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2021年07月23日
大和の古道と飛鳥【高松塚古墳・吉備姫陵・猿石】
昭和47年の春、飛鳥の里の小さな古墳から極彩色の壁画が発見された。石槨の高さ1.1メートル、幅 1メートル、奥行き2.6メートル、羨道もない終末期の横穴式石室の壁画には漆喰が厚く塗られ、女人像をはじめ、青龍・白虎・玄武なども描かれていた。
被葬者は皇子か帰化人か、未だ判明しない。頭蓋骨のないことや、鞘があって刀身のないことなどが、怪奇的なものとして見られている。
「黄泉の王」梅原 猛
欽明天皇の桧隈坂合陵のかたわらに、欽明天皇の孫で、斉明天皇の母にあたる吉備姫王の墓がある。これを桧隈墓という。そこに猿石と呼ばれる石像が四体おかれている。元禄15年にこの付近から掘り出したものを、この墓域に移したものである。
飛鳥ではところどころに異様な面相をした石像があるが、百済からの帰化人の住地であった可能性があるので、もとは異国の宗教的な意味も秘められているのではないかとも考えられている。
By やまと まほろば通信
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2021年07月21日
大和の古道と飛鳥【於美阿志神社・見瀬丸山古墳・文武天皇陵】
桧前(ひのくま)の一体は応神朝に朝鮮から帰化した阿知使主(あちのおみ)の一族が居住したところで、集落のはずれにある神社は阿知使主を祭神とする。
そこは白鳳時代に創建された桧隈寺の跡である。
境内の一隅にその礎石が残り、また、今では十一重になって欠けているが、重要文化財指定の十三重石塔がある。
橿原神宮から南の見瀬の集落に、大和では最大の古墳がある。墳丘の長さ320メートルほどの前方後円墳で、日本で最長の横穴式石室をもち、二つの家形石棺がある。
森をなす後円部のみが御陵墓参考地に指定されているが、写真でも明らかなように前方後円墳で、かつてあった周濠は水田や人家になっている。最末期のこの巨墳が天皇陵であることは確かであろうが、誰を葬ったものかは不明である。
欽明天皇と妃の堅塩媛、或いは蘇我稲目を比定する説が出されている。
持統天皇は孫の成長を待ち、軽(かる)皇子が15歳になったとき譲位される。父は草壁皇子、母は後の元明天皇である。しかし、在位11年、25歳の若さで崩御される。大宝律令が完成した御代であり、その皇子が聖武天皇となる。
By やまと まほろば通信
2021年07月20日
大和の古道と飛鳥【板蓋宮・大官大寺・天武・持統陵】
皇極天皇は飛鳥板蓋宮を造営なされた。それまでは茅葺か桧皮葺の宮殿であったのを板蓋にしたことは、女帝らしい贅沢であったのだろうか?その板蓋宮で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅する事件があった。
わずか在位三年半で退位されたが、その中大兄皇子(後の天智天皇)と弟の天武天皇の母でもあった。
飛鳥川畔の宮址からは、葺石や柱穴、さらには珍しく井戸までも発掘された。
浄御原宮址からさらに北に行くと、香具山に近いところに、大官大寺の址を示す大きな石柱が、広い畑の中に立っている。
この寺はもと推古朝二十五年に、聖徳太子が生駒郡熊凝村に建てた精舎にはじまり、舒明朝に移されて百済大寺となり、さらに天武朝にこの明日香村小山に移されて大官大寺と改められた。
平城京遷都後、平城京に移建されて大安寺と号し、東大寺につぐ官寺として遇された。
