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2020年01月03日

道灌が橋を架けたと伝わる場所(台東区)橋場

つわものどもが夢の跡
太田道灌進軍ルートの途上で橋を架けたと伝わる台東区橋場。地名そのものに期待が高まり、年末の寒い時期にも関わらず足を運びました。

■橋場と隅田川■はしば
<白鬚橋>しらひげばし
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この辺りですかね

画像は隅田川に架かる白髭橋です。昔から橋があったわけではなく、この付近に渡し、つまり渡船場がありました。

ここは武蔵と下総の境目。下総の千葉氏と争うことになった道灌は、軍事的な理由でこの付近の隅田川(古利根川)に橋を架けたと伝わります。そして、それがこの地が橋場と呼ばれる理由。そう聞くと、橋場という地名自体に惚れ込んでしまいそうです。いいですね!

名門・千葉氏は、内紛により宗家が追い出されるに至り、武蔵に逃れた嫡流の兄弟(武蔵千葉氏)は道灌を頼りました。道灌は本来宗家であるべき武蔵千葉氏を味方につけて、下総の千葉氏と対立。境界線に橋を架けたとしたら、きっとその時期でしょう。

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隅田川の対岸を見つめ、ひとり妄想しました。何の先入観もなければ、川向うは普通に墨田区です。

<説明板>
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近くで説明板も発見。荒川区教育委員会さんによる橋場の渡しに関する説明です。荒川区?実は白鬚橋のたもとは、台東区橋場と荒川区南千住の境でもあります。

『対岸の墨田区寺島とを結ぶ, 約160メートルの渡しで, 「白髭の渡し」ともいわれていた。
『江戸名所図会』に依ると, 古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ, 『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。 しかし, 渡しの位置は, 幾度か移動したらしく, はっきりしていない。
大正3年(1914)に白髭木橋が架けられるまで, 多くの人々に利用された。』

[出典:荒川区教育委員会]

ん?そうですか・・・

在原業平が舟で川を渡ったことは記されていますが、太田道灌のことは特に触れられていないのですね。まぁ在原業平ですから平安時代のお話として、江戸時代よりずっと以前から、人はこの付近にあった渡しを使って向こう岸を目指したということは実感できました。それはすなわち、古くからここへ繋がる道があったということでしょう。道灌もその道を通ったのですかね。

さて
いつものように「とりあえず行ってみた」ものの、現地での情報はここまででした。念のため帰宅してから調べ直すと、期待していたのとは違う情報をみつけてしまいました。

それは
橋を架けたのは太田道灌ではなく、源頼朝だというお話です。しかも橋そのものを架けたのではなく、数千の船を浮かべて「船の橋」を架けたというものでした。そして、それこそが橋場の地名の由来であるとのこと。

これにはちょっと困惑しました。ただ、冷静に受け止めてみると、それはそれで面白い話ですよね。数千はおおげさとしても、船を並べて橋の代わりとする話はよく耳にします。軍を率いる源頼朝がそれをやった。なるほど・・・

まぁ道灌であろうと頼朝であろうと、進軍がきっかけで、この地に橋場という名が残ったことに変わりがありません。

どっちもありかな

ちょっといい加減ですが、どちらの話も魅力的なので、その程度で納得しました。


■橋場探索■
せっかくなので周辺も散策しました。一番印象的だった橋場不動尊をご紹介します。
<山門>
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砂尾山と不動院の文字。一般には橋場不動尊の名で親しまれていますが、正式名は砂尾山橋場寺不動院といいます。760年に寂昇上人によって開山されたとのこと。

<不動院本堂>
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浅草寺の末寺を経て現在は比叡山延暦寺末とのこと。ご本尊は不動明王です。智恵により煩悩を絶ち切る道を示してくれる不動明王。煩悩だらけという負い目からか、境内にいる時だけは神妙な気持ちになりました。

<七福神>
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年末年始だからでしょうか?それともいつもこんな感じなのでしょうか?勢ぞろいしています

ここは浅草七福神巡りのうち布袋さまも祀られているところ。この地の七福神巡りは歴史は古く、江戸時代には既に行われていたようです。普通なら7社ですが、福禄人と寿老人が2社ずつのため計9ヶ所になるそうです。

