2021年07月18日
大和の古道と飛鳥【浄御原宮・橘寺・川原寺】
第38代 天智天皇の死後、672年 壬申の乱によって近江朝廷を倒した大海人皇子(天武)は、都をもとの飛鳥の地に戻し、飛鳥浄御原宮を造って即位した(673年)。その地はまだ確かではないが、高市郡明日香村の大字雷と飛鳥の中間、飛鳥小学校の校庭の東方一帯が宮址らしいと考えられ、そこからは宮址の遺構らしい葺石も出ている。
第40代 天武天皇は、それまでの豪族連合による政治を廃止し、中央集権的な天皇政治を断行し、皇室を中心とした官僚政体に組み変えた。
国史編纂に着手したことも、伊勢神宮の式年遷宮制を宣布して、日の神の直系の子孫である天皇が統治する国であることを明示しようとしたのも、すべて一連の動きである。
そうした中央集権の完成を目指して、それに見合う大宮殿の建設をたびたび試みたが、それだけでは完成せず、浄御原宮で崩じた(686年)。
聖徳太子の父である用明天皇の別邸のあったところで、太子の誕生の地である。推古朝14年に寺として創建された。現在は後世の建物ばかりで、昔の面影を偲ぶよすがもないが、かつては四天王寺式伽藍配置の大寺であったといわれている。わずかに塔心礎や異様な顔をした二面石が残っている。
このあたりは斉明天皇の飛鳥川原宮址と推定され、その跡地に建てられた寺であるといわれている。
以前では、橘寺から見下ろすと、菜の花畑が一面に広がる中に、白い土塀の一角があって、その美しさは格別であった。現在は小さな寺となっているが、その低い門をくぐると、二十六の瑪瑙石の礎石が並んでいる。それは創建当時の中金堂の跡である。
それほど贅を凝らしてつくられた豪華な寺で飛鳥寺よりもすぐれ、川原式伽藍配置をもっていた。奈良時代から弘福寺(ぐふくじ)と呼ばれ、三大寺のひとつであった。門の前の東南に一段と高くなった土壇は、後の塔址で、十五個の礎石が残っている。
By やまと まほろば通信
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