桧隈(ひのくま)大内陵といい、天武天皇の御陵に、皇后であった持統天皇を合葬したものである。
鎌倉時代に盗掘された模様では、天武天皇は乾漆棺に納められ、持統天皇は薄葬を遺言されて火葬にされたため、蔵骨器に納められていたという。火葬はこのとにからはじまったとされている。
By やまと まほろば通信
2021年07月18日
大和の古道と飛鳥【浄御原宮・橘寺・川原寺】
第38代 天智天皇の死後、672年 壬申の乱によって近江朝廷を倒した大海人皇子(天武)は、都をもとの飛鳥の地に戻し、飛鳥浄御原宮を造って即位した(673年)。その地はまだ確かではないが、高市郡明日香村の大字雷と飛鳥の中間、飛鳥小学校の校庭の東方一帯が宮址らしいと考えられ、そこからは宮址の遺構らしい葺石も出ている。
第40代 天武天皇は、それまでの豪族連合による政治を廃止し、中央集権的な天皇政治を断行し、皇室を中心とした官僚政体に組み変えた。
国史編纂に着手したことも、伊勢神宮の式年遷宮制を宣布して、日の神の直系の子孫である天皇が統治する国であることを明示しようとしたのも、すべて一連の動きである。
そうした中央集権の完成を目指して、それに見合う大宮殿の建設をたびたび試みたが、それだけでは完成せず、浄御原宮で崩じた(686年)。
聖徳太子の父である用明天皇の別邸のあったところで、太子の誕生の地である。推古朝14年に寺として創建された。現在は後世の建物ばかりで、昔の面影を偲ぶよすがもないが、かつては四天王寺式伽藍配置の大寺であったといわれている。わずかに塔心礎や異様な顔をした二面石が残っている。
このあたりは斉明天皇の飛鳥川原宮址と推定され、その跡地に建てられた寺であるといわれている。
以前では、橘寺から見下ろすと、菜の花畑が一面に広がる中に、白い土塀の一角があって、その美しさは格別であった。現在は小さな寺となっているが、その低い門をくぐると、二十六の瑪瑙石の礎石が並んでいる。それは創建当時の中金堂の跡である。
それほど贅を凝らしてつくられた豪華な寺で飛鳥寺よりもすぐれ、川原式伽藍配置をもっていた。奈良時代から弘福寺(ぐふくじ)と呼ばれ、三大寺のひとつであった。門の前の東南に一段と高くなった土壇は、後の塔址で、十五個の礎石が残っている。
By やまと まほろば通信
2021年07月13日
大和の古道と飛鳥【飛鳥大仏 、甘樫の丘】
推古朝13年4月に、日本ではじめて造ることになった仏像を鞍作止利に命じ、翌14年4月に完成した。その仏像は、蘇我氏の寺 元興寺(飛鳥寺)に安置されることになったが、仏像がお堂の入り口より高くて入れることができない。工人たちは戸を壊そうとしたが、鳥仏師が巧みに入れて安置したという。国家的事業で造られた仏像が、蘇我氏の寺に安置されたところに、当時の特殊な事情がある。推古天皇も聖徳太子もともに蘇我氏の血をうけ、蘇我馬子が時の実権を握っていたのである。
後年、中大兄皇子と中臣鎌足がこの寺の蹴鞠の会で近づき、その蘇我氏を討滅する密議を進める。
仏像は数度の火災にはあい、補修されている。
丘の岸辺を飛鳥川が流れている。「日本書紀」によれば第19代 允恭天皇は 415年(允恭4年)、政治の乱れ(氏姓制度の乱)を正そうと、古代の裁判である「盟神探湯(くがたち)」を行われ場所はこのあたりだといわれている。
推古天皇の豊浦宮址に近いこの丘に立つと、真東に飛鳥坐神社の森が見え、手間に飛鳥寺が見える。ここは飛鳥古京の中心地であったのではないだろうか。
By やまと まほろば通信
2021年07月12日
大和の古道と飛鳥【豊浦宮址、藤原宮址】