<御授地蔵尊>
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地蔵尊の右手前には百度石。百日詣の代わりに、山門などとの間を百度往復して願い事を叶える時の目印というか、標識として立てられている石のことですね。

簡単で恐縮ですが以上です


つわものどもが夢の跡
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現在の橋の名は向う岸の白鬚神社に因むものです

私は道灌ゆかりの地?という理由だけで訪問を決めましたが、仮に源頼朝に由来するとしても、橋場という名は兵を率いる武将が川を渡ろうとしたなごり。それだけで充分です。奥深い寺院とも出会えましたので、満足な訪問となりました。

■訪問
●白髭橋
[台東区 橋場]2丁目
[荒川区南千住]3丁目
●橋場不動尊
(砂尾山橋場寺不動院)
[台東区橋場]2丁目


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タグ:道灌

2020年01月02日

太田資長のなごり お正月の静勝寺にて

当ブログに何度も登場している北区の稲付城跡。赤羽駅から近いので、時々訪問しています。何度も行ってしまう理由は、やはりそこが太田道灌ゆかりの地だからでしょう。本日(2020年1月2日)は比較的暖かい日でしたので、赤羽散歩も兼てまた訪問してきました。

<太田道灌堂>
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道灌が築城したと伝わる稲付城跡は現在は静勝寺となっており、境内には太田道灌の坐像が納められた御堂があります。いつもは扉が閉じていますが、お正月毎月27日には開かれ、道灌像と対面することができます。

実は昨年の今日、まったく同じことをして、静勝寺をご紹介させて頂いてます。簡単な説明ではありますが、よかったら覗いてみて下さい。
タイトル
静勝寺の太田道灌堂
→『記事へすすむ

そこでも触れさせて頂きましたが、ここはもともとは道灌寺と呼ばれていました。名前そのままですね。その方が人気も出そうですが、現在の名である静勝寺の静勝は、道灌の戒名にちなんだ名なので、意味としては同じということになります。そもそも、私を含め大半の方は道灌という名に慣れ親しんでいますが、これも法名で、元の名は太田資長(すけなが)です。

時々思うのですが、父は太田資清(すけきよ)で嫡男は資康(すけやす)、子孫も代々にわたって通字の「」を用いているので、道灌も最初から太田資長とインプットしておけば都合が良かったのかもしれません。何の都合?理由は?これはもう個人的な事情ですが、好きな武将の一人でありながら、 私はスケナガという名がとっさに出ません。いまさらもう馴染めないのです。歴史の専門の方々に笑われそうですが、素人の感覚としてお許し下さい。

<静勝寺山門>
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年末は寒い日が続いていましたが、令和二年のお正月は元日、そして今日も穏やかな日でした。来年のお正月にまた来れるかどうかわかりませんが、とりあえず本年が良い年となりますことを祈願して『太田資長』ゆかりの寺をあとにしました。

■訪問
自得山静勝寺
(稲付城跡)
[北区赤羽西]1-21-17


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タグ:道灌

2019年12月31日

屋敷の花園跡 歓楽街の花園神社

新宿の繁華街に鎮座する花園神社をご存じでしょうか?新宿へよくいく人でも、あそこに神社があるなぁという程度で通り過ぎているケースが多そうですね。

<花園神社参道>
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江戸時代に甲州街道の宿場が設けられて以来、ずっと新宿総鎮守として街を見守り続けてきました。いわば新宿の守り神ですね。

<花園神社拝殿>
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本殿に祀られているのは倉稲魂神・日本武尊・受持神 (うかのみたまのかみ・やまとたけるのみこと・うけもちのかみ)
もともとは花園稲荷神社でしたが、昭和になって雷電稲荷神社(受持神)と大鳥神社(日本武尊)を合祀して「花園神社」となったそうです。そういえば社標に花園稲荷神社と刻まれていました。

<社標>
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ちょっとピンボケですみません

境内社についてもちょっとだけ

<威徳稲荷神社>
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こちらは女性に人気の威徳稲荷神社です。私の訪問時も、数人が鳥居の前で順番待ちをしていました。ちょっと説明が難しいので、ご興味のある方は別途お調べ願います。

<納大明神>おさめだいみょうじん
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古くなった神札などを納めるところですが、脇に「腹の立つ事なども当神社にお納め下さい」と記されていました。こういった笑みがこぼれてしまうような計らい、いいですね。境内には芸にご利益があるとされる芸能浅間神社などもあり、ここが人気スポットとなる理由がなんとなく分かる気がしました。


さてさて
神社そのもののご紹介は、その道の皆様にお願いするとして、当ブログではなぜ花園神社と呼ばれるかについて。

歓楽街だから?

