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加瀬城のなごり(川崎市)太田道灌の夢の跡 [2023/01/29 22:10]
<加瀬城跡>かせじょう 川崎市の太田道灌ゆかりの城跡を訪ねました。 ■ 現地訪問 ■ <川崎市> 現地は川崎市幸区南加瀬。比較的平坦な場所に、ひときわ目立つ丘があります。 <加瀬山> これは加瀬山(夢見ヶ崎)の案内板ではなく、急傾斜地崩壊に対する注意喚起のためのものですが、山の形が分かり安いですね。この山がそのまま城跡ということになります。多摩川と鶴見川に挟まれた平地に位置する細長い独立峰。山城の要件を満たしています。ちなみに、長さは約750m..
丸子城のなごり (川崎市) [2023/01/29 21:40]
つわものどもが夢の跡 石神井城を居城としていた武蔵国の名族・豊島氏が、太田道灌に敗れ、小机城へ逃れる途上で陣を敷いたと伝わる場所を訪ねました。 <丸子城跡>まるこ 場所は川崎市中原区の多摩川沿いの神社 <日枝神社>ひえ この付近一帯が丸子城跡と推定されています <境内> 私の訪問は1月上旬。三が日は過ぎていましたが、まだまだ訪れる人も多く、遠くから撮影しました。 1476年に勃発した長尾景春の乱において、景春に味方する豊島氏は、..
消えた三の丸堀跡と土塁跡(小田原城)暗渠と城跡30 [2023/01/28 22:40]
今回は小田原城の北側の堀跡と土塁跡の話です。 <土塁跡> 市街地化された場所に堂々と残る土塁。小田原城三の丸の土塁跡です。現地は細長い公園のようになっています。 <説明板> 通りに面したところにこの説明板が設置されてなければ、素通りしてしまったかもしれません。奥の土塁より、武田信玄・上杉謙信の顔が目に入ったというのが正直なところです。小田原城主北条氏康は、一番最後に気付きました。主役なのに失礼しました。 説明文の前半を以下に転記させて頂きます。 『この..
近世小田原城のなごり [2023/01/21 23:55]
つわものどもが夢の跡 江戸時代を通して譜代大名の居城だった小田原城跡を訪ねました。 <小田原城天守> 小田原城と言えば、まず戦国大名・北条氏を思い浮かべますよね。しかし北条五代よりも長い江戸時代の歴史がこの城には刻まれています。 ■近世城郭小田原城■ 北条早雲の関東進出以降、小田原城は北条氏の関東支配のための拠点として機能し、戦国時代末期には日本で最大級の中世城郭にまで発展しました。しかし豊臣秀吉の北条征伐により小田原城は開城。以降は関東に入った徳川..
関東で唯一明治を迎えた天守のなごり(小田原城の復興天守) [2023/01/21 23:10]
<復興天守> この天守は市制20周年記念事業として建設された鉄筋コンクリート造りの天守です。忠実な復元ではありませんが、かつてあった天守の外観を真似て建設し、内部は歴史資料の展示施設となっています。 関東においては、江戸城を除いて天守があった城は沼田城と小田原城だけです。沼田城はのちにお家の不祥事で城が破却されてしまい、江戸城の天守は明暦の大火で焼失したあと再建されることはありませんでした。関東で明治を迎えた天守は、小田原城だけなのです。 <天守と付櫓>つけ..
小田原城の北の要衝(蓮池・弁財天曲輪)謙信や信玄が攻め寄せた場所 [2023/01/21 22:55]
小田原城址公園には、かつての城を偲ばせる建物や遺構がたくさんありますが、もともとはもっと広大な城だったので、その外側にも城のなごりが漂っています。 <石碑> 城址公園の北側に建つ石柱です。既にかつての小田原城に足を踏み入れていることを実感します。この付近には、二の丸堀の外側に位置する曲輪がありました。 <弁財天曲輪説明板> こちらは弁財天曲輪跡の説明板です。内容を以下に紹介させて頂きます(『』内は原文のまま転記)。 『江戸時代、この場所は三の丸から二..
二の丸東堀のなごり(小田原城) [2023/01/21 21:35]
小田原城の中心部を守る水堀の話です。 <二の丸隅櫓> 二の丸東堀と隅櫓です。ここは桜の名所ですが、訪問が真冬のためこんな画像となり恐縮です。 <二の丸東堀説明板> 通り沿いに小田原城総合管理事務所さんの説明板が設置してあります。二の丸東堀と関係するところを転記させて頂くと『小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、..
馬屋曲輪と馬出門(小田原城) [2023/01/14 23:15]
今回は小田原城二の丸の更に外側の馬屋曲輪、そして枡形の馬出門の話です。 <馬屋曲輪>うまやくるわ 奥の建物の向こう側は二の丸。手前が馬屋曲輪です <馬屋曲輪説明板> 冒頭『馬屋曲輪はL字型を呈する独立した曲輪である。』と記されています。 <説明板拡大> 確かにL字型の曲輪ですね。周囲には石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、上へ登る階段や櫓が設けられていました。説明文をそのまま引用させて頂くと『この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は..
切石敷井戸跡(小田原城馬屋曲輪)大陸より伝えられた六角井戸 [2023/01/14 22:55]
小田原城の馬屋曲輪跡にて、円形に石が敷いてあるのを見かけたので覗いてみました。 <切石敷井戸跡>きりいししきいど 井戸の跡か? 説明文によれば 『表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は大陸より伝えられた特別な井戸と言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。』 とのこと。 <説明板写真> 確かに内側は円形ではないようです 日本で井戸と言えば円形、あるいは四角形が多いですよね。外側の円形は良い..
重厚な仕切門と櫓門(小田原城)枡形虎口の銅門 [2023/01/07 23:40]
<銅門>あかがねもん 威風堂々の渡櫓門 今回は近世城郭となった小田原城二の丸の表門の話です。 <住吉堀と二の丸虎口> ここは二の丸入口です。手前側は馬屋曲輪で、堀に架かる橋を渡って門をくぐると、壁で囲まれた区画、そして次の門が待っています。いわゆる枡形門ですね。ここが江戸時代に二の丸だったことは明らかですが、北条氏の居城だった戦国時代にも、何らかの役割を担った区画と推定されています。 <住吉橋>すみよしばし 住吉堀を渡る住吉橋です。ご覧の通..
銅門の礎石(小田原城)城が朽ちても残る土台石 [2023/01/07 23:10]
今回は小田原城址公園に展示されている石の話です。 <銅門礎石>あかがねもん そせき 加工が施された巨大な石と説明板。「伝 銅門礎石」と題した小田原市による説明文を以下に転記させて頂きます 『この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。  使用状況は、復元した銅門をご覧いただくと解りますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。  箱根外輪山の安山岩製で、と..
むかしの技法で復元した城壁(小田原城)銅門の土塀模型 [2023/01/03 21:30]
今回は小田原城の城壁の話です。 <銅門 土塀模型>あかがねもん 構造が分かり安い! 竹で造った柵に何層にも土や漆喰を塗り重ねて造る。素人なので、だいたいそんなイメージで受け止めましたが、文字が記されているので、もうちょっとしっかり確認したいと思います。 <構造> 荒壁・斑直し・大直し・中塗り・砂漆喰 荒壁は下地に細い竹を組んで造る土壁のことですね。で、斑直し?これは調べましたが、説明が長くなるのと、まったくと言っていいほど実感が湧かないので..

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