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2019年12月29日

道灌の宝刀が受け継がれる六本木の神社(久国神社)

今回は太田道灌が奉納した宝刀がいまも受け継がれている神社の話です。

<久国神社>ひさくにじんじゃ
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名の由来は名工として名高い刀鍛冶・久国。道灌が久国作の刀を寄進した神社です。


■粟田口久国■ あわたぐちひさくに
久国について予備知識がないので、ウィキペディアさんから情報を頂くことにします。
『鎌倉時代の刀工。粟田口派の祖・粟田口国家の子。刀工一家の次男であり、兄弟の国友、国清、国吉、有国、国綱を総称して俗に粟田口六兄弟と呼ばれる。後鳥羽上皇に御番鍛冶として召され、特に師範格の「師徳鍛冶」を拝命した。本名は林藤次郎。受領大隅権守。受領名を授かった最初の刀工である。 』
 [出典: Wikipedia]2019.12.29

凄いですね。粟田口は京都の地名、粟田口派は名高い名工集団です。久国はその祖となった国家の次男ということですね。久国の『現存作のうち1口が国宝、3口が重要文化財に指定されている。』とのこと。そして『東京都六本木に太田道灌が久国の太刀を寄進したことに名を由来する「久國神社」がある。』と説明されています。
[内出典:Wikipedia]

そんな凄い場所に来たのか

実はこれらのことを事前に知って訪問した訳ではなく、赤坂を散策中、独特の地形に魅かれて鳥居をくぐらせて頂きました。あとから知ってびっくりです。太田道灌は好きな武将の一人ですし、その道灌が奉納した刀がいまもこの地で受け継がれているという驚き。知らないということは、こんなにも感動を与えてくれるわけですね。まぁ知らないままだと何もないわけですが。

また、正宗と並ぶ名工とされた藤四郎吉光が、久国の曾孫ということも知ることができました。久国の俗名は藤次郎だったそうです。

<狛犬>
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目が合うと思わず笑みがこぼれてしまう狛犬さんでした

<拝殿>
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御祭神は倉稲魂命です。ウカノミタマ、つまりお稲荷さんとして信仰される神ですね。ここ久国神社も、古くは久国稲荷神社と呼ばれていました。

神社の創建時期は不明ですが、もともとは現在の皇居内(千代田村紅葉)にあったと伝えられています。道灌が江戸城を築城するにあたり、溜池の鎮守として遷座。江戸城の溜池ということは城の南西になりますので、裏鬼門を意識した結果ということでしょうか?その後もう少し西側に移ることになり、以降この地に鎮座しているそうです。

<境内と地形>
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それにしても凄い地形です。港区七福神の布袋様も祀られています


赤坂を探索している最中でしたので、住所がお隣の六本木になっていることも後で気付きました。いわゆる繁華街六本木からは想像できないほど静かな場所です。そんな街の秘境のようなところで、道灌の宝刀がいまも受け継がれている。非公開ですので見ることは叶いませんが、そのような所に偶然足を運べたことに感謝したくなりました。

■訪問:久國神社
[東京都港区六本木]


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2019年12月28日

忠臣蔵名シーンの舞台となった坂道(南部坂 雪の別れ)

今回は忠臣蔵名シーンのひとつ「南部坂 雪の別れ」の舞台となった坂道を訪ねました。場所は港区赤坂です。
<南部坂>なんぶさか
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現在の南部坂です。付近に南部家の屋敷があったことからそう呼ばれています。

<説明>
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南部家の中屋敷のこととともに『忠臣蔵で有名である』とも記されています。また、のちには険しい坂道であることから難歩坂とも書かれたそうです。


■忠臣蔵■ちゅうしんぐら
忠臣蔵は赤穂事件を基にした創作であり、あくまでフィクションです。ですから、今回訪問の南部坂でのお話も事実ではありません。ただ、胸が熱くなる思いで観たシーンが忘れられず、近くまできたついでにちょっと足を延ばしてみました。

■瑤泉院■ ようぜんいん
簡潔言うと浅野内匠頭(たくみのかみ)の妻です。阿久里(あぐり)という名でしたが、内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りかかって即日切腹となったのち、瑤泉院と名のりました。嫁ぎ先の赤穂浅野家はお取り潰しとなったので、赤坂の実家に引き取られたそうです。