そのような不謹慎な理由ではなく、もっとちゃんとした理由があります。

神社はもともと現在地よりも南側(250mくらいとのことですから伊勢丹付近でしょうか)にありました。ところがその土地を拝領した朝倉筑後守の下屋敷内となってしまい、一般人は立ち入ることができないという事態に。困った氏子が幕府に訴えた結果、尾張藩下屋敷の庭の一部を神社にあてることとなり、現在の場所へ遷座したそうです。そこは花が咲き誇る花園の跡だったことから、神社に『花園』の名がつけられたそうです。


別な言い方をすれば
ここは尾張藩ゆかりの地ということですね。尾張藩の下屋敷があった場所と言えば、同じく新宿区の戸山公園が有名ですが、こっちの方まで屋敷だったとすると、かなりの広さですね。さすがは徳川御三家の中でも筆頭格の尾張藩です。

ということで
花園神社は尾張藩下屋敷跡というお話でした。

<新宿>
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当ブログがきっかけで、足を運んでくれる人がいたら嬉しいです。

[東京都新宿区新宿]5-17-3


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2019年12月29日

道灌の宝刀が受け継がれる六本木の神社 久国神社

今回は太田道灌が奉納した宝刀がいまも受け継がれている神社の話です。

<久国神社>ひさくにじんじゃ
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名の由来は名工として名高い刀鍛冶・久国。道灌が久国作の刀を寄進した神社です。


■粟田口久国■ あわたぐちひさくに
久国について予備知識がないので、ウィキペディアさんから情報を頂くことにします。
『鎌倉時代の刀工。粟田口派の祖・粟田口国家の子。刀工一家の次男であり、兄弟の国友、国清、国吉、有国、国綱を総称して俗に粟田口六兄弟と呼ばれる。後鳥羽上皇に御番鍛冶として召され、特に師範格の「師徳鍛冶」を拝命した。本名は林藤次郎。受領大隅権守。受領名を授かった最初の刀工である。 』
 [出典: Wikipedia]2019.12.29

凄いですね。粟田口は京都の地名、粟田口派は名高い名工集団です。久国はその祖となった国家の次男ということですね。久国の『現存作のうち1口が国宝、3口が重要文化財に指定されている。』とのこと。そして『東京都六本木に太田道灌が久国の太刀を寄進したことに名を由来する「久國神社」がある。』と説明されています。
[内出典:Wikipedia]

そんな凄い場所に来たのか

実はこれらのことを事前に知って訪問した訳ではなく、赤坂を散策中、独特の地形に魅かれて鳥居をくぐらせて頂きました。あとから知ってびっくりです。太田道灌は好きな武将の一人ですし、その道灌が奉納した刀がいまもこの地で受け継がれているという驚き。知らないということは、こんなにも感動を与えてくれるわけですね。まぁ知らないままだと何もないわけですが。

また、正宗と並ぶ名工とされた藤四郎吉光が、久国の曾孫ということも知ることができました。久国の俗名は藤次郎だったそうです。

<狛犬>
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目が合うと思わず笑みがこぼれてしまう狛犬さんでした

<拝殿>
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御祭神は倉稲魂命です。ウカノミタマ、つまりお稲荷さんとして信仰される神ですね。ここ久国神社も、古くは久国稲荷神社と呼ばれていました。

神社の創建時期は不明ですが、もともとは現在の皇居内(千代田村紅葉)にあったと伝えられています。道灌が江戸城を築城するにあたり、溜池の鎮守として遷座。江戸城の溜池ということは城の南西になりますので、裏鬼門を意識した結果ということでしょうか?その後もう少し西側に移ることになり、以降この地に鎮座しているそうです。

<境内と地形>
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それにしても凄い地形です。港区七福神の布袋様も祀られています


