<石碑>
城址公園の北側に建つ石柱です。既にかつての小田原城に足を踏み入れていることを実感します。この付近には、二の丸堀の外側に位置する曲輪がありました。
<弁財天曲輪説明板>
こちらは弁財天曲輪跡の説明板です。内容を以下に紹介させて頂きます(『』内は原文のまま転記)。
『江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。
戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える弓や鉄砲玉も出土しています。』
文中の蓮池はかつてあった天然の池です。
<蓮池跡>
こちらは蓮池の説明板です。『小田原城の北を守る蓮池』と題して説明がなされています。池といっても大きな池で、そこに浮かぶ小島に弁財天が祀られていたことが、弁財天曲輪の名の由来ということですね。
<説明板拡大>
説明板の図面を拡大させて頂きました。ちょっと読みにくい字ですが、現在位置の上に「弁財天」と記されています。文久図ということで、これは江戸時代末期の様子ということになります。
弁財天曲輪、そして蓮池という天然堀も、小田原城の北側で重要な役割を担っていました。弁財天曲輪跡の説明板にもある通り、戦国時代に上杉謙信や武田信玄が攻め寄せた時には、この付近が激戦地となったようです。北条氏が居城としていた頃の小田原城は、ここから少し離れた八幡山を中核とする城でしたが、範囲はこの付近の平野部にまで広がっていたのでしょう。近世城郭として再生された小田原城に八幡山は含まれませんが、かつて激戦地となったこの場所は城に取り込まれ、江戸時代を通して明治の廃城まで役割を果たしました。素通りしてしまいそうな区画ですが、設置されている説明板のおかげで足を止めることができました。
■訪問:小田原城弁財天曲輪跡
[神奈川県小田原市城内]2
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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