いずれにせよ、岡田将監に由来することに間違いはありません。
ということで
古川に架かる将監橋と岡田将監のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありかどうございます。
■訪問:将監橋
[東京都港区芝大門]2丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/5
お城巡りランキング
<将監橋>しょうげんはし
港区芝の将監橋です。橋の名は、この近くに屋敷を構えた岡田将監に由来します。
■岡田善同■おかだよしあつ
尾張国に生まれ、織田信長から始まり、佐々成政や小西行長の配下を渡り歩き、最終的には徳川家康に仕えた戦国武将です。天下分け目の関ヶ原での活躍が認められ5千石の旗本となりました。官職は伊勢守、岡田将監を名乗りました。
■美濃国の治水事業に貢献■
戦で認められた岡田将監ですが、徳川配下では農政や治水事業で活躍。家康からの信任も厚く、名古屋城の築城や伊勢神宮造営といった重要な仕事に関わるとともに、1613年から1629年には美濃国代官(美濃郡代)となり、治水奉行として尾張国の御囲堤築堤のさいの美濃国側の工事を指揮しています。[出典:Wikipedia]
ちなみに、尾張側の工事は、関東の治水で名を馳せた伊奈忠次が指揮したようです。また、1629年までとなっているのはこの年に没したためで、事業は子である岡田善政が引き継ぎました。善政も『将監』を名乗ったそうです。
美濃国の治水事業に貢献した岡田将監親子
家康からの厚い信任といい担った役割といい、関東郡代を世襲した伊奈一族とちょっと似てませんかね?
<高速道路の下>
川の上は首都高が走っているので、橋も高架下になります
<橋の名>
「しょうかんばし」ではなく「しょうげんはし」
<古川(上流側)>
都内にはありがちですが、いまでは陽の当らない川です。上流は渋谷川、下流である港区内では古川と呼ばれます。
<古川(下流側)>
東京湾へ注ぐ古川。かつては川沿いに多くの漁民が暮らしていたそうです
橋は岡田将監が掛けたとする説もあります。土木事業に精通した人物だけに、なんら不思議ではありませんね。ただ詳細は不明。それから、岡田善同を意識して冒頭で元戦国武将といわせて頂きましたが、あとを継いだ息子も将監を名乗ったのですから、父子どちらの話なのかもわかりませんね。
いずれにせよ、岡田将監に由来することに間違いはありません。
ということで
古川に架かる将監橋と岡田将監のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありかどうございます。
■訪問:将監橋
[東京都港区芝大門]2丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/5
お城巡りランキング
2022年01月23日
遠山の金さんゆかりの寺院(巣鴨)本妙寺
今回は遠山金四郎、いわゆる『遠山の金さん』ゆかりの地のご紹介です。
<本妙寺山門>ほんみょうじ
山号は徳栄山
<説明板>
遠山金四郎景元之墓は東京都指定旧跡となっています
<本妙寺本堂>
創建は駿府(1571年)で、徳川家康の江戸入城に際して江戸に移転。歴史ある寺院です。
■遠山の金さん■
最近の若い人には馴染みがないかもしれませんが、オッサン世代なら誰でも知っている遠山の金さん。演じた役者さんも名優ばかりですね。毎回ストーリーは違っても、最後は大体同じです。
お白洲でシラを切る悪党どもの言い分に対し、奉行としての品格を保ったままじっと耳を傾ける。そして最後の最後に急変して
金さん:
やかましぃやい!悪党ども!
いいですね。
そして見事な桜の彫り物を見せつけて
金さん:
これに見覚えがねぇとは言わせねえぞ!
悪党ども:
へへえ〜
このパターンです。
知らない人のために補足すると、お裁きをする遠山金四郎と、悪党どもの悪事を目撃した町人「遊び人の金さん」は同一人物ということです。同一人物である動かぬ証拠が、見事な入れ墨となります。
もちろん作り話です。ただ、遠山金四郎は実在した人物です。そして、奉行でありながら入れ墨があったことや、庶民から人気があったことは事実のようです。
■遠山景元■とおやまかげもと
私も金さんについて詳しくしっているわけではなかったので、恒例によりWikiさんで調べさせて頂きました。正式には遠山景元といいます。通称の金四郎は、長崎奉行を務めたこともある父・遠山景晋と同じとのこと。お父様も『遠山の金さん』だったわけですね(そう呼ばれていたかは別)。
遠山家はかなりしっかりとした家のようですが、青年期の金さんについてWikiさんからそのまま抜粋させて頂くと『複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るが、後に帰宅する。』とあります。
ちょっとグレた?
