川崎市の太田道灌ゆかりの城跡を訪ねました。
■ 現地訪問 ■
<川崎市>
現地は川崎市幸区南加瀬。比較的平坦な場所に、ひときわ目立つ丘があります。
<加瀬山>
これは加瀬山(夢見ヶ崎)の案内板ではなく、急傾斜地崩壊に対する注意喚起のためのものですが、山の形が分かり安いですね。この山がそのまま城跡ということになります。多摩川と鶴見川に挟まれた平地に位置する細長い独立峰。山城の要件を満たしています。ちなみに、長さは約750mで幅は約150mとのこと。
<加瀬山入口>
山は夢見ヶ崎動物公園として利用され、市民の憩いの場所となっています。古くからの寺社も複数あり、いかにも歴史を刻んできた山という印象です。
<階段>
ここで元気な小学生に追い越される。若者ならともかく少年に
<慰霊塔>
階段を登り切ると巨大な塔が現れます。第二次世界大戦の戦没者の魂を慰めるための塔です。
そして
<太田道灌ゆかりの地>
太田道灌の姿。背景の盛り土は物見台の跡?ではなく古墳です。
<古墳>
ここに限らず、加瀬山一帯が古墳群になっています。
この山に城が築かれたのは鎌倉時代半ばとされています。築城者は加瀬左近資親。加瀬氏は山城国から移り住み、大倉村という名前だった地域を加瀬と名付けたという説があるそうです。その後の加瀬氏については情報が少なく、加瀬城も含めて詳細は不明です。
そして時を経た室町時代の後期、太田道灌が江戸城と、主君・扇谷上杉定正の館との中継拠点とすべく築城を検討しました。しかし実際に宿営してみると、不吉な夢を見るに至り、築城を断念したという伝説があります。これが夢見ヶ崎という地名の由来です。
道灌が見た夢とは、白い鷲が現れて、道灌の兜を持ち去ってしまうというものでした。不吉を予感した道灌は、築城を諦めるだけでなく、自らの兜を丘の南西に埋めたとされています。
念には念を入れたわけですね。
築城の名手とされる太田道灌が、夢とか、そんな感覚的なことで判断するのか?というと、これは極めて大切なことでした。むかしの築城で大切なのは、まず場所選びと縄張りですが、縁起もとても重要視されたのです。ですから、あまり不自然さはありません。
<見晴らし>
むかしは東京湾まで一望できたそうです。もともと城があったのですから、道灌は古い城を改修して利用しようとしたわけですね。
ところで
関東では人気の太田道灌ではありますが、悪い夢が地名の由来というのは、ちょっと違和感が残りますね。それを補うわけではないのですが、もうひとつの言い伝えもあります。
一旦は加瀬山を諦めた道灌だが、もう一度現地を訪れた。そしてその夜、今度は縁起の良い鶴を東北の空に見た。これが江戸城築城の決め手となった。
なるほど。この場合は、道灌が江戸城を築城する前の話となってしまいますが、道灌はこの地で、吉となる夢もみたと伝わることだけ共有させて頂きます。
ということで
道灌の伝説が残る加瀬城跡のご紹介でした。
太田道灌の夢の跡
■訪問:加瀬城
(夢見ヶ崎/ 加瀬山)
[神奈川県川崎市幸区北加瀬]
■参考
・Wikipedia:2023/1/21
・川崎市幸区HP
(日吉地区の郷土>加瀬山)
https://www.city.kawasaki.jp/saiwai/page/0000024586.html
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