■雪の別れ■
実家へ戻っていた搖泉院のもとに、浅野家の元筆頭家老・大石内蔵助が訪ねてきます。久しぶりの再会に、搖泉院は夫の無念を晴らしてもらえるものと期待しますが、内蔵助は屋敷内に間者が送り込まれてることを察し、仇討をするつもりなどまったく無いように振る舞います。この態度に腹を立てた搖泉院は、内蔵助を追い払います。内蔵助は主君の霊前に手を合わせることも叶わないまま、吉良邸へ討ち入る浪士たちの連判状を置いて立ち去ることにします。そして屋敷を出ると搖泉院の方に向って深々と頭を下げ、雪が降り続ける坂道を帰ってゆきます。

ちょっと簡単に説明してしまいましたが、どの映画でもドラマでも泣かせるシーンです。作品によって演出は異なるものの、感動的です。これは討ち入り前日の話。大石内蔵助が去ったあと、搖泉院は連判状に気付き、屋敷内の間者のことも、内蔵助が訪ねてきた意図も理解し、忠義の侍を罵ってしまったことを後悔します。

<坂の下から撮影>
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コンクリで舗装していなければやや険しい坂かもしれません。雪の日なら尚更です。

繰り返しになりますが、忠臣蔵は史実を基にしたフィクションです。しかし瑤泉院の実家がこの坂を登った先にあったことは事実。そういう意味で、やはりこの坂は赤穂事件ゆかりの場所と言えますね。

■訪問:南部坂
[東京都港区赤坂]2丁目付近


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2019年12月14日

12月14日は赤穂浪士討入の日(赤穂浪士ゆかりの地)

本日12月14日赤穂浪士討入の日
昨年の今日は義士祭を目当てにちょっとだけ泉岳寺に立ち寄りましたが、人が多すぎて墓所までたどり着きませんでした。それでも、いまだにこんなに沢山の人達が集まる事が嬉しかったですね。
<赤穂義士祭>2018.12.14
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義士祭は港区高輪の泉岳寺で執り行われる供養行事です。毎年12月14日に開催されます。

人が長年語り継ぐ
そこにはそうあって欲しいという人の願いが込められているのだと思います

以下は当ブログでご紹介した 赤穂浪士関連の記事です。よかったら覗いてみてください。

■記事一覧■
松の廊下跡 殿中刃傷のなごり
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→『記事へすすむ

風さそふ 浅野内匠頭終焉の地
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→『記事へすすむ

吉良邸跡
清水一学ほか家臣の石碑

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→『記事へすすむ

もののふの道とばかりを一筋に
赤穂浪士・潮田高教と浅野家

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→『記事へすすむ

赤穂浪士ゆかりの地
水野監物邸跡
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→『記事へすすむ

大石内蔵助 終焉の地
細川家下屋敷跡
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→『記事へすすむ


■番外編■
赤穂事件殉難追悼碑
上杉家にとっての赤穂事件
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→『記事へすすむ

家老大石家のなごり
笠間市 大石邸跡
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→『記事へすすむ

以上です


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2019年11月30日

名門・南部家のなごり 金地院にて

まもなく師走という土曜日
半日仕事を終えて東京タワー方面へ。といっても展望台へ登るわけではなく、お目当てはすぐお隣りの古い寺院。こちらに大名家の大規模墓所がそのまま残ると聞き及び、足を運びました。
<金地院>こんちいん
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東京タワーに隣接する金地院です。こちらには盛岡南部家、八戸南部家、七戸南部家の墓所があります。南部ゆかりの地なのです。

<墓所>
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重厚です

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お墓そのものの撮影は苦手なので下段を。雰囲気は伝わると思います。

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部分的に朽ちてしまっていますが、苔と相まって長い歴史を感じさせます

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ちょと墓碑が映ってしまいますが、全体はこんな感じです。地方にある大名家の墓所なら分りますが、ここは東京都港区。とても貴重です。

■名門南部家■
南部家は武田家と同じく甲斐源氏の一族です。甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門、もうちょっと具体的に言うと八幡太郎義家の弟・源義光から始まる一族です。南部家というと、南部鉄ではないですが、まず東北をイメージしますよね。それで正解なのですが、もともとは甲斐国の南部郷(現在の山梨県南部町)から始まり、源頼朝に従軍(1189年)して陸奥国糠部五郡の土地を与えられ、家臣とともに移住(1191年頃)した一族なのです。

