<分梅碑>
府中市分梅町に設置されている地名碑です。遠くからでも目立つかなり立派なものです
<説明文>
分梅に関する長い説明文が刻まれています。以下に転記しますが、一部読み取れなかった点はご容赦下さい。
『分梅(ぶばい)は現在の分梅町・・・の一部(鎌倉街道=分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、「新・・・風土記稿」(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移ったあと分梅河原に進出したといわれています。古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ「ぶんばい」と呼ばれていたこともあります。近世以降には「分梅」が多用されています。
地名の起こりは不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために口分田を倍に給した所であったという説もあります。』
注〕・・・は読めずに省略
ハケは地形を表す言葉で、低地に面した台地や崖状の場所のことですね。分梅の集落の中心はもともと台地上にあったが、多摩川の流路が南に移ったことで、低いところにも広がっていったと理解しました。むかしの多摩川は、この付近にまで迫っていたことが伝わってきます。そして、それが分倍河原の「河原」の由来なのでしょう(想像です)。
さて、古くは「ぶんばい」と呼ばれ、これが口分田を倍に給したことに由来するという説はとても興味深いですね。口分田とは民に支給された農地のこと。川や土壌の具合を考慮して、一般的な基準の倍の広さの土地を支給した。その状況に漢字をあてはめると分倍・分陪・分配。納得です。
ただ、これもひとつの説に過ぎず、地名の起こりはあくまで不明。やがて分梅となった理由もわかりませんでした。
これ以上深く考えるより、むかしは呼び名にどの漢字をあてはめるかが今ほど厳格ではなく、比較的流動的だったと受け止めることにしました。
<分倍河原駅前>
ここは新田義貞ゆかりの地です。
分梅という漢字を目にして、新田義貞と梅にまつわる風流な言い伝えでもあるかと思って調べたが、あまり関係がなかった。そういうお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<分倍河原古戦場へ>
いろいろと寄り道をしながら、この日の目的地へ向かいました
■訪問:分梅碑
( 分梅の地名碑 )
[東京都府中市分梅町]2丁目25-6
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