まぁ詳細はわかりませんが、このあたりが『遊び人の金さん』として脚色しやすいのかもしれませんね。
さて
ちょっと変わった経歴というだけでは庶民の人気者にはなりません。これは時代背景と関係があるようです。遠山金四郎が奉行として活躍した時期は、ちょうど老中・水野忠邦が「天保の改革」に着手していた頃です。財政を立て直しですね。それそのものは重要ですが、娯楽を取り上げようとしたり、庶民の暮らしを徹底的に規制したので、かなり不評でした。南町奉行がこの政策に加担したのに対し、北町奉行の遠山金四郎は庶民の規制にあまり積極的ではなく、ある程度黙認したそうです。
遠山様は話がわかる
庶民の人気に差が出るのは当然ですね。遠山金四郎も勤め人ですから、ある程度は上からの指示に従ったようですが、庶民への極端な締め付けには反対し、老中水野忠邦と対立したようです。このためか、一旦は北町奉行を罷免されています。上司と部下で戦えば、上司が勝つのが普通ですね。
これで金さん終わった?
まだ続きます。
老中の水野忠邦が失脚し、他の職についていた遠山金四郎は南町奉行として復活しました。ひとりの人間が北町奉行と南町奉行を務めるのは極めて異例のことだったそうです。その後は病気を理由に家督を嫡男に譲り、剃髪して帰雲と号しました。現役の金さんはこれで終わりです。
<本妙寺境内>
現役引退の3年後、金さんは63歳で没しました
■本妙寺墓所■
<墓所案内板>
遠山金四郎は6区です。お隣の4区には剣術家・千葉周作のお墓もあります
<遠山金四郎>
これは分かり安い。そして
<遠山金四郎景元墓>
こちらです。すみません。当ブログ、お墓そのものの投稿はなるべく避けたいので、ちょっと加工させて頂きました。雰囲気は伝わると思います。
ということで
遠山の金さんこと遠山景元と、墓所である本妙寺のご紹介でした。
<史跡案内>
金さんの他にも多くの偉人が静かに眠るお寺です。また明暦大火の火元とされていることから、その供養塔も設けられています。一般の方を含む墓所ですので、訪問には配慮が必要です。
お邪魔させて頂きました
■訪問:本妙寺
(徳栄山 惣持院 本妙寺)
[東京都豊島区巣鴨]5丁目
※江戸時代は現在の文京区本郷
■参考及び出典
・説明板(東京都教育委員会)
・Wikipedia:2022/1/23
お城巡りランキング
<本妙寺山門>ほんみょうじ
山号は徳栄山
<説明板>
遠山金四郎景元之墓は東京都指定旧跡となっています
<本妙寺本堂>
創建は駿府(1571年)で、徳川家康の江戸入城に際して江戸に移転。歴史ある寺院です。
■遠山の金さん■
最近の若い人には馴染みがないかもしれませんが、オッサン世代なら誰でも知っている遠山の金さん。演じた役者さんも名優ばかりですね。毎回ストーリーは違っても、最後は大体同じです。
お白洲でシラを切る悪党どもの言い分に対し、奉行としての品格を保ったままじっと耳を傾ける。そして最後の最後に急変して
金さん:
やかましぃやい!悪党ども!
いいですね。
そして見事な桜の彫り物を見せつけて
金さん:
これに見覚えがねぇとは言わせねえぞ!
悪党ども:
へへえ〜
このパターンです。
知らない人のために補足すると、お裁きをする遠山金四郎と、悪党どもの悪事を目撃した町人「遊び人の金さん」は同一人物ということです。同一人物である動かぬ証拠が、見事な入れ墨となります。
もちろん作り話です。ただ、遠山金四郎は実在した人物です。そして、奉行でありながら入れ墨があったことや、庶民から人気があったことは事実のようです。
■遠山景元■とおやまかげもと
私も金さんについて詳しくしっているわけではなかったので、恒例によりWikiさんで調べさせて頂きました。正式には遠山景元といいます。通称の金四郎は、長崎奉行を務めたこともある父・遠山景晋と同じとのこと。お父様も『遠山の金さん』だったわけですね(そう呼ばれていたかは別)。
遠山家はかなりしっかりとした家のようですが、青年期の金さんについてWikiさんからそのまま抜粋させて頂くと『複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るが、後に帰宅する。』とあります。
ちょっとグレた?
まぁ詳細はわかりませんが、このあたりが『遊び人の金さん』として脚色しやすいのかもしれませんね。
さて
ちょっと変わった経歴というだけでは庶民の人気者にはなりません。これは時代背景と関係があるようです。遠山金四郎が奉行として活躍した時期は、ちょうど老中・水野忠邦が「天保の改革」に着手していた頃です。財政を立て直しですね。それそのものは重要ですが、娯楽を取り上げようとしたり、庶民の暮らしを徹底的に規制したので、かなり不評でした。南町奉行がこの政策に加担したのに対し、北町奉行の遠山金四郎は庶民の規制にあまり積極的ではなく、ある程度黙認したそうです。
遠山様は話がわかる
庶民の人気に差が出るのは当然ですね。遠山金四郎も勤め人ですから、ある程度は上からの指示に従ったようですが、庶民への極端な締め付けには反対し、老中水野忠邦と対立したようです。このためか、一旦は北町奉行を罷免されています。上司と部下で戦えば、上司が勝つのが普通ですね。
これで金さん終わった?