その後枝分かれして勢力を拡大。鎌倉時代の名族が、戦国時代に姿を消す例は多いですが、南部家は江戸時代を通して存続。そしてそのなごりが、今回訪問の金地院にいまも残されているのです。

訪問時にはどなたの墓碑かわかりませんでしたが、あとで調べてみたところ、藩主本人のお墓はここにはなく、江戸で暮らすことを運命づけられた藩主の正室や側室などの墓碑が並んでいるそうです。亡くなった場合は、そのまま江戸で埋葬されたということですね。

<向鶴>むかいづる
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南部家の家紋です


■以心崇伝創建の寺■ いしんすうでん
今回訪問の金地院についてもちょっとだけご紹介させて頂きます。こちらは勝林山と号する臨済宗南禅寺派寺院です。徳川家康の国造りに深く関わった以心崇伝和尚により江戸城内創建され、1639年(寛永16年)にこの地へ移転しました。以心崇伝は南禅寺などの住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と江戸の金地院を兼務していました。

<金地院の入り口>
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左の石標には『臨済宗 金地禅院』と刻まれています。右には『江戸三十三観音札所二十八番』の文字。墓所には昔のなごりが漂う一方で、奥に見えている本堂は近代的な鉄筋造りです。

<境内>
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<三葉葵>
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家康に重用された臨済宗の高僧が創建した寺です。冒頭で東京タワーのすぐそばとご紹介しましたが、徳川将軍家菩提寺・増上寺のすぐそばとご紹介すると、何となく雰囲気が伝わりますかね。


ということで
徳川将軍家とも関わりの深いお寺ですが、江戸時代も存続した南部家のなごりを感じに足を運んだというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:金地院
[東京都港区芝公園]3-5-4


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-----------(追 記)-----------
当ブログではお墓の撮影を極力避ける方針でここまでやってきましたが、友人から『史跡は良いのではないか』と助言され、何となくそう思えるようになりました。今後も一般の方のお墓は避けるようにしますが、名だたる武将や歴史に名を残す偉人については、ご本人を批判するような場合を除き、投稿させて頂きたいと思います。
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2019年10月05日

結城秀康ゆかりの寺 森巖寺

結城秀康ゆかりの寺を訪ねました。

<森巖寺山門>
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秀康はあの徳川家康の次男として生まれ、武将としての実力も備わっていましたが、弟の秀忠と比較すると、明らかに冷遇され続けました。ここ森巖寺は、若くして亡くなった秀康の位牌所として建てられたことに始まります。

■森巖寺訪問■ しんがんじ
八幡山浄光院と号する浄土宗の寺院です。先述の通り結城中納言秀康の位牌所として創建されました(1608年)。せっかく訪問したので、簡単で恐縮ですが、まずは境内の様子をご紹介させて頂きます。

<本堂>
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昭和に再建された綺麗な本堂です。

<辨財天堂>
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私は結城秀康を意識して訪問していますが、江戸時代の森巌寺は、針供養、そして富士講で知られる寺で、多くの参詣者で賑わったそうです。庶民に開かれた人気のお寺だったのですね。

<淡島堂>
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森巖寺の境内にある淡島堂。紀州の淡島明神の分霊を勧請したものです。

<針塚>
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淡島堂の前に設けられた針塚の石碑。針供養は淡島神社や淡島神を祀る淡島堂がある寺院で行われることが多いそうです。ここ森巖寺もそのひとつ。そして人気のお寺です。毎年2月に針供養が開催されています。

<富士塚>
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森巌寺のすぐそばの北沢八幡神社で撮影。こちらの神社は明治の神仏分離まで森巌寺と一体で管理されていました。

<北沢八幡神社>
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森巌寺が号する八幡山とは、この神社の別当寺を務めたことによります。

森巖寺も北沢八幡神社も、有難さを感じる素敵な場所でした。

さて
訪問するきっかけとなった結城秀康についてもご紹介させて頂きます。好きな武将の一人であることから、ちょっと主観が入りますがお許し下さい。

■結城秀康という武将■
秀康は遠江国の生まれ。幼名は於義丸(おぎまる)といいます。母は家康の側室ですが、もともとは正室・築山殿の奥女中でした。まぁ分かり易く言えば、家康が手を付けてしまったということですね。こういった経緯から、家康は正室の嫉妬を警戒し、身ごもった母親を重臣の本多重次のもとに預けたとされています。

