2019年01月13日
奈良通1級 第02回 02
02-II.
奈良県の歴史に関することがらについて、最も適当なものを選びなさい。
(10) 日本各地との交流を示す出土品をはじめ、掘立柱建物跡、導水施設等から、 大和政権成立期の宮跡の可能性が高いとされる三輪山北西の遺跡は次のどれか。
ア.大福遺跡
イ.纏向遺跡
ウ.上之宮遺跡
エ.脇本遺跡
答え
イ
(11) 2005年に5世紀前半の四面庇付き大型掘立柱建物跡が見つかり、区画する濠の斜面に葺石が見られ、 渡り堤も設けられていた、御所市内の遺跡は次のどれか。
ア.六条山遺跡
イ.鴨都波遺跡
ウ.極楽寺ヒビキ遺跡
エ.東中谷遺跡
答え
ウ
極楽寺ヒビキ遺跡
奈良県御所市大字極楽寺にある、5世紀前半(古墳時代中期前半)の豪族居館遺跡。
遺構は、奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査で概ね明らかとなっている。葛城山麓の高台の上に位置し、北と東が谷に面し、南と西には濠と塀が巡らされていた。大型建物跡の床面積は225平方メートルと5世紀代で最大級になる。古代豪族葛城氏の本拠地とされる南郷遺跡群の南部に位置し、その政庁の跡と推測される。
建物や塀はほとんどが焼失しており、葛城氏が雄略天皇の軍勢の攻撃によって滅びたとする『日本書紀』の所伝を裏付けるものとされる。政庁の存続期間は20〜30年とされる。
(12) 発掘の結果、百済大寺と推定されている吉備池廃寺は、およそどのあたりにあるか。
ア.甘樫丘の南方
イ.畝傍山の南西方
ウ.天香久山の北東方
エ.耳成山の北方
答え
ウ
(13) 2007 年に明日香村の 石神遺跡 で確認された 幅約 18 m の古代の道路遺構 は次のどれと推定されているか。
ア.山田道
イ.下ツ道
ウ.横大路
エ.上ツ道
答え
ア
(14) 現在は於美阿志神社境内となっている檜隈寺跡 は、飛鳥時代に活躍したある氏族の氏寺とみられている。 その氏族はどれか。
ア.巨勢氏
イ.鞍作氏
ウ.西文氏
エ.東漢氏
答え
エ
(15) 大掛かりな石垣築造など土木工事を行い、『日本書紀』に「 時の人の謗りて曰はく、狂心の渠。功夫を 損し費やすこと、三万余。 」と書かれているのは誰か。
ア.天智天皇
イ.斉明天皇
ウ.崇峻天皇
エ.蘇我馬子
答え
イ
(16) 天武天皇の死後、謀反の嫌疑を受けて不遇の死を遂げた 大津皇子の実姉 で、 伊勢斎宮 であったのは誰か。
ア.十市皇女
イ.但馬皇女
ウ.大伯皇女
エ.大田皇女
答え
ウ
(17) 奈良時代の天皇は元明天皇にはじまり、桓武天皇で終わる。その間に即位した天皇の順番で正しいのは どれか。
ア.元正-称徳-聖武-孝謙-淳仁-光仁
イ.元正-淳仁-称徳-聖武-孝謙-光仁
ウ.元正-聖武-孝謙-淳仁-称徳-光仁
エ.元正-孝謙-淳仁-称徳-聖武-光仁
答え
ウ
(18) 次の高僧のうち、 銘文のある骨蔵器の断片が出土して、その墓所が判明しているのは誰か。
ア.義淵
イ.行基
ウ.良弁
エ.道昭
答え
イ
(19) 藤原四兄弟の死後、政権を執った 橘諸兄と光明皇后の関係はどれか。
ア.伯父と姪
イ.叔母と甥
ウ.異父姉弟
エ.異父兄妹
答え
エ
(20) 玄ムの首塚との伝えもある頭塔は、土を盛り表面を石で覆い石仏を配した仏塔である。この仏塔は、 東大寺二月堂の修二会を創始した人物 によって造営されたという。この人物とは誰か。
ア.義淵
イ.定慧
ウ.実忠
エ.空海
答え
ウ
(21) 光仁天皇を呪詛したとして廃后となった井上内親王とともに、 宇智(五條市) に幽閉され急死した親王は誰か。
ア.山部親王
イ.他戸親王
ウ.早良親王
エ.安積親王
答え
イ
他戸親王(おさべしんのう)
天平宝字5年(761年)- 宝亀6年4月27日(775年6月3日))は、奈良時代末期の皇族・皇太子。父は光仁天皇(当時は白壁王)、母は井上内親王。聖武天皇の外孫にあたる。
親王の父・白壁王は天智天皇の孫であるが、当時の皇統は天武天皇系に移されて久しく、王自身も皇族の長老ゆえに大納言の高位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は皇位継承を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下、天智天皇の曾孫で聖武天皇(天武天皇の嫡流)の内親王を母に持つ他戸王(当時は親王ではない)が注目されるようになる。