まだ続きます。
老中の水野忠邦が失脚し、他の職についていた遠山金四郎は南町奉行として復活しました。ひとりの人間が北町奉行と南町奉行を務めるのは極めて異例のことだったそうです。その後は病気を理由に家督を嫡男に譲り、剃髪して帰雲と号しました。現役の金さんはこれで終わりです。
<本妙寺境内>
現役引退の3年後、金さんは63歳で没しました
■本妙寺墓所■
<墓所案内板>
遠山金四郎は6区です。お隣の4区には剣術家・千葉周作のお墓もあります
<遠山金四郎>
これは分かり安い。そして
<遠山金四郎景元墓>
こちらです。すみません。当ブログ、お墓そのものの投稿はなるべく避けたいので、ちょっと加工させて頂きました。雰囲気は伝わると思います。
ということで
遠山の金さんこと遠山景元と、墓所である本妙寺のご紹介でした。
<史跡案内>
金さんの他にも多くの偉人が静かに眠るお寺です。また明暦大火の火元とされていることから、その供養塔も設けられています。一般の方を含む墓所ですので、訪問には配慮が必要です。
お邪魔させて頂きました
■訪問:本妙寺
(徳栄山 惣持院 本妙寺)
[東京都豊島区巣鴨]5丁目
※江戸時代は現在の文京区本郷
■参考及び出典
・説明板(東京都教育委員会)
・Wikipedia:2022/1/23
お城巡りランキング
2021年10月22日
最後の将軍ゆかりの地(文京区春日) 徳川慶喜公屋敷跡
今回は文京区の徳川慶喜屋敷跡の話です。
<徳川慶喜公屋敷跡>
当ブログでは既に巣鴨の屋敷跡をご紹介させて頂いています。石碑のみですが、徳川慶喜に対する個人的な思いも記させて頂きましたので、良かったら覗いてみて下さい。
『→記事へすすむ』
徳川慶喜が駿府での長い長い謹慎生活を経て江戸、ではなくて東京へ戻ったのが明治30年(1897年)。当初は豊島区巣鴨に住んでいましたが、屋敷のすぐそばを電車(山手線)が通ることになり、騒音を避けて文京区春日に引越しました(1901年)。その跡地が今回の訪問地です。
<大学の敷地>
屋敷跡は大学の敷地となっています。門の前には『徳川慶喜公屋敷跡』の金属板があります。関係者でもないので入るわけにもいきませんが、外から見ただけでも、敷地内が傾斜になっているのが分かります。徳川慶喜が晩年を過ごしたお屋敷そのものはこの奥の方、低地を見下ろせる高台にあったようです。今と違って遮るものもないでしょうから、神田川(むかしの江戸川)なども屋敷から眺めることができたのかもしれませんね。
<大学の東側の坂>
屋敷沿いの坂道です。傾斜が伝わりやすいと思い撮影しました。
慶喜が移り住むより100年くらい前の話になりますが、この地には駿河松長藩主・大久保教寛の屋敷があったとのこと。これも何かの縁でしょうか?というのも、この大久保家は遡れば徳川家康に仕えた三河武士。教寛の父は小田原藩主で大老にまでなった大久保忠朝です。まぁこのあたりを慶喜が意識したかどうかはわかりません。
ところで
慶喜の屋敷を小日向邸と呼んでいる説明をよく見かけます。
<大学の西側の道>
大学そのものは春日二丁目で、この道を挟んだ西側は小日向一丁目ではありますが
この素朴な疑問は、すぐ近くの説明板で納得しました。
<第六天町>だいろくてんちょう
この付近の旧町名に関する説明板です。旧第六天町?私としては初耳でした。説明によれば『小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。』とのこと(続き省略:そのあと『前』がとれて第六天町となりました)。
この辺り一帯を小日向と呼んでもおかしくないと思いながら、右側の地図に記された『現町境』の点線と『旧町域』の色分けを確認して納得しました。
<説明板拡大>
屋敷跡は現在の住所だと春日になりますが、旧第六天町に位置しているわけですね
<終焉の地>
巣鴨から第六天町へ移った徳川慶喜は、大正2年(1913年)に亡くなりました(76歳)。慶喜は水戸藩主の七男ですが、水戸の出身ではなく、ここ(現在の春日2丁目)からそう遠くない小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園)で生まれました。激動の幕末を将軍として乗り切り、人生の大半を駿府で過ごし、結局は生まれたところへ帰ってきた。そんな印象を受けました。
ということで
文京区の徳川慶喜屋敷跡のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:徳川慶喜屋敷跡
(国際仏教学大学院大学)
[東京都文京区春日] 2丁目
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/10/21
・旧町名説明板(文京区)
-------参考画像-------
<巣鴨での屋敷跡>
白山通り沿いに石碑があります。屋敷跡は現在はビルが立ち並んでいます
[東京都豊島区巣鴨]
<駿府での屋敷跡>
現在は料亭(浮月楼)となっています
[静岡市葵区紺屋町]
お城巡りランキング
<徳川慶喜公屋敷跡>
当ブログでは既に巣鴨の屋敷跡をご紹介させて頂いています。石碑のみですが、徳川慶喜に対する個人的な思いも記させて頂きましたので、良かったら覗いてみて下さい。
『→記事へすすむ』