赤坂を探索している最中でしたので、住所がお隣の六本木になっていることも後で気付きました。いわゆる繁華街六本木からは想像できないほど静かな場所です。そんな街の秘境のようなところで、道灌の宝刀がいまも受け継がれている。非公開ですので見ることは叶いませんが、そのような所に偶然足を運べたことに感謝したくなりました。

■訪問:久國神社
[東京都港区六本木]


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タグ:道灌

2019年12月28日

忠臣蔵名シーンの舞台となった坂道(南部坂 雪の別れ)

今回は忠臣蔵名シーンのひとつ「南部坂 雪の別れ」の舞台となった坂道を訪ねました。場所は港区赤坂です。
<南部坂>なんぶさか
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現在の南部坂です。付近に南部家の屋敷があったことからそう呼ばれています。

<説明>
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南部家の中屋敷のこととともに『忠臣蔵で有名である』とも記されています。また、のちには険しい坂道であることから難歩坂とも書かれたそうです。


■忠臣蔵■ちゅうしんぐら
忠臣蔵は赤穂事件を基にした創作であり、あくまでフィクションです。ですから、今回訪問の南部坂でのお話も事実ではありません。ただ、胸が熱くなる思いで観たシーンが忘れられず、近くまできたついでにちょっと足を延ばしてみました。

■瑤泉院■ ようぜんいん
簡潔言うと浅野内匠頭(たくみのかみ)の妻です。阿久里(あぐり)という名でしたが、内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りかかって即日切腹となったのち、瑤泉院と名のりました。嫁ぎ先の赤穂浅野家はお取り潰しとなったので、赤坂の実家に引き取られたそうです。

■雪の別れ■
実家へ戻っていた搖泉院のもとに、浅野家の元筆頭家老・大石内蔵助が訪ねてきます。久しぶりの再会に、搖泉院は夫の無念を晴らしてもらえるものと期待しますが、内蔵助は屋敷内に間者が送り込まれてることを察し、仇討をするつもりなどまったく無いように振る舞います。この態度に腹を立てた搖泉院は、内蔵助を追い払います。内蔵助は主君の霊前に手を合わせることも叶わないまま、吉良邸へ討ち入る浪士たちの連判状を置いて立ち去ることにします。そして屋敷を出ると搖泉院の方に向って深々と頭を下げ、雪が降り続ける坂道を帰ってゆきます。

ちょっと簡単に説明してしまいましたが、どの映画でもドラマでも泣かせるシーンです。作品によって演出は異なるものの、感動的です。これは討ち入り前日の話。大石内蔵助が去ったあと、搖泉院は連判状に気付き、屋敷内の間者のことも、内蔵助が訪ねてきた意図も理解し、忠義の侍を罵ってしまったことを後悔します。

<坂の下から撮影>
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コンクリで舗装していなければやや険しい坂かもしれません。雪の日なら尚更です。

繰り返しになりますが、忠臣蔵は史実を基にしたフィクションです。しかし瑤泉院の実家がこの坂を登った先にあったことは事実。そういう意味で、やはりこの坂は赤穂事件ゆかりの場所と言えますね。

■訪問:南部坂
[東京都港区赤坂]2丁目付近


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2019年12月14日

12月14日 赤穂浪士討入の日

本日12月14日赤穂浪士討入の日
昨年の今日は義士祭を目当てにちょっとだけ泉岳寺に立ち寄りましたが、人が多すぎて墓所までたどり着きませんでした。それでも、いまだにこんなに沢山の人達が集まる事が嬉しかったですね。
<赤穂義士祭>2018.12.14
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義士祭は港区高輪の泉岳寺で執り行われる供養行事です。毎年12月14日に開催されます。

人が長年語り継ぐ
そこにはそうあって欲しいという人の願いが込められているのだと思います

以下は当ブログでご紹介した 赤穂浪士関連の記事です。よかったら覗いてみてください。

■記事一覧■
松の廊下跡 殿中刃傷のなごり
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→『記事へすすむ

