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2021年02月27日
紀伊山地の霊場と参詣道(平成十六年登録)
紀伊山地の霊場と参詣道(平成十六年登録)
日本古来の自然崇拝に基づく神道、大陸から伝わって発展した仏教および神道、仏教、道教が融合した修験道などの霊場(「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」)と、それらを結ぶ参詣道からなる。
「吉野・大峯」は、古代から山岳信仰の場として修験の本山とされ、中国にも名が伝わった地である。
「熊野三山」は、十二世紀以来皇族、貴族の信仰を集め賑わいをみせた神道、修験道の地である。
「高野山」は、九世紀初頭に空海が開創した真言密教の道場で、その仏教伽藍は真言寺院の規範となっている。
奈良県内の構成施設としては、次のとおりである。
金峯山寺蔵王堂
𠮷水神社
吉野山、吉野水分神社、金峯神社、金峯山寺、𠮷水神社、大峯山寺(おおみねさんじ)、大峯奥駈道(玉置神社を含む)、熊野参詣道小辺路(こへち)。
大峯奥駈道は、役行者が八世紀初めに開いたとされる修験者の修行の道である。吉野山から熊野まで山上ケ岳、弥山、八経ケ岳など 2000メートル近い山々の尾根が連なる修験道の根本道場といわれ、紀伊山地の中で最も奥深い山路である。この道では古来より奥駈といわれる修行が行われている。幾日もの間、早朝より深夜まで谷を渡り、崖をよじ登り、歩き続ける修験道の中でも最も厳しい修行として有名である。随所に行場が設けられているほか、「仏経嶽原始林」などの豊かな自然も残されている。
「熊野参詣道 小辺路」は、高野山と熊野三山の二つの聖地を結び、熊野本宮までの最短道の道である。道中は 1000メートルを超える三つの峠があり、つづら折りの急坂が多い道だが、豊かな自然が今も手付かずで残っている。また、峠道なあどにも石畳の道が良好な状態で続いているほか、沿道には小規模な寺院や旅館の遺跡、道標、石仏などがあり、熊野参詣道の中でも、往時を偲ぶにはこの道が最高との評もある。
登録にあたっては、文化的景観を構成する記念物と遺跡は、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示す神道と仏教との比類のない融合の所産であること、神社と寺院はそれらに関連する宗教儀礼とともに、千年以上にわたる日本の宗教文化の発展を示すたぐいまれな証拠であること、日本の多くの地域における神社や寺院の建築に深慮なる影響を与えた独特の形式を生み出す背景となったこと、同時に遺跡と森林景観は、1200年以上の期間にわたって、永続的かつ並外れて良好に記録された信仰の山の伝統を反映していることが評価の基準となった。
その他、和歌山県、三重県にまでわたっている。
玉置神社本社本殿
高野山金剛峰寺山王堂(和歌山)
熊野本宮大社(和歌山)
那智滝(和歌山)
By やまと まほろば通信
2021年02月26日
玉置神社(たまきじんじゃ)
玉置神社(たまきじんじゃ)
吉野郡十津川村玉置川
祭神:国常立尊(くにのとこたちのみこと)(主祭神)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)(主祭神)
伊奘冉尊(いざなみのみこと)(主祭神)
標高 1076mの玉置山に鎮座する旧郷社。創祀は明らかではないが、『玉置山縁起』には熊野本宮と同じく崇神天皇創祀とある。熊野三山の奥の院とされ、一時は別当院高室院を中心に七坊十五ケ寺がこの境内に点在し、社僧数百人を擁し修験道の一大勢力となった。大峯七十五靡(なびき)十番の行場であり、古来十津川郷の総鎮守であった。吉野熊野の山々の彼方に熊野灘を眺める神域には県の天然記念物である樹齢三千年を数える神代杉や常立杉(とこたちすぎ)、磐余杉(いわれすぎ)などがそそり立っている。山頂付近の玉石社は祠がなく、杉木立の中に地上に露出している玉石を神体としている。『玉置山縁起』ではこの山の地主神・山護神で、古来当社の奥の院と呼ばれ、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀るという。本来の創祀はこの神社からとも推測できる。
