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2017年04月16日

つわものどもが村の跡(荻窪)伊賀の里の伝承

つわものどもが夢の跡
今回は杉並区の荻窪に残る伊賀者のなごりのお話です。最初に言っておきますが、遺構とか、物的証拠と出会えたわけではありません。そこに漂うなごり。それを感じてみたくなった。そんな記録です。

■ 荻窪の支配者 ■おぎくぼ
古くは豊島氏の領地でした。武蔵国、特に現在の東京で勢力のあった清和源氏の流れをくむ名族ですね。しかし扇谷上杉家の太田道灌に敗れて滅亡。荻窪も扇谷上杉の支配下となります。その後、関東覇者となった小田原北条氏が支配する時期を経て、国替えでやってきた徳川の領地に。伊賀と荻窪に関連があるとするなら、始まりはこの頃からということでしょうね。

■ 2つの村の話 ■
江戸時代初期、荻窪には上荻窪下荻窪の2つの村がありました。まず下荻窪村、こちらは伊賀棟梁である服部半蔵の知行地だったという話があります。そしてもう一つ、上荻窪村は伊賀同心八名の知行地だったとのこと。まぁ勝手に移り住んだわけではなく、徳川家配下の者として、正式に知行を受けていたわけですね。同心の身分は、下級武士くらいに受け止めて大筋間違いありません。

■ 伊賀者 ■ いがもの
ドラマや小説でたびたび取り上げられる忍者。影の者でありながら、今ではすっかりメジャーな存在ですね。その代表格である伊賀の忍者。彼らは特定のクライアントを持たなかったと言われています。つまり、誰かに仕えて忠誠を尽くすというより、依頼ごとに仕事をしていたわけですね。いわばフリーランスのプロフェッショナル。なんか格好いいですね。では、どうしてその伊賀者たちが、徳川に従属しているのでしょう。

本能寺の変の直後、身の危険を察して浜松を目指した家康のいわゆる「伊賀越え」が縁で、大勢の伊賀忍者たちが徳川家に召し抱えられることになったそうです。護衛してもらったお礼ですね。この「伊賀越え」は、「三河一向一揆」・「三方ヶ原の戦い」と並び、徳川家康の人生の三大危機と言われています。つまり大ピンチだったわけですね。家康は助かってよほど嬉しかった、そして伊賀の者たちに感謝していたのでしょう。ちょっと別な評価をすると、家康は伊賀忍者の実力を目の当たりにしたことで、これは「使えるぞ」と考えたのかもしれませんね。更に、伊賀越えの時に家康のお供をしたメンバーには、徳川四天王などの重鎮が含まれます。家康本人と同じことを考えたかもしれません。


■ 伊賀者のなごり ■
<忍川橋>おしかわばし
iganosato (3).jpg
繰り返しになりますが、忍者に関わる遺構のようなものはありません。ただこの忍川橋といった名に、それらしい雰囲気が漂います。という一文字だけですが・・・

<忍川上橋>おしかわかみばし
iganosato (2).jpg
こちらにもの文字

まぁ地名などに忍の字が使われているケースは、全国に沢山ありますね。全部ではないですが、湿地帯に由来しているという話を良く耳にします。ここ荻窪もその類なのでしょうか?ただ、こういった橋の名に加えて、現在の荻窪駅付近には忍ヶ谷戸(しのびがやど)という地名があり、『伊賀の里が善福寺川の谷あいにあったことから、忍び者の谷戸と呼ばれ、やがて忍ヶ谷戸という呼び名になった』ともいわれています。ちょっと信じてみたくなるお話です。

目で見て分かる痕跡はないものの、そんな話が伝わるこの付近。何となく服部半蔵率いる伊賀忍者の里だったような気がしないでもない。史実かどうか不明です。現地にそういう雰囲気が漂う。そんなお話として受け取って下さい。


■ 服部半蔵について ■
あまりにも有名な名前ですね。

ただ、当主が代々「半蔵」を名乗ったことはあまり知られていません。そう、服部半蔵は一人ではないのです。歴代のうち、一般的にイメージされる人物、つまり徳川忍軍の棟梁は、二代目服部半蔵になります。また、いわゆる忍者は初代で、二代目の服部半蔵正成はあくまで武士。先述の「伊賀越え」以前から、正成は武士として徳川に仕えていました。

さて、その服部半蔵ですが、知行地となったここ荻窪にも、屋敷をかまえていたのでしょうか?江戸城近くに半蔵の屋敷があったことは知られてますが、お勤めのない時は荻窪の別宅ですごしたとか、家族がいたとか…。私なりに調べましたが、あまりはっきりしません。

配下の者たちはどうだったのでしょう。「伊賀越え」により召し抱えられた伊賀者は、なんと二百人もいたそうです。全て正成に預けられました。結構な大所帯ですね。一般的には、麹町付近に半蔵の屋敷があり、配下の者たちもその付近の甲州街道沿いに住んだと考えられています。いわゆる半蔵門に繋がる道沿いということですね。

ただ家族も含めれば大人数。収まる場所にも限度があり、知行地だった荻窪にも関係者が移り住んだ?なんてことがあっても不思議ではないですね(ここ、また個人的妄想です)。

ちなみに、正成は「関ケ原の戦い」より前に他界しています。江戸時代には存在しません。ですから、下荻窪村が江戸時代初頭に服部半蔵の知行だったというお話は、服部半蔵の名が三代目に引き継がれた後の話ということになりますね。そしてそれに従う者たちも、もはや身分は同心。忍者ではなく武士です。更に代替わりしていくことも考慮すると、仮に荻窪と伊賀に深い関わりがあったとしても、いわゆるリアルな忍者が住んだというより、その子孫たち、あるいは江戸城の警備で甲賀組などとともに活躍する「伊賀組」の関係者が住んだ、そんなふうに想像する方が無難かもしれませんね。

<忍川橋と善福寺川>ぜんぷくじがわ
iganosato (1).jpg
場所はJR荻窪駅の南側になります。

伊賀忍者の子孫と関係があった…かもしれない荻窪。そんなことを意識しつつ、橋の名に「」の字を確かめながら善福寺川沿いを散歩して帰路につきました。

■訪問:忍川橋
[東京都杉並区荻窪]4丁目


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タグ:東京
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