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記事
近藤勇墓所(三鷹市)龍源寺 [2024/08/23 21:15]
<近藤勇胸像>こんどういさみ
三鷹市の龍源寺の門前で撮影しました。龍源寺は近藤勇の生家宮川家の菩提寺です。新選組局長・近藤勇(幼名宮川勝五郎)は、ここから徒歩数分のところで生まれました。生まれた家も龍源寺も、古くからある街道に面しています。
<龍源寺門前>りゅうげんじ
山門の左手には六地蔵、奥に冒頭の近藤勇像、縦長の石碑(石柱?)には「史跡近藤勇墓所碑」と記されています。
<天然理心流の碑と庚申塔>
「近藤勇と天然理心流の碑」と庚申塔などが並べら..
新選組局長ゆかりの地(調布市)近藤勇生家跡と近藤神社 [2024/08/23 20:20]
新選組局長・近藤勇の生家跡を訪ねました。
<近藤勇生家跡>
こちらです。現地は調布市と三鷹市の市境付近。標柱と説明板の以外は、勇の産湯に使ったとされる井戸が残っているだけです。
<産湯井戸>
近藤勇はこの地で暮らす百姓・宮川家の三男として生まれ、のちに近藤家の養子となりました。
<説明板>
調布市教育委員会さんによる分かり安い説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます(『』内は原文:改行省略)。
『この地は新選組局長近藤勇の生家跡..
将軍塚と久米川古戦場跡(東村山市)戦いの口火を切った新田義貞の足跡 [2024/02/10 22:12]
つわものどもが夢の跡
新田義貞率いる軍勢が鎌倉幕府軍と激突した古戦場を訪問しました。
<久米川古戦場碑>くめがわ
■新田義貞の挙兵■
1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞は、鎌倉幕府を倒すべく上野国で挙兵しました。当初は少人数だったものの、鎌倉に向けて南下するほど人数は増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。各地の武士の心は、既に幕府から離れていた証拠ですね。打倒幕府の口火を切ったのが新田義貞でした。
■現..
徳蔵寺塁(東村山市) [2024/02/10 21:48]
東村山市の久米川古戦場跡を訪問した際、すぐ近くに砦跡と関係がありそうな場所があることを知り、足を伸ばしてみました。
<徳蔵寺山門>とくぞうじ
こちらです。住宅地に毅然と佇む山門
事前に調べることもなく、地図に記されていた徳蔵寺塁跡という文字だけが頼りの訪問です。素人の勝手な想像として、塁とつく以上は何らかの痕跡が残されているであろうと…
<高低差>
結論を言うと、徳蔵寺さんの境内及び周辺を探索しましたが、多少の高低差を実感できるのみでした。
..
勝陣場橋(東村山市)古戦場に架かる橋 [2024/02/10 21:35]
<勝陣場橋>かつじんばばし
東村山市と所沢市の境を流れる北川に架かる橋です。戦に勝利した軍勢が通ったと伝わる橋です
ここは久米川古戦場跡のすぐ近く。鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞の軍勢が、これを阻止せんとする幕府軍と激突した場所です。結果は新田軍の勝利。橋の名は新田義貞にちなんだ呼び名ということになりますね。
<久米川古戦場碑>
この日の目的地です。古戦場碑と説明板が設置されています。古戦場そのものはこの周辺一帯であるといわていますので、先ほ..
いざ鎌倉への道(東村山市)鎌倉古街道跡 [2024/02/03 21:30]
所沢市の古戦場へ向かう途中で、こんな標柱に足が止まりました。
<標柱>
何となく嬉しい標柱でした。この日は、上州から鎌倉街道を南下して鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞を意識しての訪問だったので。
<古道>
東村山駅付近(南側)から府中街道を北上すると、こんな光景が目に入ります。この付近までは右側の道路(府中街道)が鎌倉街道ということになりますが、ここから先は左手の細い道になります。先ほどの標柱もここを入ってすぐのところで撮影しました。
関東統治のため、..
島田屋敷のなごり(多摩市)棚原の館跡 [2023/02/05 21:30]
つわものどもが夢の跡
多摩丘陵に築かれた中世の館跡を訪ねました
現地に「棚原の館跡」というタイトルのプレート説明板が設置されています。情報が少ないので、貴重な説明文です。冒頭を以下に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。
『ここから左側(東側)に見える操車場付近にはかつて小高い丘がありました。江戸時代の地誌には戦国時代に八王子城で討ち死にした島崎次郎某の館跡があって鎮守の森や馬場跡もあったと記されています。島田氏の先祖は鹿島神社や香取神社に近い常陸国..
武士の屋敷跡と思われる場所(多摩市)中島源右衛門某の屋敷 [2023/02/05 21:20]
多摩市を訪問したついでに、中世の武士の館跡があるという場所に足を運んでみました。
しかし
ずいぶん凄い要塞だな…
高台の斜面に建つ要塞のような建物
レンガ?西洋の古城?
なんだか分からないまま正面に回ると
多摩市総合福祉センター
実は事前に調べて訪問した訳ではなく、現地で見たグーグルマップに「中島屋敷」と表示されていたので、駄目で元元と思いながら歩いてきただけなのです。遺構は期待しませんでしたが、あわよくば小さな石碑とか、説明..
分倍河原古戦場(府中市) [2022/05/29 21:55]
つわものどもが夢の跡
打倒鎌倉幕府のために挙兵した新田義貞が、幕府勢と激突した古戦場を訪問しました。
<分倍河原古戦場碑>ぶばいがわら
新田義貞率いる軍勢と北条泰家率いる軍勢がこの地で激突しました。
■新田義貞の挙兵■
幕府の御家人であり、源氏の血をひく新田家8代目棟梁の新田義貞が、鎌倉幕府討伐のために挙兵したのが1333年(元弘3年)。上野国を出た時は150騎程度だった言われる軍は、南下するほど増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われて..
分梅の地名碑(府中市)分倍・分陪・分配・分梅 [2022/05/28 22:45]
府中市の分倍河原駅は以前から知っていましたが、分梅という地名があることを初めて知りました。
<分梅碑>
府中市分梅町に設置されている地名碑です。遠くからでも目立つかなり立派なものです
<説明文>
分梅に関する長い説明文が刻まれています。以下に転記しますが、一部読み取れなかった点はご容赦下さい。
『分梅(ぶばい)は現在の分梅町・・・の一部(鎌倉街道=分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、「新・・・風土記稿」(幕末の..
新田義貞の軍勢が通った坂道(府中市)旧鎌倉街道の光明院坂 [2022/05/26 21:20]
府中市の古戦場を訪問した際に、こんな坂道と出会いました。
<光明院坂>こうみょういんざか
ごく普通の坂道です。しかし現地に設置されている標識に足が止まりました。
<光明院坂標識>
なにか書いてあるな
小さいながらしっかりとした標識です。これが無ければ、素通りしていたと思います。以下に抜粋させて頂きます。
『この坂道は,普通分梅道あるいは鎌倉街道と呼ばれる古街道です。
沿道には浅間神社,八雲神社,光明院といった由緒ある古社寺が点在してい..
分倍河原駅前の新田義貞像(府中市) [2022/05/22 22:40]
古戦場を訪ねるべく分倍河原駅で下車しました
<新田義貞公之像>
駅前ロータリー設置された新田義貞公像
勇ましい姿ですね。この像は『新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。』とのこと。
『』内はこちらに記されている府中市による説明文をそのまま抜粋させて頂きました。
分倍河原での合戦についても詳しく記されていますので、抜粋しながらご紹介させて頂きます。
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