2021年02月19日
金峯山寺(きんぷせんじ)
金峯山寺(きんぷせんじ)
吉野群吉野町吉野山
役行者を開基とする。金峯山(きんぷせん)とは蔵王堂のある吉野山の麓、吉野川六田柳の渡しから大峯山寺のある山上ケ岳の少し南、化粧(けわい)の宿まで続く一連の峰をさす総称で、奈良時代からその名がある。役行者が金峯山を本拠地として修験道に励み、山岳信仰を世に広めたと伝えられるため、当山は修験道の聖地として古くから崇拝された。醍醐寺を開いた当山派修験の祖、理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)(八三二〜九〇九)が金峯山に入って以来、その弟子貞崇(じょうすう)など多くの修験僧が入山。御岳精進への関心が高まり、宇多天皇・藤原道長・頼通の参拝をはじめとする皇室・貴族の御岳詣は白河上皇の世に絶頂を迎えた。永承四年(一〇四九)に興福寺僧円縁が金峯山検校となってからは興福寺に所属し、慶長十九年(一六一四)の徳川家康の命により、天台系の日光輪王寺宮の支配に入った。
明治の神仏分離令により金峯山一山の修験寺院はすべて廃され、金峯山寺の山上蔵王堂(山上ケ岳)は当地の地主神金峯神社の奥の宮、山下蔵王堂(吉野山)は金峯神社の口の宮と定められた。その後、吉野山四ケ院が寺院に復興するにあわせ、明治十九年(1886)には山上・山下の蔵王堂の寺院への復帰が許され、明治二十二年には金峯山寺の寺号も取り戻すにいたった。しかし、復興した金峯山寺は山下蔵王堂が中心とされ、山上蔵王堂は先に復興した四ケ院と洞川の一寺を加えた五ケ寺が護持院となって、大峯山寺本堂として今日に至っている。さらに金峯山寺は昭和二十三年(1948)に天台宗から離れて大峯修験宗を立て、昭和二十七年以後は金峯山修験本宗と改称して総本山となっている。
建築では、天正二十年(1592)頃に再建された蔵王堂、延元三年(1338)頃に建立された仁王門が国宝、北側参道に立つ銅(かね)の鳥居(室町時代)が重要文化財。
彫刻では、釈迦如来・観音菩薩・弥勒菩薩を本池とする蔵王堂本尊の木造金剛蔵王大権現三躯(秘仏)(桃山時代)、もと安禅寺の本尊であった木造金剛蔵王権現立像(鎌倉時代)、鎌倉時代の木造童子立像二躯、実城寺(南朝行宮)の本尊である木造釈迦如来坐像(平安時代)などの重要文化財をはじめとする多くの仏像が祀られている。
寺宝も数多く、平安時代の金銀鍍金双鳥宝相華文経箱、金銅経箱台付二箱、経巻九紙、経軸二本はいずれも国宝。
七月七日に行われる蓮華会が「蛙飛び行事」の通称で広く知られている。金峯山寺は、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
By やまと まほろば通信
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