推古女帝の宮は小墾田(おはりだ)宮、または豊浦宮と呼ばれるが、その宮址の場所は定かではない。飛鳥の豊浦の地、豊浦寺の北方の古池を含む一体とも、また豊浦西北の古宮土壇のあたりともいわれる。推古天皇は蘇我馬子の妹、堅塩媛(きたしひめ)と欽明天皇との間に生まれ、蘇我氏の血をうけている。そこで馬子は政権を独占するために、敏達天皇の皇后であった彼女を即位させた。しかし、天皇と聖徳太子は馬子の意に反し、ひそかに天皇の権威を高めることに努力する。それまで大王と呼ばれていた称号が、天皇と呼ばれるようになるのもこの御代からである。
天武天皇の崩御の後、わが子の草壁皇子を即位させようと計った皇后も、頼みの草壁皇子が死んだため、ついに持統天皇として即位する。持統朝は夫の天武天皇の理念である天皇制の確立を忠実に推し進める。中央集権に似合う壮麗な宮殿を夢見たまま亡くなった夫の意思をついで藤原宮を完成させた。狭い飛鳥の地から出て、平原に恒久的な宮として造ったのであるが、それも奈良遷都までの約16年間で終わった。
By やまと まほろば通信
2021年07月07日
大和の古道と飛鳥【大和の古道】
難波と飛鳥とを結ぶ交通路は、難波の津から大和川を遡り、初瀬川に入り、桜井市金屋の海石榴市で下船し、そこから飛鳥へ行った。
平城京へは大和川から佐保川を遡って行った。これに対して、陸路では、難波宮から上町台地を南下して竹之内街道に入るか、住吉の津から竹之内街道を通り、大和高田市を経て飛鳥に行った。奈良へは暗峠か竜田越えであった。
また、飛鳥と奈良を結ぶ交通路は、古く山の辺の道があったが、新しく三本の道(上つ道、中つ道、下つ道)ができた。岸俊男氏の解説によると、上つ道は京・奈良からの初瀬詣の道である。中つ道は吉野道で、南は飛鳥川を遡って芋峠を越えて吉野に至る。藤原京からの平城遷都は、この中つ道であったようである。下つ道は高野道と呼ばれ、桧隈から巨勢路を経て紀ノ川を下り、さらに和歌山市に出る。北は奈良山を越えて山城を経て、近江・東国と結ぶ道であった。
文化史の上に大きな足跡を残した飛鳥の地を流れる飛鳥川、その源は南渕山と多武峰から発する二流が合流して飛鳥の里を北流する。その飛鳥を中心とする高市郡は、百済からの帰化人が八割以上を占めていた。そしてこの大和の飛鳥も、河内飛鳥からの開拓移民である。
もともと蘇我氏は、高市郡を開拓して進出した。そして百済の帰化人と密接な関係のある蘇我氏は、この新天地に彼らを入植させたのである。しかも蘇我氏が政権を独占してから、この飛鳥に都を作ったのである。
万葉びとが「やまとは くにのまほろば」と讃えたこの大和高原の、朝靄の中に、畝傍・香具・耳成の山が、薄墨をはいたように浮かんでいる。遠き日、ひとりの女性、額田女王を愛して、中大兄皇子(天智)が弟の大海人皇子(天武)と争って詠んだ歌、
「香具山は 畝傍を愛しと 耳成と
相争ひき 神代より かくなるるらし
古も然なれこそ 現身も
嬬を争ふらしき」
朝靄は次第に薄れ、朝の日が大和高原に広がってゆく。
By やまと まほろば通信
2021年04月15日
金峯山寺蓮華会(きんぷせんじれんげえ)
金峯山寺蓮華会(きんぷせんじれんげえ)
蛙とび行事
@吉野郡吉野町吉野山
日時:七月七日
場所:金峯山寺
桜の名所吉野山の金峯山寺では、七月七日に蓮華会が行われる。本堂である蔵王堂本尊に、大和高田市奥田の蓮池で採られた蓮の花を供え、翌八日に大峯山中の各所にも花を献じる行事である。この法会には着ぐるみの蛙が登場するので一般には蛙とびと呼ばれて親しまれている。
