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小田原市にある新田義貞の首塚 [2023/05/10 21:35]
小田原市にある新田義貞の首塚を訪ねました。 <新田義貞首塚> こちらになります。 <首塚の碑> お隣の石碑は比較的新しいですね。立派です それにしても 新田義貞と言えば本拠は群馬、討ち死にしたのは北陸です。なんで小田原に? <首塚跡入口付近> 設置されている説明板によれば、足利尊氏に敗れた新田義貞の首級を、家臣が故郷の上州へ持ち帰ろうとしたものの、この地で身動きがとれなくなり、やむなく埋葬したということになります。 ちょっと私..
暗渠と城跡34 渋取川と蓮上院土塁(小田原市) [2023/04/30 22:25]
小田原城総構の東側の堀跡と土塁跡の話です。 <蓮上院土塁>れんじょういん すっかり市街地化された小田原市内に残る土塁跡です。豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)の際に小田原北条氏が築いた総構の一部で、近くの寺院の名から蓮上院土塁と呼ばれています。小田原城の痕跡は丘陵地帯に数多く残されていますが、街の開発が進む平野部に残された土塁はとても貴重です。 <土塁の窪み> 土塁が凹んでいる場所があります。土塁に何らかの建物を築いた跡かと思いきや、現地説明板によれば..
総構のなごり(小田原市)渋取川 [2023/04/30 22:05]
城下町を堀や土塁で取り囲んだ小田原城の総構。今回はそのなごりをいまに留める川の話です。 <渋取川>しぶとりがわ どこにでもありそうな水路ですが、この水の流れの背景には、かつて小田原北条氏が築いた総構と深く関係しています。 <説明板> 川沿いに説明が設置されていましたので、冒頭を以下に転記させて頂きます。『』内は原文のままです。 『戦国時代・小田原北条氏が本拠として小田原城は東西約2.9q、南北9qの規模を誇る戦国時代最大級の城郭です。その一番外側..
東海道の見附跡(小田原市)江戸口見附のなごり [2023/04/29 22:20]
<江戸口見附跡> ここは東海道に設けられた見附の跡です <東海道> いうまでもなく、東海道は江戸の日本橋から京の三条大橋に至る街道。ここは江戸から数えて9番目の宿場、そして城下町としては最初の宿場となる小田原です。 <おだわら まちしるべ> 標柱の側面に『山王口』というタイトルで説明が記されています。これによれば『山王口は「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口であるとされています。また、ここは東海道小田原宿の入口でもあり、江戸..
井伊直政が攻め入った山王曲輪の比定地(小田原市) [2023/04/29 21:30]
豊臣秀吉による小田原征伐といえば、総勢20万人を超える豊臣軍が関東へ攻め入ったことで知られていますね。関東近辺に点在する小田原城の支城では、壮絶な戦いが繰り広げられました。ただ、本城での戦いは籠城戦となり、念入りな総構えの周囲を攻め手の大軍が包囲したままの状態が100日以上続きました。 そんななか、攻め手として唯一小田原城の一角に攻め込んだのが、徳川軍の井伊直政でした。具体的には、総構えの東に位置する出丸的な曲輪に攻め入ったようです。もともと、井伊直政は徳川軍の中で最も..
布陣した家康が日々参詣した神社(小田原市)山王神社 [2023/04/23 22:20]
北条征伐のために小田原城の東側に布陣した徳川家康が、足しげく通ったと伝わる神社を訪ねました。 <山王神社> 小田原市の山王神社です <御由緒> 詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。 『明応四年(一四九五)二月北條早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模国を平定した。 その頃の山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称へ、海辺なる袖の池ノ南袖ヶ藪にありしが暴浪のため、その地崩壊せしかば、慶長十八年(一六一三)九月..
徳川家康陣地跡の碑(小田原市) [2023/04/22 21:31]
徳川家康が小田原城を攻める秀吉軍として布陣した場所を訪ねました。 <徳川家康陣地跡> こちらです。 <説明板> 小田原市教育委員会さんによる説明板が設置されています。せっかくですので、一部を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。 まず冒頭 『この記念碑は、天正十八年(一五九〇)の小田原戦役の際、徳川家康が陣を張った跡に建設されたものです。 碑文は、小田原城主大久保忠真の作で、藩士岡田左太夫光雄に書かせ、天保七年(一八三六)九..
陣場という名のバス停(小田原市) [2023/04/22 21:05]
小田原市でこんなバス亭と出会いました。 陣場か… この付近は徳川家康が陣を張ったと伝わる場所です。家康の小田原出陣といえば、これはもう豊臣秀吉に従って小田原城を攻めた時の話ですね。家康の本陣はもう少し北側(北西)のようですが、徳川軍は約3万もの大軍でしたので、この付近全体に布陣していたのでしょう。 それがそのまま呼び名となっているわけか 陣場とか陣屋といった地名は日本各地にみられます。ただ、まさに徳川家康の陣場跡へ向かって歩いている最中だったので、..
小田原北条氏のなごり(八幡山古郭跡)小田原高校の散策路 [2023/04/16 21:15]
<八幡山古郭散策路>はちまんやまこかく こちらは県立小田原高校に設けられた散策路です。この付近は北条氏時代の小田原城の中心地です。学校の敷地内で見つかった史跡を説明板を設けて公開してくれています。 <散策路> 高校の敷地に入って良いのか?事前の手続きは必要ないのか?現地に着くまではちょっと不安でしたが、しっかりと柵で仕切られていますので、その外側は一般人も自由に散策して良いようです。 <小田原高校と遺構> ただ、高校のグラウンドに隣接する敷地です..
大久保神社(小田原市)大久保忠世を祀る城山の神社 [2023/04/09 21:25]
徳川十六神将のひとりに数えられる大久保忠世を祀る神社を訪ねました。 <大久保神社> <石段と入口> <鳥居> <狛犬> <拝殿> 長きに渡って家康に忠節を尽くし小田原城主となった大久保忠世、小田原藩中興の名君となった大久保忠真が祀られています ■大久保忠世■おおくぼただよ 大久保忠世は徳川家康に古くから仕えていた三河国武士です(1532年生)。弟忠佐とともに数々の戦で武功をあげ、家康の天下取りに貢献しました。..
小田原城二の丸隅櫓のなごり [2023/04/01 22:58]
<二の丸隅櫓>すみやぐら この建物は小田原城の二の丸の南東隅に建つ櫓です。 <説明板> こちらに詳細が記されていますので、一部を紹介させて頂きます(『』内は原文の転記)。 『江戸時代、小田原城には5棟の二重櫓と1棟の平櫓がありました。この櫓は、関東大震災(大正12年:1923)後に再建された平櫓で、二の丸隅櫓とも呼ばれています。 延宝元年(1673)もしくはその翌年に2間×6間(約3.6m×11m)の土蔵としてはじめて建設されました。しかし、元禄16..
作延城のなごり (川崎市) [2023/02/05 22:15]
つわものどもが夢の跡 城跡が霊園となっている川崎市高津区の丘を訪問しました。 <作延城>さくのべじょう 石碑には作延城址と刻まれています。 ■現地訪問■ <津田山駅前の地図> 現地はJR南武線の津田山駅から徒歩で15分程度です。 といっても、坂を登りながらの訪問になります。石材店が軒を連ねる道をすすむと、霊園入口が見えてきます。 <緑ヶ丘霊園> ここですね。霊園の入口。よそ者で事情がわからないため、入って良いのか?迷いました ..
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