於義丸が父と対面したのは3歳の時。家康はそれまで会おうともしなかったようです。その初対面も、弟を不憫に思った長男・信康による取りなしであったようです。

この冷遇とも言える背景には、家康の正室への遠慮とする説があります。また、今では考えられないことですが、この時代は双子そのものが忌み嫌われていたため、これを理由とする説もあります。後に家康が秀吉と和睦すると、実質人質として秀吉の養子に出されることに。長男の信康は織田信長の命で切腹させられ既にこの世を去っていたので、本来なら家康の後継者となる立場のはずですが、そうはなりませんでした。
秀吉に実子の鶴松が誕生したことで、秀康は再び他家に出されることとなり、これにより結城家当主・結城秀康が誕生します。

■関ヶ原に出陣できず■
秀吉が没したのち、石田三成が対立する諸大名から命を狙われる事件(石田三成襲撃事件)が起きます。この時、家康の命を受けた秀康は、三成を警護して佐和山城まで送り届けました。三成はこれに感謝し、名刀・正宗を秀康に贈りました。

のちに三成らを中核とした西軍と、徳川家康率いる東軍の両陣営が関ヶ原で激突する際、弟の秀忠が家康の別働隊として3万8千の兵を任されたのに対し、結城秀康は関東で上杉を牽制する役しか与えられませんでした。つまり、天下分け目の関ヶ原には出陣が許されませんでした。秀忠と比較してだいぶ扱いに差がありますね。ちょっと個人的見解になりますが、用心深い家康のことですから、秀康と三成の微妙な信頼関係を警戒したなんてこともあるかもしれませんね。

■越前松平家宗家初代■
下総結城から越前北庄68万石に加増移封された秀康は、姓を松平に改めます。将軍にはさせてもらえませんでしたし、江戸から遠いところですが、68万石というのは徳川一族では宗家を除いて最大の石高です。家康の配慮が伺えます。ただその後間もない1607年、秀康は病により34歳の若さで没しました。

<三つ葉葵>
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秀康の法号「浄光院殿森厳道慰運正大居士」から森巖寺と命名されました。徳川ゆかりのお寺です。

■訪問:森巖寺
[東京都世田谷区代沢]


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2019年08月17日

最年少の将軍・徳川家継のなごり 旧有章院霊廟二天門

今回は日比谷通りから見える重要文化家財のご紹介です。徳川将軍家ゆかりの門です。

<旧有章院霊廟二天門>
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■有章院霊廟■ゆうしょういんれいびょう
まず有章院ですが、これは将軍・徳川家継の院号です。家継?でピンとこない方でも、幼くして就任した将軍の話は聞いた事があるかもしれませんね。それが第7代将軍・家継です。第6代将軍・徳川家宣の四男ですが、兄弟はみな体が弱く早世し、その結果僅か4歳で将軍となりました(1713年)。新井白石などから教育を受け、将来を期待されましたが、風邪を悪化させて病の床に臥し、そのまま亡くなりました(1716年)。在位は3年でした。

<三つ葉葵>
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家継の霊廟は、第8代将軍の徳川吉宗により1717年に建立されました。日光の東照宮を意識した豪華なものだったそうです。しかし、1945年の空襲により、当時国宝だった霊廟は大半が焼失。霊廟の表門が焼失を免れ、現在は東京プリンスホテルの敷地内に佇んでいます。国指定重要文化財です。土葬されていた家継の遺体は、増上寺内の徳川将軍墓所に移されています。15人の将軍のうち6名。家継の他に秀忠(2代)・家宣(6代)・家重(9代)・家慶(12代)・家茂(14代)がこの墓所で眠っています。

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実はこの立派な門、修繕が終わったばかりなのです。修繕前は、朱塗りや金箔が剥げ落ち、やや痛々しいが漂う門でした。保存修理工事を大成建設が請け負うことになり、それ以降は長らく工事用のベールに包まれ、中を伺うことはできませんでした。