徳川慶喜が駿府での長い長い謹慎生活を経て江戸、ではなくて東京へ戻ったのが明治30年(1897年)。当初は豊島区巣鴨に住んでいましたが、屋敷のすぐそばを電車(山手線)が通ることになり、騒音を避けて文京区春日に引越しました(1901年)。その跡地が今回の訪問地です。
<大学の敷地>
屋敷跡は大学の敷地となっています。門の前には『徳川慶喜公屋敷跡』の金属板があります。関係者でもないので入るわけにもいきませんが、外から見ただけでも、敷地内が傾斜になっているのが分かります。徳川慶喜が晩年を過ごしたお屋敷そのものはこの奥の方、低地を見下ろせる高台にあったようです。今と違って遮るものもないでしょうから、神田川(むかしの江戸川)なども屋敷から眺めることができたのかもしれませんね。
<大学の東側の坂>
屋敷沿いの坂道です。傾斜が伝わりやすいと思い撮影しました。
慶喜が移り住むより100年くらい前の話になりますが、この地には駿河松長藩主・大久保教寛の屋敷があったとのこと。これも何かの縁でしょうか?というのも、この大久保家は遡れば徳川家康に仕えた三河武士。教寛の父は小田原藩主で大老にまでなった大久保忠朝です。まぁこのあたりを慶喜が意識したかどうかはわかりません。
ところで
慶喜の屋敷を小日向邸と呼んでいる説明をよく見かけます。
<大学の西側の道>
大学そのものは春日二丁目で、この道を挟んだ西側は小日向一丁目ではありますが
この素朴な疑問は、すぐ近くの説明板で納得しました。
<第六天町>だいろくてんちょう
この付近の旧町名に関する説明板です。旧第六天町?私としては初耳でした。説明によれば『小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。』とのこと(続き省略:そのあと『前』がとれて第六天町となりました)。
この辺り一帯を小日向と呼んでもおかしくないと思いながら、右側の地図に記された『現町境』の点線と『旧町域』の色分けを確認して納得しました。
<説明板拡大>
屋敷跡は現在の住所だと春日になりますが、旧第六天町に位置しているわけですね
<終焉の地>
巣鴨から第六天町へ移った徳川慶喜は、大正2年(1913年)に亡くなりました(76歳)。慶喜は水戸藩主の七男ですが、水戸の出身ではなく、ここ(現在の春日2丁目)からそう遠くない小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園)で生まれました。激動の幕末を将軍として乗り切り、人生の大半を駿府で過ごし、結局は生まれたところへ帰ってきた。そんな印象を受けました。
ということで
文京区の徳川慶喜屋敷跡のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:徳川慶喜屋敷跡
(国際仏教学大学院大学)
[東京都文京区春日] 2丁目
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/10/21
・旧町名説明板(文京区)
-------参考画像-------
<巣鴨での屋敷跡>
白山通り沿いに石碑があります。屋敷跡は現在はビルが立ち並んでいます
[東京都豊島区巣鴨]
<駿府での屋敷跡>
現在は料亭(浮月楼)となっています
[静岡市葵区紺屋町]
お城巡りランキング
2021年04月24日
太田道灌が植えた槇の木(荻窪八幡神社)
今回は太田道灌が進軍の途上で植えたとされる槇の木の話です。
<道灌槇>どうかんまき
こちらです。太田道灌が植えた木が五百年以上の時を経て、今なお佇んでいます。凄いことですね。道灌槇と呼ばれています。
<荻窪八幡神社>おぎくぼはちまん
お邪魔したのは杉並区の荻窪八幡神社です。
<鳥居>
<神門>
<境内>
神門の先の境内
<狛犬>
<拝殿>
創建は寛平年間(889年-898年)と言われています。
河内源氏2代目棟梁である源頼義が、奥州の騒乱を平定すべく北上する途上、この地に宿陣して戦勝を祈願したと伝わります。9年にも及ぶ長期戦に勝利したのち、源頼義は神恩感謝のため、帰路もこの地に立ち寄りました。
源氏の棟梁が戦勝祈願し、苦戦のあげくに勝利し、そのご利益に感謝した神社です。
道灌の話はそれから5百年近くあとの話になります。
源頼義の故事にちなんで、太田道灌も決戦を前にこの地で戦勝祈願しました。
<説明板>
現地説明板です。こちらに『荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)』と題して詳しい説明が記されていますので、以下に抜粋させて頂きます。
『関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
道灌は文明9年(1477)4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
文明9年(1477)4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
昭和61年(1986)3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
荻窪八幡神社社務所』
とても参考になりました。ありがとうございます。