風さそふ 浅野内匠頭終焉の地
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→『記事へすすむ

吉良邸跡
清水一学ほか家臣の石碑

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→『記事へすすむ

もののふの道とばかりを一筋に
赤穂浪士・潮田高教と浅野家

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→『記事へすすむ

赤穂浪士ゆかりの地
水野監物邸跡
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→『記事へすすむ

大石内蔵助 終焉の地
細川家下屋敷跡
shirononagori291a2.JPG
→『記事へすすむ


■番外編■
赤穂事件殉難追悼碑
上杉家にとっての赤穂事件
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→『記事へすすむ

家老大石家のなごり
笠間市 大石邸跡
shirononagori366 (1).JPG
→『記事へすすむ

以上です


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2019年11月30日

名門・南部家のなごり 金地院にて

まもなく師走という土曜日
半日仕事を終えて東京タワー方面へ。といっても展望台へ登るわけではなく、お目当てはすぐお隣りの古い寺院。こちらに大名家の大規模墓所がそのまま残ると聞き及び、足を運びました。
<金地院>こんちいん
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東京タワーに隣接する金地院です。こちらには盛岡南部家、八戸南部家、七戸南部家の墓所があります。南部ゆかりの地なのです。

<墓所>
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重厚です

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お墓そのものの撮影は苦手なので下段を。雰囲気は伝わると思います。

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部分的に朽ちてしまっていますが、苔と相まって長い歴史を感じさせます

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ちょと墓碑が映ってしまいますが、全体はこんな感じです。地方にある大名家の墓所なら分りますが、ここは東京都港区。とても貴重です。

■名門南部家■
南部家は武田家と同じく甲斐源氏の一族です。甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門、もうちょっと具体的に言うと八幡太郎義家の弟・源義光から始まる一族です。南部家というと、南部鉄ではないですが、まず東北をイメージしますよね。それで正解なのですが、もともとは甲斐国の南部郷(現在の山梨県南部町)から始まり、源頼朝に従軍(1189年)して陸奥国糠部五郡の土地を与えられ、家臣とともに移住(1191年頃)した一族なのです。

その後枝分かれして勢力を拡大。鎌倉時代の名族が、戦国時代に姿を消す例は多いですが、南部家は江戸時代を通して存続。そしてそのなごりが、今回訪問の金地院にいまも残されているのです。

訪問時にはどなたの墓碑かわかりませんでしたが、あとで調べてみたところ、藩主本人のお墓はここにはなく、江戸で暮らすことを運命づけられた藩主の正室や側室などの墓碑が並んでいるそうです。亡くなった場合は、そのまま江戸で埋葬されたということですね。

<向鶴>むかいづる
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南部家の家紋です


■以心崇伝創建の寺■ いしんすうでん
今回訪問の金地院についてもちょっとだけご紹介させて頂きます。こちらは勝林山と号する臨済宗南禅寺派寺院です。徳川家康の国造りに深く関わった以心崇伝和尚により江戸城内創建され、1639年(寛永16年)にこの地へ移転しました。以心崇伝は南禅寺などの住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と江戸の金地院を兼務していました。

<金地院の入り口>
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左の石標には『臨済宗 金地禅院』と刻まれています。右には『江戸三十三観音札所二十八番』の文字。墓所には昔のなごりが漂う一方で、奥に見えている本堂は近代的な鉄筋造りです。

<境内>
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<三葉葵>
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家康に重用された臨済宗の高僧が創建した寺です。冒頭で東京タワーのすぐそばとご紹介しましたが、徳川将軍家菩提寺・増上寺のすぐそばとご紹介すると、何となく雰囲気が伝わりますかね。


ということで
徳川将軍家とも関わりの深いお寺ですが、江戸時代も存続した南部家のなごりを感じに足を運んだというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:金地院
[東京都港区芝公園]3-5-4


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----- 追 記 -----
当ブログではお墓の撮影を極力避ける方針でここまでやってきましたが、友人から『史跡は良いのではないか』と助言され、何となくそう思えるようになりました。今後も一般の方のお墓は避けるようにしますが、名だたる武将や歴史に名を残す偉人については、ご本人を批判するような場合を除き、投稿させて頂きたいと思います。

2019年10月05日

結城秀康ゆかりの寺 森巖寺

結城秀康ゆかりの寺を訪ねました。

<森巖寺山門>
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秀康はあの徳川家康の次男として生まれ、武将としての実力も備わっていましたが、弟の秀忠と比較すると、明らかに冷遇され続けました。ここ森巖寺は、若くして亡くなった秀康の位牌所として建てられたことに始まります。

