なんだろう
井戸の跡?
浅岡?飯たきの井?
<説明板>
まったく何のことかわかりませんでしたが、ちゃんと説明板が設置されていました。
『江戸時代、ここに良源院(増上寺の子院)があり、仙台伊達家の仕度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。
万治三年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられる。
昭和62年(1987)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存した。』
[出典:現地説明板]
1660年の伊達騒動とは、仙台藩で起こったいわゆるお家騒動ですね。ちゃんと説明すると登場人物も多く論文のようになってしまうので、超簡単に言えば、幼い藩主の下で起こった内部抗争です。
ちょっと雑?
もう少しだけ書き加えます。
伊達政宗がこの世を去ってから四半世紀後の話です。孫の綱宗が家督を継いでいましたが、諸々の問題から藩主不適格と見なされ、幕府の命で隠居させられることになりました。これが伊達騒動へ繋がっていきます。
家督は説明板にもある亀千代(後の伊達綱村)が継ぎますが、当時まだ2歳。叔父で陸奥一関藩主の伊達宗勝(伊達政宗の十男)がこれを支えますが、家老の原田宗輔らと結託したそのやり方がかなり強引だったようで、逆らう者たちへの粛清(切腹・斬首・追放など)が頻繁に行われました。これに納得できない者たちが反旗を翻し、伊達一門の伊達宗重を担いで幕府に訴え出るに至ります。最後は大老(酒井忠清)の屋敷で裁きとなりますが、なんとその席で伊達宗重は原田宗輔に斬られてしまい、宗輔本人は宗重派によって殺害されてしまいます。伊達宗勝は土佐藩預かりの身となり、一関藩は改易となって領地も家臣団も仙台藩に組み込まれました。
なんだそりゃ?
まだ江戸初期ですからね。かなりワイルド。そしてドロドロだったようです。
さて、説明板に登場した「浅岡の局」ですが、この方は隠居させられた三代藩主綱宗の側室であり、僅か2歳で4代目藩主となった綱村の実の母です。浅岡の局は、亀千代が毒殺されるのを恐れ、自らこの井戸の水を汲み、亀千代の食事を調理した。そういうことです。
浅岡の局は鳥取藩士三沢清長の娘(三沢初子)。第二代藩主伊達忠宗の正室の侍女となり、やがて第三代藩主綱宗の側室となりました。綱宗が正室を迎えることがなかったため、仙台藩における浅岡の局の立場は、正室と実質同じだったのかもしれませんね。
増上寺子院である良源院にあった井戸。そして、わが子を権力争いから守ろうとした浅岡の局が水を汲んだ井戸。これはそのなごりということですね。
■訪問:浅岡飯たきの井
(港区役所)
[東京都港区芝公園]
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