まず道灌の進軍の背景として、関東で長期間続いた争乱『長尾景春の乱』があるわけですね。関東管領は、幕府から関東を統括管理すべく任命される役職で、その職にある上杉定正に命じられて太田道灌が出陣。豊島氏と激突した『江古田の合戦』のことが記されています。道灌は野戦で勝利した勢いで、そのまま豊島氏の居城に迫り、落城させました。この途上、武運の神として崇敬を集める八幡神に祈り、槇の木を植えたというお話になります。
<本殿前の高野槇>こうやまき
高野山でお供えの花の代りとして用いられたことに由来して高野槇と呼ばれるそうです。道灌が植えた高野槇は、荻窪八幡神社の御神木としていまも境内に佇んでいます。
ということで
太田道灌が戦勝祈願した神社と献植した槇の木のご紹介でした。
<つわものどもが夢の跡>
道灌はのちに主君である上杉定正により暗殺されてしまうので、天命を全うすることはありませんでした。しかしそのなごりは、今も形となって残り続けています。
■訪問:荻窪八幡神社
[東京都杉並区上荻]
■参考及び出典資料
・現地説明板
(荻窪八幡神社社務所)
・Wikipedia:2021/4/24
お城巡りランキング
<道灌槇>どうかんまき
こちらです。太田道灌が植えた木が五百年以上の時を経て、今なお佇んでいます。凄いことですね。道灌槇と呼ばれています。
<荻窪八幡神社>おぎくぼはちまん
お邪魔したのは杉並区の荻窪八幡神社です。
<鳥居>
<神門>
<境内>
神門の先の境内
<狛犬>
<拝殿>
創建は寛平年間(889年-898年)と言われています。
河内源氏2代目棟梁である源頼義が、奥州の騒乱を平定すべく北上する途上、この地に宿陣して戦勝を祈願したと伝わります。9年にも及ぶ長期戦に勝利したのち、源頼義は神恩感謝のため、帰路もこの地に立ち寄りました。
源氏の棟梁が戦勝祈願し、苦戦のあげくに勝利し、そのご利益に感謝した神社です。
道灌の話はそれから5百年近くあとの話になります。
源頼義の故事にちなんで、太田道灌も決戦を前にこの地で戦勝祈願しました。
<説明板>
現地説明板です。こちらに『荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)』と題して詳しい説明が記されていますので、以下に抜粋させて頂きます。
『関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
道灌は文明9年(1477)4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
文明9年(1477)4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
昭和61年(1986)3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
荻窪八幡神社社務所』
とても参考になりました。ありがとうございます。
まず道灌の進軍の背景として、関東で長期間続いた争乱『長尾景春の乱』があるわけですね。関東管領は、幕府から関東を統括管理すべく任命される役職で、その職にある上杉定正に命じられて太田道灌が出陣。豊島氏と激突した『江古田の合戦』のことが記されています。道灌は野戦で勝利した勢いで、そのまま豊島氏の居城に迫り、落城させました。この途上、武運の神として崇敬を集める八幡神に祈り、槇の木を植えたというお話になります。
<本殿前の高野槇>こうやまき
高野山でお供えの花の代りとして用いられたことに由来して高野槇と呼ばれるそうです。道灌が植えた高野槇は、荻窪八幡神社の御神木としていまも境内に佇んでいます。
ということで
太田道灌が戦勝祈願した神社と献植した槇の木のご紹介でした。
<つわものどもが夢の跡>
道灌はのちに主君である上杉定正により暗殺されてしまうので、天命を全うすることはありませんでした。しかしそのなごりは、今も形となって残り続けています。
■訪問:荻窪八幡神社
[東京都杉並区上荻]
■参考及び出典資料
・現地説明板
(荻窪八幡神社社務所)
・Wikipedia:2021/4/24
お城巡りランキング
タグ:太田道灌
2021年04月17日
戦国大名今川家のなごり(観泉寺) 高家今川家菩提寺
戦国時代屈指の名門大名・今川家ゆかりの寺を訪ねました
<観泉寺>かんせんじ
ここは東京都杉並区です。こちらのお寺は駿河に君臨したあの今川家の菩提寺です。
■足利の一門の名家■
今川家は足利一門の名家。駿河国守護を代々継承し、戦国時代には大大名になっていました。11代当主の今川義元を思い出す方が多いのではないでしょうか。今川家は義元の時には駿河国・遠江国を支配する巨大勢力となっていましたが、圧倒的有利と思われた桶狭間の戦いで織田信長に敗北。当主本人が討たれてしまい、それ以降今川家は徐々に衰退することになります。
■今川氏真■うじざね
今川義元の跡を継いだ12代当主となった氏真も、よくよく調べてみれば復権を目指していろいろと画策したようですが、大きな流れは変えられませんでした。やがては妻の実家である小田原の北条氏を頼り、最終的には徳川家康を頼ります。
今川家からみれば、家康はかつての家臣であり、更に桶狭間の戦いで今川家を見限った男です。その家康を頼る。誇り高き今川家の当主としては、そうとうな屈辱を感じたかもしれませんね。あるいは、既に疲れ果てたあげくの心境だったのかもしれません(あくまで素人の想像です)。