■森巖寺訪問■ しんがんじ
八幡山浄光院と号する浄土宗の寺院です。先述の通り結城中納言秀康の位牌所として創建されました(1608年)。せっかく訪問したので、簡単で恐縮ですが、まずは境内の様子をご紹介させて頂きます。

<本堂>
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昭和に再建された綺麗な本堂です。

<辨財天堂>
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私は結城秀康を意識して訪問していますが、江戸時代の森巌寺は、針供養、そして富士講で知られる寺で、多くの参詣者で賑わったそうです。庶民に開かれた人気のお寺だったのですね。

<淡島堂>
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森巖寺の境内にある淡島堂。紀州の淡島明神の分霊を勧請したものです。

<針塚>
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淡島堂の前に設けられた針塚の石碑。針供養は淡島神社や淡島神を祀る淡島堂がある寺院で行われることが多いそうです。ここ森巖寺もそのひとつ。そして人気のお寺です。毎年2月に針供養が開催されています。

<富士塚>
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森巌寺のすぐそばの北沢八幡神社で撮影。こちらの神社は明治の神仏分離まで森巌寺と一体で管理されていました。

<北沢八幡神社>
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森巌寺が号する八幡山とは、この神社の別当寺を務めたことによります。

森巖寺も北沢八幡神社も、有難さを感じる素敵な場所でした。

さて
訪問するきっかけとなった結城秀康についてもご紹介させて頂きます。好きな武将の一人であることから、ちょっと主観が入りますがお許し下さい。

■結城秀康という武将■
秀康は遠江国の生まれ。幼名は於義丸(おぎまる)といいます。母は家康の側室ですが、もともとは正室・築山殿の奥女中でした。まぁ分かり易く言えば、家康が手を付けてしまったということですね。こういった経緯から、家康は正室の嫉妬を警戒し、身ごもった母親を重臣の本多重次のもとに預けたとされています。

於義丸が父と対面したのは3歳の時。家康はそれまで会おうともしなかったようです。その初対面も、弟を不憫に思った長男・信康による取りなしであったようです。

この冷遇とも言える背景には、家康の正室への遠慮とする説があります。また、今では考えられないことですが、この時代は双子そのものが忌み嫌われていたため、これを理由とする説もあります。後に家康が秀吉と和睦すると、実質人質として秀吉の養子に出されることに。長男の信康は織田信長の命で切腹させられ既にこの世を去っていたので、本来なら家康の後継者となる立場のはずですが、そうはなりませんでした。
秀吉に実子の鶴松が誕生したことで、秀康は再び他家に出されることとなり、これにより結城家当主・結城秀康が誕生します。

■関ヶ原に出陣できず■
秀吉が没したのち、石田三成が対立する諸大名から命を狙われる事件(石田三成襲撃事件)が起きます。この時、家康の命を受けた秀康は、三成を警護して佐和山城まで送り届けました。三成はこれに感謝し、名刀・正宗を秀康に贈りました。

のちに三成らを中核とした西軍と、徳川家康率いる東軍の両陣営が関ヶ原で激突する際、弟の秀忠が家康の別働隊として3万8千の兵を任されたのに対し、結城秀康は関東で上杉を牽制する役しか与えられませんでした。つまり、天下分け目の関ヶ原には出陣が許されませんでした。秀忠と比較してだいぶ扱いに差がありますね。ちょっと個人的見解になりますが、用心深い家康のことですから、秀康と三成の微妙な信頼関係を警戒したなんてこともあるかもしれませんね。

■越前松平家宗家初代■
下総結城から越前北庄68万石に加増移封された秀康は、姓を松平に改めます。将軍にはさせてもらえませんでしたし、江戸から遠いところですが、68万石というのは徳川一族では宗家を除いて最大の石高です。家康の配慮が伺えます。ただその後間もない1607年、秀康は病により34歳の若さで没しました。

<三つ葉葵>
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秀康の法号「浄光院殿森厳道慰運正大居士」から森巖寺と命名されました。徳川ゆかりのお寺です。

■訪問:森巖寺
[東京都世田谷区代沢]


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