本来なら、
・高いところから落ちる→高いところから落下して怪我をした被害者当人および周囲の人が傷つく
・車に轢かれる→交通事故被害者当人および周囲の人が傷つく
・手術に失敗して死亡→医療ミスで家族を失った人が傷つく
ことなのに、私たちはこれを見てなぜ笑えるのでしょうか。
映画監督兼俳優のメル・ブルックス氏は以下のように述べているそうです。
悲劇とは自分が指を切った時だ。喜劇とはきみが下水溝に落ちて死んだ時だ
コメディなどを見ていると、この言葉は「確かに」と思ってしまいます。
そもそも、人間は笑いについて2つの密接する関係を状況に応じて使い分ける事ができるのだそうです。
一つ目は、自分の行為を笑う時です。
これは例え攻撃しているように見えても、意図はあくまでも遊びであるということを相手に伝えるシグナルです。
子供が誰かを叩いた場合、「これは遊びだよ」と相手に伝えるための笑い、大人が誰かをからかう時の笑いです。
二つ目は誰かの行動への反応として笑う時です。
誰かの行動への反応として笑う時、これは意図ではなく認識を伝えていることになります。
「あなたの言動は遊びだと分かっている。たんなる冗談だと分かっているよ。それって笑える話だよね。」と伝えるための笑いなわけです。
ジョークなどのユーモア、くすぐられる、追いかけられるなども同じ機能を果たしています。
どちらも笑いは「本気や危険に見えるかもしれないけど、それでも遊びの気分だ」と相手を安心させる機能として用いられています。
そして、この「けれども」の部分が重要なのです。
私たちは遊んでいる時やコントを見ている時にずっと笑っているわけではありません。
笑いがないと本気あるいは危険すぎると誤解されないような状況にあるときだけ「遊びだよ」を強調する必要があるのです。
そう考えると、笑いをとるにあたって危ない要素が重要である理由が分かりやすいのです。
※私もこの話を知ってから、「自分はどのようなタイミングで笑っているのか」を注意するようになったのですが、確かに不謹慎な事で笑っていることが多いです。「チーフインパクトオフィサー」とか。
そして、笑いの危険は、すべての人が同じ規範を同じ程度で共有しているわけではない、ということにあるのです。
ある人にとっての聖域が、別の人にとっては笑いの対象にすぎないということもあるのです。
ふたりの人間が同じ理由で同じジョークを笑うと親しくなれます。
しかし、相手が神聖視しているものを笑えば、対立が生まれます。
また、ある人に対する行為で、それが笑えるか笑えないかを分けるのは心理的に自分からどれだけ距離があるかで変わってきます。
心理的に自分から遠いほど感情移入が薄く、その人の苦痛を笑えることが多いのです。
からかいがいきすぎたり、苦痛を相殺するに足りるやさしさと暖かさがないと、意地悪になってしまう事があります。
そして親密さのかけらもないとき、それは虐待になるのです。
今回、障害者を虐待した過去のために小山田氏はオリンピック・パラリンピックの音楽担当を辞任し、
ホロコーストをやゆしたコントを作成していたために小林賢太郎氏は五輪開会式演出担当を解任されました。
二人とも、このような言動をした動機は周囲の人を楽しませるための「笑い」だったのかもしれません。
しかし、米国の有力ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」のエイブラハム・クーパー副代表も言っている通り、
「人間の尊厳に関しては基本的な規範がある。苦しみ続ける人たちが『冗談』の標的になってはならない」
と私も思います。
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