2021年07月07日
大和の古道と飛鳥【大和の古道】
難波と飛鳥とを結ぶ交通路は、難波の津から大和川を遡り、初瀬川に入り、桜井市金屋の海石榴市で下船し、そこから飛鳥へ行った。
平城京へは大和川から佐保川を遡って行った。これに対して、陸路では、難波宮から上町台地を南下して竹之内街道に入るか、住吉の津から竹之内街道を通り、大和高田市を経て飛鳥に行った。奈良へは暗峠か竜田越えであった。
また、飛鳥と奈良を結ぶ交通路は、古く山の辺の道があったが、新しく三本の道(上つ道、中つ道、下つ道)ができた。岸俊男氏の解説によると、上つ道は京・奈良からの初瀬詣の道である。中つ道は吉野道で、南は飛鳥川を遡って芋峠を越えて吉野に至る。藤原京からの平城遷都は、この中つ道であったようである。下つ道は高野道と呼ばれ、桧隈から巨勢路を経て紀ノ川を下り、さらに和歌山市に出る。北は奈良山を越えて山城を経て、近江・東国と結ぶ道であった。
文化史の上に大きな足跡を残した飛鳥の地を流れる飛鳥川、その源は南渕山と多武峰から発する二流が合流して飛鳥の里を北流する。その飛鳥を中心とする高市郡は、百済からの帰化人が八割以上を占めていた。そしてこの大和の飛鳥も、河内飛鳥からの開拓移民である。
もともと蘇我氏は、高市郡を開拓して進出した。そして百済の帰化人と密接な関係のある蘇我氏は、この新天地に彼らを入植させたのである。しかも蘇我氏が政権を独占してから、この飛鳥に都を作ったのである。
万葉びとが「やまとは くにのまほろば」と讃えたこの大和高原の、朝靄の中に、畝傍・香具・耳成の山が、薄墨をはいたように浮かんでいる。遠き日、ひとりの女性、額田女王を愛して、中大兄皇子(天智)が弟の大海人皇子(天武)と争って詠んだ歌、
「香具山は 畝傍を愛しと 耳成と
相争ひき 神代より かくなるるらし
古も然なれこそ 現身も
嬬を争ふらしき」
朝靄は次第に薄れ、朝の日が大和高原に広がってゆく。
By やまと まほろば通信
-
no image
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/10840151
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。