やがて称徳天皇が崩御すると藤原氏は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する。かくして宝亀元年(770年)に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。翌宝亀2年1月23日には他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。
ところが宝亀3年(772年)、突如母親である皇后の井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆のかどで皇后を廃され、5月27日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀4年10月19日には、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)4月27日、幽閉先で母と共に急死する(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。
かくして、山部親王が皇太子に立てられてやがて桓武天皇として即位するものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両朝を悩ませることになっていく。
(22) 興福寺一乗院門跡の覚慶が還俗し、のちに名乗った名はどれか。
ア.足利義昭
イ.足利義視
ウ.一条兼良
エ.大友義鎮
答え
ア
(23)「元の木阿弥」という語は、奈良県である出来事に由来すると一般に伝えられているが、それは次のどれか。
ア.松永久秀が東大寺を焼いた時、金の阿弥陀様だと思って大事に持ち出した像が、一夜明けると木造の阿弥陀様に戻っていた。
イ . 筒井順昭が亡くなった時、それを秘して木阿弥という者を替え玉に仕立てたが、やがて替え玉が不要になり、木阿弥に戻った。
ウ.松永久秀に取り立てられて出世した大工の木阿弥が、信貴山城での久秀の敗死とともにもとの大工に戻った。
エ.豊臣秀長は、郡山城の石垣造りを木阿弥に命じようとしたが気が変わり、他の者に依頼したがうまくいかず、結局は木阿弥に頼むことになった。
答え
イ
(24) 豊臣秀長の死去を受けて 、 郡山城の城主 となったのは誰か。
ア.豊臣秀保
イ.筒井定次
ウ.増田長盛
エ.松平忠明
答え
ア
(25) 郡山藩本多家に起こった郡山騒動が九・六騒動といわれるのはなぜか。
ア.寛文11 年(1671)9 月6 日に
騒動の発端が起こったため。
イ.藩政を動かす家老15 人が9 人対6 人に
分かれて争い、混乱を極めたため。
ウ . 幕府の決済で嫡流政長に 9 万石、
前藩主の実子政利に 6 万石を相続させたため。
エ.家督を争った嫡流政長と、前藩主の実子政利が
ともに年少で、9 歳と6 歳であったため。
答え
ウ
(26) 江戸時代には、大和川水運が盛んであった。亀ノ瀬から下流の 大坂側の船 は、 剣先船 と呼ばれたが、上流 の 大和側の船 は何と呼ばれたのか。
ア.高瀬舟
イ.菱垣船
ウ.北前船
エ.魚梁船
答え
エ
(27) 天誅組 がその旗挙げに 五條代官所 で斬った代官の名はどれか。
ア.藤本鉄石
イ.鈴木源内
ウ.丸田監物
エ.松本奎堂
答え
イ
(28) 幕末、北浦定政が平城宮跡の研究を進め、明治期に奈良県技師関野貞が大極殿跡を学問的に実証、平城 宮跡の本格的な研究が進展した。次のうち、この宮跡の保存顕彰に奔走し、 朱雀門南に銅像 が立てられて いる人物は誰か。
ア.川路聖謨
イ.恒岡直史
ウ.喜田貞吉
エ.棚田嘉十郎
答え
エ
(29) 生駒山の宝山寺に向かうケーブルの開業は、大正7 年(1918) と古い。これは営業用のケーブル(鋼索線) と しては、日本で何番目の開業か。
ア. 1 番目
イ. 4 番目
ウ. 6 番目
エ.10 番目
答え
ア
(30) 明日香村にある キトラ古墳 で、 玄武の壁画 がファイバースコープでモニターに映し出されたのはいつか。
ア.昭和 58 年
イ.平成 2 年
ウ.平成 8 年
エ.平成 14 年
答え
ア
By やまと まほろば通信
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/8463486
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。