五大老にも名を連ねた宇喜多秀家。そんな西国の雄にゆかりの寺が、板橋区にあると聞き及び、訪問してみました。
<東光寺>
境内に秀家の供養塔があります。
<供養塔>
こちらですね。それにしても、なんで板橋に・・・
■宇喜多秀家■うきたひでいえ
いわずと知れた戦国武将。若い頃から秀吉に重用され、五大老に名を連ねるところまで上りつめました。元の名は家氏。「秀」の字は秀吉に与えられ秀家を名乗りました。
[五大老]
@徳川 家康:関東支配
A前田 利家:北陸支配
B上杉 景勝:東北南部
C毛利 輝元:中国西部
D宇喜多秀家:中国東部
いかに凄いかをお伝えすべく、五大老の話を最初にもってきてしまいましたが、こうして列記するとやや小粒に見えなくもないですね。お察し頂けると思いますが、他がとんでもなく巨大な存在なだけ。岡山城主・宇喜多秀家は、備前ほかで57万4,000石を領する大大名(当時として全国6番目)。世が世なら、更に勢力を拡大できたかもしれない武将です。父親はいわゆる下克上で成り上がった宇喜多直家。戦国期に一気に頭角を現した一族なのです。
■運命の関ヶ原■慶長5年
宇喜多秀家の率いる軍勢は西軍の主力。総勢で1万7千といわれています。東軍屈指の軍である福島正則の軍勢と激突しました。しかし結果はご存じの通り。自軍の奮闘とは関係なく、秀家は敗軍の将となります。
宇喜多家は改易。つまり身分を剥奪され所領も没収。秀家はしばらくの逃走の末に捕らえられ、石田三成同様死罪。の、はずではたが、前田家の懇願により久能山(静岡市)への幽閉となり、だいぶたった慶長11年に八丈島への島流しとなりました。宇喜多秀家、この時34歳でした。
■加賀前田家の支援■
宇喜多秀家の妻・豪姫は前田利家の四女です。授かった息子2人は秀家とともに八丈島に流罪となってしまい、実家である前田家に戻りました。
この関係あってのことです。前田家は、八丈島に流された宇喜多家に支援を続けました。徳川家に怒られませんかね?途中からは、ちゃんと幕府の許可も得ていたようです。食糧や衣服、金銀を送り続けました。
ただ、やはり関ヶ原で徳川相手に奮闘した人物です。秀家の罪が許されることはありませんでした。そして明暦元年(1655年)、83歳で亡くなりました。お墓は八丈島にあります。
それにしても、当時の83歳ですからね。かなり長生きです。関ヶ原には名だたる武将がたくさん参加していますが、東軍西軍合わせても、宇喜多秀家ほど長く生きた例はありません。
■支援の継続■
加賀前田家から八丈島の宇喜多家(浮田と改名)への支援は、秀家亡き後も続けられました。息子もいますからね。そしてなんと、江戸時代が終わるときまでずっと続けられたそうです。やがて明治政府から罪を許され、宇喜多秀家の子孫は八丈島から板橋へ移ります。
なんで板橋?加賀藩前田家の下屋敷は、ここ板橋区にありました。秀家の子孫は、この地で前田家から土地と資金の支援を受けたようです。秀家の供養塔は、この時に子孫によって建立されたと考えられます。諸事情で供養塔の設置場所はいろいろ変わったようですが、今は東光寺の境内にあります。
<境内>
お墓は避けて撮影しています。説明板(板橋区教育委員会)があり、とても分りやすい。
<供養塔>
伊豆半島で切り出される「小松石」で造られています。素人目には分かりませんが、耐久性に優れる反面、加工が難しいそうです。
<秀家卿の文字>
加工が難しい石材、そしてこの文字の彫られかたからして、かなり腕の良い職人の仕事と評価されているそうです。
■つわものどもが夢の跡■
人生の半分以上を八丈島で過ごした宇喜多秀家。ご本人のご苦労や心の葛藤まで想像が及びませんが、かつて五大老に名を連ね、官位は中納言、そして幾多の戦で勇敢に戦った戦国武将という実績が色あせることはありません。ついでに言うと、かなりの美男子だったとか。
八丈島までは行けませんが、ここ板橋で西国の雄のなごりを感じることができます。
<東光寺正面>
■訪問:宇喜多秀家供養塔
( 東光寺境内 )
[東京都板橋区板橋]4-13-8
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板橋は街歩きが楽しい場所です。
板橋駅で降りて旧中山道から旧川越街道に。大山のハッピーロードからかつての職場を見てきました。そのあとは石神井川を埼京線と交差するところまで下り十条駅から帰宅しました。
板橋から下流側は加賀藩由来の地名が目白押しでした。板橋加賀とか金沢橋とか、それに広大な可加賀公園もありますしね。
楽しい街歩きでした。