■今川直房■なおふさ
氏真が生き延びたことで、今川家の歴史は続きます。氏真の次男は名を品川氏と改め、幕府の儀式や典礼を司る高家となっています。高久の兄は徳川幕府に仕えませんでしたが、その子である直房は旗本となり、高家今川家の祖となりました。格式の高く権勢のある家柄として扱われたわけですね。名門家に相応しい役割です。直房は今川家中興の祖といえます。
■井草村と今川家■
今川直房は高家としての職務が徳川家光に認められ、もともとの所領とは別に井草村を含む3か村五百石を加増されました。これにより今川家の家禄は千石となりました。直房は井草村の観音寺を観泉寺と改め、今川家の菩提寺と定めます。
<寺号標>
門前にある立派な石碑です。右手は杉並区教育委員会による説明が記されています。
<今川氏累代墓の石碑>
石碑に記されている通り、境内には今川家代々のお墓があります。
<杉並区今川>
今川は地名にもなっています。幕末まで今川家の所領でした。
あの今川家の末裔の菩提詩が杉並区にある。それだけで感慨深いものがあります。全ては国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。直房は早くに父を亡くしたため、祖父である氏真に養われたそうです。氏真の墓は当初別な場所にありましたが、井草村を与えられた直房により、ここ観泉寺に移されました。
<観泉寺山門>
観泉寺は今川家の菩提寺であるとともに、知行地支配の拠点にもなり、年貢の取立てなども寺の門前で行われたそうです。世俗から切り離されたような寺ではなく、領民が集まる場所だったわけですね。
<本堂>
<本堂の扁額>
観泉禅寺の文字。曹洞宗のお寺です。山号は宝珠山。
<鐘楼>
<庭園>
そして
今川家墓所
<今川氏累代の墓>
すみません。当ブログはお墓の撮影が苦手のため、遠くから撮影しました。画像の中央、手前の石仏の奥が今川氏累代の墓所となります。
<説明板>
墓所入口の説明板です。東京都教育委員会さんの説明によれば、墓碑は今川氏真以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたるとのこと。また寺が年貢の徴収や裁判の拠点となっていたことも記されています。
<つわものどもが夢の跡>
ここ観泉寺は、戦国大名今川家のなごり、そして高家として再興した今川家の確かな足跡ですね。
■訪問:
宝珠山観泉寺
[東京都杉並区今川]2-16
■出典及び参考
・現地説明板
(東京都教育委員会)
(杉並区教育委員会)
・Wikipedia:2021/4/17
お城巡りランキング
<観泉寺>かんせんじ
ここは東京都杉並区です。こちらのお寺は駿河に君臨したあの今川家の菩提寺です。
■足利の一門の名家■
今川家は足利一門の名家。駿河国守護を代々継承し、戦国時代には大大名になっていました。11代当主の今川義元を思い出す方が多いのではないでしょうか。今川家は義元の時には駿河国・遠江国を支配する巨大勢力となっていましたが、圧倒的有利と思われた桶狭間の戦いで織田信長に敗北。当主本人が討たれてしまい、それ以降今川家は徐々に衰退することになります。
■今川氏真■うじざね
今川義元の跡を継いだ12代当主となった氏真も、よくよく調べてみれば復権を目指していろいろと画策したようですが、大きな流れは変えられませんでした。やがては妻の実家である小田原の北条氏を頼り、最終的には徳川家康を頼ります。
今川家からみれば、家康はかつての家臣であり、更に桶狭間の戦いで今川家を見限った男です。その家康を頼る。誇り高き今川家の当主としては、そうとうな屈辱を感じたかもしれませんね。あるいは、既に疲れ果てたあげくの心境だったのかもしれません(あくまで素人の想像です)。
■今川直房■なおふさ
氏真が生き延びたことで、今川家の歴史は続きます。氏真の次男は名を品川氏と改め、幕府の儀式や典礼を司る高家となっています。高久の兄は徳川幕府に仕えませんでしたが、その子である直房は旗本となり、高家今川家の祖となりました。格式の高く権勢のある家柄として扱われたわけですね。名門家に相応しい役割です。直房は今川家中興の祖といえます。
■井草村と今川家■
今川直房は高家としての職務が徳川家光に認められ、もともとの所領とは別に井草村を含む3か村五百石を加増されました。これにより今川家の家禄は千石となりました。直房は井草村の観音寺を観泉寺と改め、今川家の菩提寺と定めます。
<寺号標>
門前にある立派な石碑です。右手は杉並区教育委員会による説明が記されています。
<今川氏累代墓の石碑>
石碑に記されている通り、境内には今川家代々のお墓があります。
<杉並区今川>
今川は地名にもなっています。幕末まで今川家の所領でした。
あの今川家の末裔の菩提詩が杉並区にある。それだけで感慨深いものがあります。全ては国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。直房は早くに父を亡くしたため、祖父である氏真に養われたそうです。氏真の墓は当初別な場所にありましたが、井草村を与えられた直房により、ここ観泉寺に移されました。
<観泉寺山門>
観泉寺は今川家の菩提寺であるとともに、知行地支配の拠点にもなり、年貢の取立てなども寺の門前で行われたそうです。世俗から切り離されたような寺ではなく、領民が集まる場所だったわけですね。
