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足柄城のなごり [2024/03/23 22:50]
駿河と相模の堺となる足柄峠。ここに築城された山城を訪ねました。 <足柄城跡>あしがらじょう 静岡県小山町と神奈川県南足柄市の境です。城は旧東海道の足柄古道に沿いに築かれました。 足柄城は西相模に進出した大森氏が、街道を押さえるために築いたと考えられています。のちにこの地方に台頭した小田原北条氏の氏綱や氏康によって改修されたと考えられていますが、はっきりしたことはわかっていないようです。 1568年に武田信玄の駿河侵攻が始まると、駿河と相模の堺に位置する..
山の頂上付近の湧水池(足柄城)玉手ヶ池 [2024/03/18 22:00]
足柄峠に築かれた山城の頂上付近には、かつて地下水が脈々と湧き出る池がありました。 <玉手ヶ池> 画像の奥が池の跡とされています。ここは足柄城の一の郭(主郭)の東隅。山麓、又は中腹ならともかく、標高の高い山のほぼ頂上です。 <現地の立札> 近くの立札に『史跡と伝説』と題した説明が記されています。せっかくですので、以下に転記させて頂きます(『』内が原文)。 『この池は、底知らずの池又は雨乞い池と云われ、底は小田原に通じて居るとも云われて居り、又干ばつ..
足柄峠の関所跡(足柄道)古代東海道における東国の出入り口 [2024/03/09 21:15]
古くは官道として利用された足柄道の関所跡を訪ねました。 <足柄之関>あしがらのせき ここは律令国家の時代の東海道で、駿河と相模の堺です。 <足柄峠の標柱> 標高759mですか。高さ云々より道の傾斜の方に気をとられます。 <説明板> 「古代の足柄の関」と題した説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます。『』内は原文の写しです(転記ミスありましたらすみません)。 『足柄の関は昌泰二年(八九九)、足柄坂に出没する強盗団、僦馬の党..
源義光ゆかりの石(足柄峠)新羅三郎義光吹笙之石 [2024/03/09 19:15]
むかし難所と呼ばれた足柄峠には、源義光ゆかりの石があります。 <源義光ゆかりの石> ここは神奈川と静岡の県堺の山中です。厳密に言うと石は峠の静岡側にあります。 <説明板> 石のそばに説明板が設置されています。引用も交えながらご紹介させて頂きます。『』内は原文のままです(転記ミスありましたらすみません)。 まず義光について 『八幡太郎義家の弟、三郎義光は琵琶湖の畔り三井寺の近くの新羅の森で元服したから新羅三郎義光と云っていた。戦乱の世にあっても..
石畳の下に眠る障子堀(箱根旧街道) [2021/06/26 21:54]
<箱根旧街道> 箱根旧街道とは小田原から三島にいたる街道。山を含めた箱根八里の道には、石田畳が敷かれ、険しいながら人気の道となっています。 <山中城> その途上に位置する山中城は「障子堀」で有名な城です。かつて豊臣秀吉率いる天下軍の前に立ち塞がった小田原北条氏の城でした。 平成の発掘調査(三島市教育委員会による調査)より、山中城の岱崎出丸付近の石畳の下から、障子堀跡が発見されたそうです。 <岱崎出丸>だいさき 山中城の三の丸より更に外側の位..
浜松城のなごり 家康が17年間居城とした城 [2020/11/14 22:50]
つわものどもが夢の跡 今回は「出世の城」と呼ばれる浜松城です <浜松城天守閣> 徳川家康が17年間にわたり居城とした城です ■浜松城の前身■ この地にはもともと曳馬城(引間城)と呼ばれる城がありました。浜松城の前身といわれる小規模な山城です。築城者については諸説ありますが、遠江今川氏4代当主の貞相が15世紀ごろに築いたという説が有力です。 <曳馬城跡の石碑>ひくまじょう <引間城(曳馬城)説明板> 説明には尾張の斯波氏と駿河の今川氏の名..
石川数正の鞍替えと徳川家康の城替え(浜松城を去る家康) [2020/11/14 20:30]
<家康像> 浜松城で撮影した家康像です。下に『若き日の徳川家康公』と記されています。そういえば、他の銅像と比べると、ちょっとほっそりしていますかね。右手にはちょっと変わった武器?ではなく勝草(カチグサ)とも呼ばれたシダの葉です。 <浜松城> 家康は17年もの間ここ浜松城を居城としました。強敵に囲まれながらも、この城を足掛かりに戦国大名としての地位を着々と確立していくわけですが、のちに駿府に拠点を移しています。この背景については諸説あります。そのうちのひと..
浜松城の野面積み [2020/11/08 21:30]
今回は「野面積み」の代表作といっても過言ではない浜松城の石垣のご紹介です。 <天守閣> 復元された天守閣も立派ですが、城郭ファンの間で有名なのが土台の石垣です。自然の石を加工せずにそのまま積み上げています。 ■野面積み■のづらづみ この言葉は石垣に用いる石の加工具合を基準に分類した時の呼び名です。石を加工せず、そのまま積み上げる方法を野面積みと呼びます。この分類だと他に「打込ハギ」とか「切込ハギ」などがありますが、今回は説明を省略します。別途投稿していますので..
引間城のなごり 浜松城内の古城 [2020/11/04 05:10]
つわものどもが夢の跡 今回は浜松城の前身ともいえる城跡の話です。 <引間城跡>ひくま 曳馬城跡(引馬城跡)と記された石碑です。かつてここには引間城と呼ばれる城がありました。 <浜松城の縄張り> 右上が●現在位置です。 <説明板> こちらの説明によれば『歴代城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏』が記されています。これだけで、ここ浜松(昔の地名だと引馬)が、遠江一帯を支配する斯波氏と、駿河を支配する今川氏が鎬を削った..
秀吉にとってもゆかりの地・浜松(元城町東照宮の銅像) [2020/11/03 22:05]
浜松城と聞いて思い出すのは徳川家康。そんな思いで訪問した現地で、こんな銅像と対面することとなりました。 左は家康として右の少年は誰? ここはかつての浜松城内に位置する元城町東照宮です。東照宮だから家康。これは想定していましたが、子供が家康と同等の位置にいることに非常に違和感がありました。 豊臣秀吉公?! なんと秀吉でした。いかにも若く、まだ風格が備わる前の姿ですね。ここ浜松は、後に天下人となる秀吉(木下藤吉郎)にとってもゆかりの地なのです。 ..
高天神城のなごり [2020/07/15 21:15]
つわものどもが夢の跡 武田勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた城跡を訪ねました。 <高天神城本丸>たかてんじんじょう ■三方が断崖絶壁■ 高天神城は三方が断崖絶壁という天然の要害です。麓からの比高約100m強の山に築かれたこの城は、激戦を繰り返すごとに進化を遂げ、最終的には東西二つのエリアに分かれた一城別格(中核となる曲輪が二か所ある)の構造となりました。 <高天神城の全体図> [現地撮影:高天神城想像図] 東側の峰がもともとの高天神城で..
最後の改修者のなごり 高天神城の横堀 [2020/07/13 21:10]
今回は高天神城に残る長い横堀の話です。 <横堀>よこぼり この堀は徳川から奪い取った城跡を、武田勝頼が改修した時に掘られた横堀です。 <説明板> 武田による堀であることが記されています 高天神城は三方が崖であるのに対し、西側の斜面だけはやや緩やかになっています。この弱点を見極め、高天神城を西から攻め落とした勝頼は、城を手中にするとこの弱点を克服すべく城を改修しました。 <高天神城の全体図> [現地撮影:高天神城想像図] この図は一城別..
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