それが先月一部が見えるように
<2019年7月撮影>
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作業現場を囲む壁はそのままですが、覆いが外されていました。いよいよかという期待を持ちながらも、その後なかなか明るいうちに訪問することができず、ようやくその全容を確認することができました。

<2019年8月撮影>
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二天門、 つまり左右一対の天を安置した門です。この門の場合、多聞天と広目天。

<多聞天>たもんてん
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右側が多聞天。北方を守る神です。別名の毘沙門天の方がよく知られていますかね。

<広目天>こうもくてん
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左側は広目天。西方を守る神です。

この二神と増長天(南方を守る神)、持国天(東方を守る神)で、いわゆる四天王ですね。

かつての家継(有章院)の霊廟は、父であり6代将軍である家宣の文照院霊廟と並んでいたそうです。焼けてしまった文照院の門には、増長天と持国天の像が置かれていました。

ということで
改修工事が終わったばかりの旧有章院霊廟二天門のご紹介でした。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる人がいたら嬉しいです。

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■訪問:
旧有章院霊廟二天門

[東京都港区芝公園]3



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2019年04月22日

ビルの谷間の首塚(大手町) 将門塚

<将門塚>まさかどづか
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ビルが建ち並ぶ東京のど真ん中。ひっそりとしていながら、神聖な空気が漂います。ここは平将門を供養している場所です。

■平将門の首塚■ たいらのまさかど
戦いに敗れた平将門の首級は、平安京まで運ばれ、都大路の河原に晒されました。3日目に夜空へ舞い上がり、故郷に向かって飛んでゆきましたが、力尽きてこの地に落ちたと伝えられています。将門の首級が落ちたと伝わる場所は他にも複数ありますが、ここ大手町が最も有名な伝承地。ちなみに、「さらし首」という言葉はよく耳にしますが、史料で確認できる範囲では将門が最初だそうです。

<大手町>
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将門塚の位置に黄色の丸で加筆させてもらいました。正直言って、遠くからはあまり目立ちません。三井物産本社ビル付近、住所だと千代田区大手町一丁目2番1号になります。

<説明板>
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将門首塚の由来が記されています。

<屋敷跡>
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右手の説明板によれば、ここは江戸時代、酒井雅楽頭(譜代大名)の上屋敷だったそうです。


■平将門の戦い■
平将門は桓武平氏の武将。下総国佐倉(現在の佐倉市)を領有していました。上総国の国司であった父の死後、将門はまず身内と争って勝利、そしてその勢いは関東の他の国へと及びました。やがて自らを「新皇」と称し、朝廷と対立する立場に。つまり、朝廷からみて逆賊となったわけですね。しかし勢いもそこまで。関東武士・藤原秀郷らによって討たれました。

上の説明板から引用すると『平良将の子将門は 下総国に兵を起し 忽ちにして坂東八ヶ国を平定 自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが 平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった』とのこと
[将門塚保存会説明を抜粋]

<神田明神の幟>
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14世紀初頭に疫病が流行。「これは将門の祟りだ」と噂されました。そこで神田明神が将門の霊を供養したところ、蔓延していた疫病が収まりました。これを機に、神田明神では平将門を神として祀ったそうです。
ただ明治時代になると、天皇が参拝する神社に「逆臣」が祀られていることが不都合となり、祭神から外されてしまったそうです。再び将門が神として祀られたのは昭和になってから。しかも昭和59年といいますから、復活までずいぶん長い時間を要したわけですね。

<神田明神による説明>
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少し抜粋すると、『(平将門公は)武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』とのこと。
西暦800年代の話ですからね。「強き」は絶大な権力を持つ朝廷から派遣された役人、そして「弱き」は民衆ということでしょう。搾取され続ける民衆の立場からすれば、将門は英雄だったのかもしれません。

<将門塚碑>
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当ブログ、お墓の類は極力撮影を避けますが、こちらは供養碑ということで。ガラス張りとなっています。畏れ多くも、直接触れようとする方が多いからでしょうか。

<カエルの置き物>
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傍らにガマガエルの置き物。ここだけでなく、周辺には多数の蛙の置物が奉納されています。将門の首が胴体を求めて飛んできたという伝説から「無事にカエル」という意味が込められているとのこと。そんな願いから、この地を訪れる人もいるわけですね。

