打倒鎌倉幕府のために挙兵した新田義貞が、幕府勢と激突した古戦場を訪問しました。
<分倍河原古戦場碑>ぶばいがわら
新田義貞率いる軍勢と北条泰家率いる軍勢がこの地で激突しました。
■新田義貞の挙兵■
幕府の御家人であり、源氏の血をひく新田家8代目棟梁の新田義貞が、鎌倉幕府討伐のために挙兵したのが1333年(元弘3年)。上野国を出た時は150騎程度だった言われる軍は、南下するほど増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。更に足利尊氏(この時は高氏)の嫡男である義詮(この時は千寿王)が合流し、その後も続々各地の武士が集まり続けました。
<分倍河原駅前の新田義貞像>
挙兵した義貞に加勢する者は多数。後醍醐天皇の命を受けたとはいえ、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちは多かったということですね。
■分倍河原古戦場■
実際の合戦は広範囲に及んだと思いますが、とりあえず石碑がある公園を目指しました。
<古戦場碑案内>
初めての訪問のためちょっと関心した瞬間です
<分倍河原古戦場>
橋の向こうに目的地と定めた石碑が見えてきました
<石碑と説明板>
分倍河原古戦場と刻まれた石碑です。お隣に説明板が設置されています
<説明板>
分倍河原古戦場は東京都指定旧跡。東京都教育委員会による説明文を以下に転記させて頂きます。
『文永(一二七四)、弘安(一二八一)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎなき御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(五月十一日)、さらに、久米川の戦いで優位に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。』
冒頭の説明で、北条氏による執権政治は既に行き詰っていたことが分かりますね。そして新田義貞の挙兵。南下しながら北条側の諸勢力を跳ね除け、いよいよここ分倍河原で本隊と激突。新田軍は初戦で敗れますが、この理由として、義貞には執権・北条高時が弟の泰家を大将にして大軍を送り込んだという情報が入っていなかったという説があるようです。敵の兵力が想定外だったということですね。いずれにせよ、新田義貞は一旦は分倍河原から撤退します。しかし三浦氏など相模国の豪族が新田軍に協力するに至り、状況は変化。両軍は翌日に再び激突し、新田軍は大勝利をおさめました。元弘3年5月16日、西暦だと1333年6月28日の出来事でした。
古戦場碑は整備された公園内に設置されています
一度は勝利しながら翌日に大敗した幕府軍の総大将・北条泰家。最初の激突の時に、ギリギリの状態で逃げていく新田義貞に追い撃ちをかければ仕留められたという説が有力です。負けてこの地から脱出となりますが、どのような思いで鎌倉へ戻ったのでしょう。
一方で、勝っただけでなく、相模国の豪族すら味方となった新田義貞は、前途に何を思ったことでしょう。この地で勝利したことで、新田軍には関東各地から更に援軍が加わり続けました。南へ向かって進軍すればするほど、義貞が率いる軍勢の士気は高まっていったに違いありません。
<つわものどもが夢の跡>
その後の戦局を決定的にした合戦があった場所です
■訪問:分倍河原古戦場碑
( 新田川分梅公園 )
[東京都府中市分梅町]2丁目
■参考
現地説明文(東京都教育委員会)
Wikipedia:2022/5/29
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