2021年07月13日
大和の古道と飛鳥【飛鳥大仏 、甘樫の丘】
推古朝13年4月に、日本ではじめて造ることになった仏像を鞍作止利に命じ、翌14年4月に完成した。その仏像は、蘇我氏の寺 元興寺(飛鳥寺)に安置されることになったが、仏像がお堂の入り口より高くて入れることができない。工人たちは戸を壊そうとしたが、鳥仏師が巧みに入れて安置したという。国家的事業で造られた仏像が、蘇我氏の寺に安置されたところに、当時の特殊な事情がある。推古天皇も聖徳太子もともに蘇我氏の血をうけ、蘇我馬子が時の実権を握っていたのである。
後年、中大兄皇子と中臣鎌足がこの寺の蹴鞠の会で近づき、その蘇我氏を討滅する密議を進める。
仏像は数度の火災にはあい、補修されている。
丘の岸辺を飛鳥川が流れている。「日本書紀」によれば第19代 允恭天皇は 415年(允恭4年)、政治の乱れ(氏姓制度の乱)を正そうと、古代の裁判である「盟神探湯(くがたち)」を行われ場所はこのあたりだといわれている。
推古天皇の豊浦宮址に近いこの丘に立つと、真東に飛鳥坐神社の森が見え、手間に飛鳥寺が見える。ここは飛鳥古京の中心地であったのではないだろうか。
By やまと まほろば通信
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