ここ将門塚については、「移設しようとすると関係者が急死する」といった言い伝えがあります。最近でも、触れれば祟られると噂されたり、心霊スポットとして取り上げられたりしています。

受けとめ方は人それぞれで良いと思います。どうであれ、多くの人が訪れているのは事実。今回の私の訪問時(日曜日)にも、人が途切れることはありませんでした。

日本には「たたり神」という言葉、というか考え方が存在します。普通なら恐れられたり避けられたりする対象が、手厚く祀りあげることで、逆に強力な守護神となるという考え方です。菅原道真の例と同じく、将門が祀られる背景には、こういうものの捉え方があるわけですね。権力に苦しめられる民衆にとって、既存の権力を打ち砕く将門はどんな存在だったのでしょうか。それを感じてみる。思いを馳せてみる。日本人らしいとはどういうことなのか、気付く機会になるのではないでしょうか。

私なりに思うところがありましたが、それは私の内側にしまっておきます。ただ「鎮魂」という言葉の意味が、この日はいつもより重く感じられました。

<平将門の首塚>
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怖い場所ではありません
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たくさんの人たちから崇敬を受け続けてきた場所なのです。


以上です。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。

■訪問:平将門の首塚(将門塚)
[東京都千代田区大手町]1-2-1


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2019年04月21日

家康ゆかりの池(荒木町)策の池 

今回は街探索の仲間たちと四谷の地形を楽しんでいたら、家康ゆかりの池と出会ったというお話です。良かったお付き合い下さい。

<策の池>むちのいけ
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訪問は4月上旬。桜が満開でした。

■現地■
四谷三丁目駅に近い新宿区荒木町。ここは地形マニアの間では有名な場所です。起伏が激しく、更に四方を囲まれた窪地というユニークな構造。その道の方々が「スリバチ」と呼ぶ構造になっています。

水の流れが長年台地を削ることで、低地の三方が囲まれているというなら理解もできますが、ここは四方。ちょっと不自然な地形です。これは人の手によるもの?あるいは谷の出口で土砂崩れ?などなど。現地ではいろいろ考えてしまいましたが、帰宅してから調べたら、やはり人の手、つまり造成された結果のようです。具体的には、北側にあった谷の出口に、土手が築かれたとのこと。

<スリバチの細道>
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尾根道となっている甲州街道を逸れて、低い場所へと向かいます。この細い路地、何となく心魅かれます。

<階段>
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細い路地を降りきると、東側に階段が現れました。高低差、伝わりますでしょうか。こういう地形の中で人が暮らすと、結果として階段の多い町になりますね。今回のご紹介は、そんなスリバチ地形の底でみつけた小さな池です。

<現地>
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ここです。

<崖の下>
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池の向こう側は壁。昔なら崖ということでしょうか

<池と弁天様>
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池の隅には弁天様 

<津の守弁財天>つのかみ
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津の守摂津守にちなんだ呼び名です。この辺り一帯は、美濃国高須藩主・松平摂津守の上屋敷でした。庭には湧き出す水を堰き止めて造った池があり、そのなごりがこの池です。昔はもっと大きく、更には天然の滝が流れ込む池だったようです。崖のどこかが地水の出口となっていたわけですね。

■家康ゆかりの池■
鷹狩りの際、徳川家康が馬に用いるムチ(策)をこの地で洗ったとされることから、池は「策の池」と呼ばれるようになったとされています。

<説明板>
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策の池の説明。ちょっと撮影しにくい説明板でした。前半を抜粋させてもらうと『江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ四メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。』とのこと。人気だったようですね。

説明文の後半にも記されていますが、この付近一帯は先述の松平摂津守の上屋敷となり、池は一般庶民からは遠い存在となります。しかし明治になると再び庶民に解放され、湧き出る水が人を魅了する景勝地として知られたそうです。いまでは水も枯れ、滝の姿はありませんが、残された小さな池にそのなごりを感じることができました。

<北側の階段からの眺め>
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四方を囲まれたスリバチ状の地形。どうも北側のこの付近が、人が手を加えた地形のようです。松平摂津守の屋敷が造られた時に、谷の出口を塞いだと考えられます。

このユニークな地形を存分に味わい、家康ゆかりの池とも出会えました。

<策の池の桜>
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そして桜も見事でした。

ということで
満足な荒木町散歩となりました。

■訪問:
津の守弁財天・策の池
[東京都新宿区荒木町]