<本堂>
<本堂の扁額>
観泉禅寺の文字。曹洞宗のお寺です。山号は宝珠山。
<鐘楼>
<庭園>
そして
今川家墓所
<今川氏累代の墓>
すみません。当ブログはお墓の撮影が苦手のため、遠くから撮影しました。画像の中央、手前の石仏の奥が今川氏累代の墓所となります。
<説明板>
墓所入口の説明板です。東京都教育委員会さんの説明によれば、墓碑は今川氏真以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたるとのこと。また寺が年貢の徴収や裁判の拠点となっていたことも記されています。
<つわものどもが夢の跡>
ここ観泉寺は、戦国大名今川家のなごり、そして高家として再興した今川家の確かな足跡ですね。
■訪問:
宝珠山観泉寺
[東京都杉並区今川]2-16
■出典及び参考
・現地説明板
(東京都教育委員会)
(杉並区教育委員会)
・Wikipedia:2021/4/17
お城巡りランキング
2021年04月10日
徳川綱重ゆかりの水盤舎(増上寺)
今回は増上寺境内の水盤舎の話です。
■水盤舎■すいばんしゃ
こちらが増上寺の水盤舎です。参拝者が身を浄めるための場所ですね。「ちょうずや(手水舎)」という呼び方の方が一般的でしょうか。
説明板があります。こちらはもともと徳川綱重の霊廟にあったものだそうです。
綱重?
説明板にもある通り、この方は甲斐甲府藩主で、三代将軍徳川家光の三男です。五代将軍綱吉の兄、そして六代将軍徳川家宣の父でもあります。随分豪華な父・兄・息子ですね。綱重は甲斐甲府藩主ではありますが、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していたそうです。
徳川家の家紋が随所に刻まれています
綱重は1678年に35歳という若さで逝去し(死因については諸説ありますが今回は省略します)、当初は小石川伝通院に埋葬されましたが、家宣が将軍の時に徳川家菩提寺である増上寺へ移されました。霊廟は増上寺本堂の裏手にあったようですが、昭和の戦火で建物はほとんどが焼失したそうです。難を逃れた水盤舎が、現在も増上寺境内で使用されているというわけです。
私のような素人目にも凝った造りですが、もっと深い意味で、貴重な建造物なのですね
ということで
増上寺の水盤舎のお話でした。徳川家の菩提寺である増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで、手を清める時に意識してもらえたら嬉しいです。
■訪問:増上寺水盤舎
[東京都港区芝公園]4-7-35
お城巡りランキング
■水盤舎■すいばんしゃ
こちらが増上寺の水盤舎です。参拝者が身を浄めるための場所ですね。「ちょうずや(手水舎)」という呼び方の方が一般的でしょうか。
説明板があります。こちらはもともと徳川綱重の霊廟にあったものだそうです。
綱重?
説明板にもある通り、この方は甲斐甲府藩主で、三代将軍徳川家光の三男です。五代将軍綱吉の兄、そして六代将軍徳川家宣の父でもあります。随分豪華な父・兄・息子ですね。綱重は甲斐甲府藩主ではありますが、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していたそうです。
徳川家の家紋が随所に刻まれています
綱重は1678年に35歳という若さで逝去し(死因については諸説ありますが今回は省略します)、当初は小石川伝通院に埋葬されましたが、家宣が将軍の時に徳川家菩提寺である増上寺へ移されました。霊廟は増上寺本堂の裏手にあったようですが、昭和の戦火で建物はほとんどが焼失したそうです。難を逃れた水盤舎が、現在も増上寺境内で使用されているというわけです。
私のような素人目にも凝った造りですが、もっと深い意味で、貴重な建造物なのですね
ということで
増上寺の水盤舎のお話でした。徳川家の菩提寺である増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで、手を清める時に意識してもらえたら嬉しいです。
■訪問:増上寺水盤舎
[東京都港区芝公園]4-7-35
お城巡りランキング
2020年10月22日
伊達騒動のなごり 浅岡飯たきの井
増上寺近くの港区役所でこんな光景と出会いました。
なんだろう
井戸の跡?
浅岡?飯たきの井?
<説明板>
まったく何のことかわかりませんでしたが、ちゃんと説明板が設置されていました。
『江戸時代、ここに良源院(増上寺の子院)があり、仙台伊達家の仕度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。
万治三年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられる。
昭和62年(1987)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存した。』
[出典:現地説明板]
1660年の伊達騒動とは、仙台藩で起こったいわゆるお家騒動ですね。ちゃんと説明すると登場人物も多く論文のようになってしまうので、超簡単に言えば、幼い藩主の下で起こった内部抗争です。
ちょっと雑?