七月七日午前、役小角の母が住んだとされる大和高田市奥田で、山伏や信徒たちが見守るなか、船に乗って蓮の蕾が切り取られ、大護摩供が行われてから吉野山に運ばれる。奥田での蓮取りは、史料からは十五世紀半ばまで遡ることができる。その際には「延年」という芸能も演じられていた。同日午後には蛙の乗った布団太鼓に迎えられて、蓮取りの一行は蔵王堂に入り、内陣祭壇に蓮華が供えられる。その後、願文奏上・法華懺法・繞堂・供華・散華とすすめられ、終わると堂外の仮設舞台(もとは堂内)で、蛙が跳びながら大導師(管長)や吉野一山の僧の前で経文の読誦を受け、最後はもとの人間の姿に戻る。
寺伝では延久年間(1069〜1074)に神仏を侮っていた男が、金峯山に登り蔵王権現や仏法を謗る暴言を吐いて、たちまち大鷲にさらわれ、断崖絶壁の上に置き去りにされたのを、金峯山の高僧が蛙の姿に変えて助け、蔵王堂で一山僧侶の読経によって、もとの姿に返したという。蛙とびそのものについては、山伏の「験競べ」とする見方、僧侶が演じた延年芸能とみる見方、蛙を「護法」とみる見方などがある。
By やまと まほろば通信
2021年04月14日
吉野の特産品
吉野葛
秋の七草のひとつである葛の根に蓄えらた澱粉から作られる。江戸時代に広く知られるようになったという。
「大和志」には「その色潔白、味甚佳し、因て名品となす」と讃えられる。一二月から四月に収穫した葛の根を砕き、冷水を注いで攪拌する葛回しを重ね、天日で数日、屋内で一ヶ月以上乾燥させると、真っ白で光沢のある製品ができる。葛の根は、葛根湯という薬品でもあり、薬草園で作られていた。
陀羅尼助
大峯登山者の土産物としてよく知られる陀羅尼助は、役小角がその製法を熟知していて、吉野山・洞川(どろがわ)に伝えたといわれている。陀羅尼助は仏教用語からきており、僧侶が陀羅尼を学ぶ時に往々に睡眠を催すので、その時キハダの樹皮を煎じて飲ますと、強い苦味に目が覚めたというところから、名付けられたという。原料ははぎ取ったキハダの樹皮を日光で乾燥させて、押切にて切り、釜中で煮たものであったという。今日では大峯山系のキハダは少なくなったが、かつては豊富にあったという。腹痛に効果があるが、その他、万病に効くといわれる。
By やまと まほろば通信
2021年03月08日
奈良の花の名所 【 椿 】
椿
「巨勢山の つらつら椿 つらつらに
見つつ偲はな 巨勢の春野を」
と万葉集で椿といえばまずこの歌が思い浮かぶ。
繰り返す言葉のリズムには神霊のこもる木として「古事記」にも登場する。つやつやと光る常緑の葉、藪椿の素朴な赤は古代人にとっては大切なき。その実からは良質の油、樹木の灰汁は染色の際、媒染剤として重用された。巨勢山あたり(御所市古瀬)では今も椿が多い。
奈良には椿の名所があるが、中でも東大寺開山堂に咲く紅色に白い絞りを入れた大輪の「糊こぼし」、白毫寺の1本の木にさまざまな花を咲かせる「五色椿」、伝香寺の1枚ずつ花びらを散らす「散り椿」は大和三名椿として知られている。
東大寺二月堂のお水取りで造られる椿の造花は「糊こぼし」を形作ったもの。「散り椿」は武家が首を落とすと椿をきらう中、花びらを散らすところから「武士(もののふ)椿」とも呼ばれる。
【 花の名所 】
東大寺開山堂(奈良市雑司町) 糊こぼし
白毫寺(奈良市白毫寺町) 五色椿
伝香寺(奈良市小川町) 散り椿
護国神社(奈良市山村町)1000種1万本
椿寿庵(大和郡山市池之内町)1000種6000本
椿山山の辺(桜井市慈恩寺)1000種1万本
By やまと まほろば通信