社務所は元の別当寺高牟婁院(たかむろいん)を改装したもの。上段の間等をもつ書院風の建築で、各居室は杉の一枚板の極彩色の板襖をもって仕切られていて、重要文化財。梵鐘は佐々木高綱(たかつな)の寄進と伝え梵字が刻まれていて、応保三年(1163)の銘がある。
社務所:懸造、桁行22.0m、梁間15.0m、一重、入母屋造、西面軒唐破風付、
東面及び西面突出部附属、地階付、銅板葺
台所 桁行9.0m、梁間8.9m、一重、東面入母屋造、
By やまと まほろば通信
2021年02月23日
金峯神社(きんぷじんじゃ)
金峯神社(きんぷじんじゃ)
吉野郡吉野町吉野山
祭神:金山毘古神(かなやまびこのかみ)
拝殿
吉野山の尾根沿いの奥千本入口付近、この辺りの最高峰で標高850m程の所に鎮座している。吉野山から山上ケ岳に至る一連の山脈を総称して金峯山というが、古来この山は金脈のある山と信じられた。祭神の金山毘古神は「記・紀」に「伊邪那美命が火の神、迦具土神(かぐつちのかみ)を生んだ時、みほとを焼かれて苦悶し、嘔吐物から誕生の神」とある。当社では金鉱護持の地主神として、また生物の枯死を防ぐ神として崇敬されてきた。創祀は明らかではないが、「文徳実録」仁寿二年(852)十一月九日の条に「大和国金峯神に特に従三位を加え、翌三年五月十日明神大社に預る」とある。
義経隠れ塔
「延喜式明神帳」には、吉野郡十座の神社の中に吉野山口神社、吉野水分神社とともに連ね、三社とも大社に列せられて祈年祭をはじめ、月次・新嘗祭には案上官幣に預るとあり、金峯神社はさらに明神大社に列せられて相嘗祭(あいなめのまつり)には優遇されている。また、金峯山は七高山の一つである。高山とはただ単に高い山というだけでなく、俗塵の少ない清浄の地として、さらに神霊が降臨した神聖な山のことで、比良山、比叡山、伊吹山、愛宕山、神峯山(かぶせん)、金峯山、葛木山を近畿の七高山という。
By やまと まほろば通信
2021年02月22日
𠮷水神社(よしみずじんじゃ)(吉水院)
𠮷水神社(よしみずじんじゃ)(吉水院)
吉野郡吉野町吉野山
祭神:後醍醐天皇
吉水院 拝殿
旧村社。当社は元吉水院と称し、白鳳年間に役行者の創立と伝える吉野修験宗の僧房であった。明治のはじめまで修験道の勢力と共に発展してきたが、明治維新の神仏分離の際、神社と改まったものである。もとより当社は南朝の元宮であり、ここに後醍醐天皇を祭神とし当時天皇の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を合祀している。寺院作りで神社というより、明治以前のように吉水院という方がふさわしいのかもしれない。吉野山における廃仏毀釈という太政官布告のもたらした模式例ともいえる。「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月十七日の条に源義経吉野山入山の記事があるが、当院に潜居したと伝えられ、義経潜居の間などがある。文禄三年(1595)三月にや豊富秀吉の花見の本陣となった。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとなっている。「吉」の正確な表記はつちよし(「土」の下に「口」)である。
吉水院 書院
なお、書院は初期書院造の代表的傑作で、重要文化財である。
By やまと まほろば通信
2021年02月21日
吉野神宮(よしのじんぐう)
吉野神宮(よしのじんぐう)
吉野郡吉野町吉野山
祭神:後醍醐天皇
旧官幣大社。明治二十二年(1889)、内務省告示で官幣中社吉野宮創立、同二十五年の御鎮座祭には明治天皇の勅使が参向した。また、後村上天皇の勅命で刻まれ𠮷水神社(吉水院)に祀られていた後醍醐天皇の尊像が、五百五十年を経て吉野神宮の本尊に遷座され、創祀された。明治三十四年には官幣大社に昇格。
吉野神宮 拝殿
吉野神宮 幣殿
吉野神宮 東門
大正七年(1918)に吉野神宮と改称。現在の社殿は昭和七年に造営が完了した。当神宮一円の台地は丈六平と称し、流造の本殿、入母屋造の拝殿、切妻造の神門などが美しく調和し、
「玉骨は たとひ南山の苔に 埋もるとも、
魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ」
と都に思いを寄せた後醍醐天皇の心を偲び、京都に向かって、北向きに建てられている。