もう少しだけ書き加えます。
伊達政宗がこの世を去ってから四半世紀後の話です。孫の綱宗が家督を継いでいましたが、諸々の問題から藩主不適格と見なされ、幕府の命で隠居させられることになりました。これが伊達騒動へ繋がっていきます。
家督は説明板にもある亀千代(後の伊達綱村)が継ぎますが、当時まだ2歳。叔父で陸奥一関藩主の伊達宗勝(伊達政宗の十男)がこれを支えますが、家老の原田宗輔らと結託したそのやり方がかなり強引だったようで、逆らう者たちへの粛清(切腹・斬首・追放など)が頻繁に行われました。これに納得できない者たちが反旗を翻し、伊達一門の伊達宗重を担いで幕府に訴え出るに至ります。最後は大老(酒井忠清)の屋敷で裁きとなりますが、なんとその席で伊達宗重は原田宗輔に斬られてしまい、宗輔本人は宗重派によって殺害されてしまいます。伊達宗勝は土佐藩預かりの身となり、一関藩は改易となって領地も家臣団も仙台藩に組み込まれました。
なんだそりゃ?
まだ江戸初期ですからね。かなりワイルド。そしてドロドロだったようです。
さて、説明板に登場した「浅岡の局」ですが、この方は隠居させられた三代藩主綱宗の側室であり、僅か2歳で4代目藩主となった綱村の実の母です。浅岡の局は、亀千代が毒殺されるのを恐れ、自らこの井戸の水を汲み、亀千代の食事を調理した。そういうことです。
浅岡の局は鳥取藩士三沢清長の娘(三沢初子)。第二代藩主伊達忠宗の正室の侍女となり、やがて第三代藩主綱宗の側室となりました。綱宗が正室を迎えることがなかったため、仙台藩における浅岡の局の立場は、正室と実質同じだったのかもしれませんね。
増上寺子院である良源院にあった井戸。そして、わが子を権力争いから守ろうとした浅岡の局が水を汲んだ井戸。これはそのなごりということですね。
■訪問:浅岡飯たきの井
(港区役所)
[港区芝公園]
お城巡りランキング
なんだろう
井戸の跡?
浅岡?飯たきの井?
<説明板>
まったく何のことかわかりませんでしたが、ちゃんと説明板が設置されていました。
『江戸時代、ここに良源院(増上寺の子院)があり、仙台伊達家の仕度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。
万治三年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられる。
昭和62年(1987)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存した。』
[出典:現地説明板]
1660年の伊達騒動とは、仙台藩で起こったいわゆるお家騒動ですね。ちゃんと説明すると登場人物も多く論文のようになってしまうので、超簡単に言えば、幼い藩主の下で起こった内部抗争です。
ちょっと雑?
もう少しだけ書き加えます。
伊達政宗がこの世を去ってから四半世紀後の話です。孫の綱宗が家督を継いでいましたが、諸々の問題から藩主不適格と見なされ、幕府の命で隠居させられることになりました。これが伊達騒動へ繋がっていきます。
家督は説明板にもある亀千代(後の伊達綱村)が継ぎますが、当時まだ2歳。叔父で陸奥一関藩主の伊達宗勝(伊達政宗の十男)がこれを支えますが、家老の原田宗輔らと結託したそのやり方がかなり強引だったようで、逆らう者たちへの粛清(切腹・斬首・追放など)が頻繁に行われました。これに納得できない者たちが反旗を翻し、伊達一門の伊達宗重を担いで幕府に訴え出るに至ります。最後は大老(酒井忠清)の屋敷で裁きとなりますが、なんとその席で伊達宗重は原田宗輔に斬られてしまい、宗輔本人は宗重派によって殺害されてしまいます。伊達宗勝は土佐藩預かりの身となり、一関藩は改易となって領地も家臣団も仙台藩に組み込まれました。
なんだそりゃ?
まだ江戸初期ですからね。かなりワイルド。そしてドロドロだったようです。
さて、説明板に登場した「浅岡の局」ですが、この方は隠居させられた三代藩主綱宗の側室であり、僅か2歳で4代目藩主となった綱村の実の母です。浅岡の局は、亀千代が毒殺されるのを恐れ、自らこの井戸の水を汲み、亀千代の食事を調理した。そういうことです。
浅岡の局は鳥取藩士三沢清長の娘(三沢初子)。第二代藩主伊達忠宗の正室の侍女となり、やがて第三代藩主綱宗の側室となりました。綱宗が正室を迎えることがなかったため、仙台藩における浅岡の局の立場は、正室と実質同じだったのかもしれませんね。
増上寺子院である良源院にあった井戸。そして、わが子を権力争いから守ろうとした浅岡の局が水を汲んだ井戸。これはそのなごりということですね。
■訪問:浅岡飯たきの井
(港区役所)
[港区芝公園]
お城巡りランキング