---------■ 参考画像 ■---------
<住友不動産四谷ビル>
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近くのビル。通り過ぎようとしたら

<気になるサイン>
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古地図らしきものが目に入り立ち止まる

<史跡案内>
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この地が松平摂津守の上屋跡であることが記されています。こういう粋な演出、街探索をする側にとっては嬉しいですね。
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2019年04月07日

若き剣豪 沖田総司終焉の地 (千駄ヶ谷)

つわものどもが夢の跡
新選組一番隊組長・沖田総司終焉の地を訪ねました。

<説明板>
shirononagori324 (1).jpg
剣豪としても知られる沖田総司。とても明るい性格だったようです。しかし若くして肺を患い、第一線から退いてここ千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に匿われていました。

<説明板の背後>
shirononagori324 (3).jpg
説明板の後ろ側、これは堀跡?

かつての堀なら興味深いところですが、川の跡です。ここには旧渋谷川が流れていました。そして総司が身を寄せていた植木屋平五郎の家は、この付近、つまり渋谷川沿いだったようです。

<旧渋谷川>
shirononagori324 (2).jpg
明治以前の千駄ヶ谷ですからね。今と違って、のどかに川が流れる場所だったのでしょう。天才剣士・沖田総司が眺めたかもしれない川は、暗渠化されて姿を消しました。しかし残された区画には、人を和ませる空気がいまも漂っています。

総司は幕府の医師・松本良順の治療の甲斐も無く、植木屋平五郎宅でそのまま亡くなったと伝わります(慶応4年5月30日)。この時の年齢については諸説ありますが、いずれにせよ20代。新選組局長・近藤勇が、板橋の刑場で処刑されてから2ヶ月後のことでした。

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周囲の者達の配慮で、師である近藤の死が総司に伝わることはありませんでした。それ故に、総司は死の間際まで近藤の安否を気にしていたそうです。

■訪問:沖田総司 逝去の地
 (大京町交番の隣)
[東京都新宿区大京町]28番地


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2019年03月20日

ひっそりと佇む将軍ゆかりの門 御成門

<御成門>おなりもん
shirononagori321 (3).JPG

都営三田線に「御成門」という駅があります。駅名で○○門と聞くと、桜田門・虎ノ門・半蔵門といった「江戸城の城門」を想像しますよね(私だけ)?今回訪問の御成門は城の門ではなく、寺の門。徳川将軍家の菩提寺である増上寺の門です。

<柵の中>
shirononagori321 (4).JPG
やや置物のような佇まい。ひっそりと映るのは、門としては機能していないからでしょうか?様式としては、城門などでも良く見かける高麗門です。

<アップ>
shirononagori321 (2).JPG
全体としては趣がありますが、細部においてはちょっと疲れた感が漂います。

増上寺の門とご紹介しましたが、現在の増上寺からはちょっと離れた場所にあります。具体的には東京プリンスホテルの駐車場の北側。最初からここにあったわけではなく、もともとは現在の御成門交差点(駅付近)にありました。道路(日比谷通り)整備の都合で、明治25年に移設されました。

<御成門駅出口>
shirononagori321 (5).JPG

<付近の地図>
shirononagori321 (6).JPG
御成門交差点は右下。この付近まで増上寺だったということですね。そして、そこに御成門があった。なるほど。

この御成門、もともとは増上寺の「裏門」だったそうです。将軍家が参詣する際によく使用したことから、やがて御成門と呼ばれるようになりました。

<将軍が出入りした門>
shirononagori321 (1).JPG

ということで
御成門は増上寺の門、そして将軍家ゆかりの門というお話でした。同じ景色も、知れば違った景色に映りますね。

■訪問:御成門
[東京都港区芝公園]


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-----------(追 記)-----------
2019年11月に再訪
今度は門の内側から撮影しました。こちらは更に疲れた感が漂います。
<御成門の裏側>
SN321AB1911 (1).JPG
SN321AB1911 (3).JPG
SN321AB1911 (2).JPG
表以上に老朽化が目立ちます。

歴史を刻んだ貴重な建物。過度な修復は期待しませんが、もう少しだけ手を加えてもらえると安心できますね。
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