By やまと まほろば通信
2021年02月20日
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)
吉野郡吉野町吉野山
祭神:天之水分神(あめのみくまりのかみ)(主祭神)
『延喜式神名帳』には大社に列し、四時祭式には祈年祭に奉幣物へ馬一匹を加えられ、臨時祭式では祈雨祭神八十五座に「吉野水分社一座」として記されている。葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されている。
また、『続日本紀』には文武天二年(698)四月二十九日に雨を祈るため馬を奉ったと記されている。求め水分神社跡と伝えられる場所から拝む山は神体山特有の円錐形の山で、東へ音無川、西に秋野川、南へに丹生川、北へ象川(きさがわ)(喜佐川)と流れる四水流の分水嶺として水分神の鎮座地にふさわしい地形である。
本殿は高い石段の上に建立され中央春日造の主殿に左右流造の三殿が一棟につながる特有の造りで、桃山時代の特色をもつ重要文化財。
彫刻では、木造玉依姫命坐像(建長3年)(1251)鎌倉時代の作がある。像高82.4cm。檜の寄木造、玉眼。女房装束をまとい、頬にはえくぼを表し、口を僅かに開き上歯にはお歯黒を塗る。その高貴な女官姿は、神像というより絵巻物の女性か、実在の人物を彫刻に再現したかと思わせる。日本の神像彫刻には素朴な作風のものが多い中で、本作品は玉眼(眼の部分に水晶を嵌め込む技法)を採用した本格的な彫刻である。像内の銘文により、建長3年(1251年)に宣陽門院が大旦那となって造像されたことがわかる。長く秘蔵されたため、保存状態は非常に良い。本殿の右殿(向かって左)に安置される。神社の神体であるため、一般には公開されず、展覧会等に出品された記録もない。
By やまと まほろば通信
2021年02月19日
金峯山寺(きんぷせんじ)
金峯山寺(きんぷせんじ)
吉野群吉野町吉野山
役行者を開基とする。金峯山(きんぷせん)とは蔵王堂のある吉野山の麓、吉野川六田柳の渡しから大峯山寺のある山上ケ岳の少し南、化粧(けわい)の宿まで続く一連の峰をさす総称で、奈良時代からその名がある。役行者が金峯山を本拠地として修験道に励み、山岳信仰を世に広めたと伝えられるため、当山は修験道の聖地として古くから崇拝された。醍醐寺を開いた当山派修験の祖、理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)(八三二〜九〇九)が金峯山に入って以来、その弟子貞崇(じょうすう)など多くの修験僧が入山。御岳精進への関心が高まり、宇多天皇・藤原道長・頼通の参拝をはじめとする皇室・貴族の御岳詣は白河上皇の世に絶頂を迎えた。永承四年(一〇四九)に興福寺僧円縁が金峯山検校となってからは興福寺に所属し、慶長十九年(一六一四)の徳川家康の命により、天台系の日光輪王寺宮の支配に入った。
明治の神仏分離令により金峯山一山の修験寺院はすべて廃され、金峯山寺の山上蔵王堂(山上ケ岳)は当地の地主神金峯神社の奥の宮、山下蔵王堂(吉野山)は金峯神社の口の宮と定められた。その後、吉野山四ケ院が寺院に復興するにあわせ、明治十九年(1886)には山上・山下の蔵王堂の寺院への復帰が許され、明治二十二年には金峯山寺の寺号も取り戻すにいたった。しかし、復興した金峯山寺は山下蔵王堂が中心とされ、山上蔵王堂は先に復興した四ケ院と洞川の一寺を加えた五ケ寺が護持院となって、大峯山寺本堂として今日に至っている。さらに金峯山寺は昭和二十三年(1948)に天台宗から離れて大峯修験宗を立て、昭和二十七年以後は金峯山修験本宗と改称して総本山となっている。
建築では、天正二十年(1592)頃に再建された蔵王堂、延元三年(1338)頃に建立された仁王門が国宝、北側参道に立つ銅(かね)の鳥居(室町時代)が重要文化財。
彫刻では、釈迦如来・観音菩薩・弥勒菩薩を本池とする蔵王堂本尊の木造金剛蔵王大権現三躯(秘仏)(桃山時代)、もと安禅寺の本尊であった木造金剛蔵王権現立像(鎌倉時代)、鎌倉時代の木造童子立像二躯、実城寺(南朝行宮)の本尊である木造釈迦如来坐像(平安時代)などの重要文化財をはじめとする多くの仏像が祀られている。
寺宝も数多く、平安時代の金銀鍍金双鳥宝相華文経箱、金銅経箱台付二箱、経巻九紙、経軸二本はいずれも国宝。
七月七日に行われる蓮華会が「蛙飛び行事」の通称で広く知られている。金峯山寺は、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
By やまと まほろば通信
2021年02月18日
御霊神社(ごりょうじんじゃ)
御霊神社(ごりょうじんじゃ)
五條市霊安寺町
旧県社。宇智郡(現五條市の一部)に分布する御霊神社の本宮。井上内親王は聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后であったが、『続日本紀』亀宝三年(772)三月癸未と同年十月辛酉の条によると、巫女に天皇を呪詛させたとの罪で皇太子の他戸親王と共に廃され、宇智郡に幽閉、同六年四月二十七日、母子共に死去した。この事件は藤原百川の謀略によるものとの噂が当時の世間に流布された。同七年(776)九月と翌年冬に天災地変がしきりに起こり、皇后や皇太子の怨霊と恐れられたため、霊安寺が創立されて両者の霊を弔った。同時期に当社が創祀された。嘉禎(かてい)四年(1238)、吉原・牧野氏の争論により宇智郡内各地に二十三社分霊を祀った。[御霊本記]
本殿は三間社流造檜皮葺で、寛永十四年(1637)再建の桃山様式江戸初期社殿建築の典型。
御祭神
本殿 : 井上内親王(いかみないしんのう)
聖武天皇の皇女・光仁天皇の皇后・後、廃皇后・宇智群没官の宅に流罪・逝去(母子同日暗殺される)。
南脇社殿 : 他戸親王(おさべしんのう)
井上内親王御子・皇太子・後、廃皇太子・宇智群没官の宅に流罪・逝去
北脇社殿 : 早良親王(さわらしんのう)
他戸親王の異母兄弟・桓武天皇の御弟・皇太子・後に長岡遷都にからみ配流。
別宮 : 火雷神(ほのいかづちのかみ)
井上内親王配流の途中御誕生。雷神になられる。御山町に鎮座。式内社。
By やまと まほろば通信
2021年02月17日
春日神社境内ナギ樹林
春日神社境内ナギ樹林
竹柏、すなわちナギは、春日大社の境内を埋め尽くすように一面に生息しているが、天然記念物指定範囲は、本殿の東側、春日御蓋山(みかさやま)(標高297m)の西斜面のほぼ純林状のナギ林の一部である。ナギはもとからこの地に生息していたものではなく、春日大社創祀にあたって献木されたものが、シカが食べないので、むしろシカがナギを守ったという形になって、どんどん増えて純林状になったと考えられている。
ナギは裸子植物で、常緑針葉高木であるが、葉は楕円形をなし、葉脈は平行に走っている。雌雄異株、花は五〜六月ごろ咲き、種子は球形で径1センチ前後、十月に熟する。耐陰性があり、散布された種子はよく発芽し、シカに食べられることもなく繁殖する。種子は通常、重力散布によるが、結実期が台風期でもあり、時には風に乗って遠方に飛ぶことがあり、立地さへ良ければそこで発芽する。そのもっとも具体的な事例が、春日山原始林内にナギが繁殖していることである。春日大社の境内でも御蓋山の東斜面や、西側の飛火野へ勢力を拡大している。(奈良市春日野町)
By やまと まほろば通信
2021年02月16日
知足院(ちそくいん)ナラノヤエザクラ
知足院(ちそくいん)ナラノヤエザクラ
東大寺の塔頭、知足院の裏山崖上の八重桜がナラノヤエザクラと命名され、天然記念物に指定されている。当時、東京帝国大学教授であった三好学博士が、伊勢大輔が詠んだ古歌、
「いにしえの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に 匂ひぬるかな」
の八重桜を探し求め、大正十一年に、やっと発見された。ナラノヤエザクラは、ほかの八重桜より開花が遅く、四月下旬から五月上旬になる。蕾は濃紅色を帯び、開花すると淡紅色で、むしろ白味が強いが、終わり近くなると花弁に紅色を増してくる。花弁の数は二十〜三十五枚ある。(奈良市雑司町)
しかし、平成二十一年に強風で倒れたため、株から芽吹きを期待しながら観察したが、新たな芽吹きはなく、枯死が確認された。
そのため、昭和六十二年から県森林技術センターが組織培養して育成し、平成十九年に同じ遺伝子であると確認されていた成木が指定地に移植され、平成二十六年四月に「知足院ナラノヤエザクラ」として蘇った。
By やまと まほろば通信