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記事
軍師たちの学び舎 足利学校 [2018/01/19 21:48]
つわものどもが夢の跡 今回は栃木県足利市の「足利学校」です。 ■日本最古の学校■ あのフランシスコ・ザビエルによって、世界に紹介された日本最古の学校です。まぁとにかく古い歴史の学校。特に中世においては、日本の最高学府と言えます。 <足利学校> 一時期衰退していましたが、関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)の尽力により再興。憲実は鎌倉の円覚寺から僧を招いて初代庠主(しょうしゅ)、つまり校長先生のような立場としました。この時に憲実が寄贈した書籍は現在国..
栃木城のなごり [2017/12/15 22:07]
つわものどもが夢の跡 戦国の北関東で強かに生き残った皆川氏の城跡を訪ねました。 <栃木城跡> 栃木市の栃木城跡です。現在は土塁と堀の一部、曲輪跡が僅かに残るのみ。かつてこの地を治めた皆川広照(みながわひろてる)の居城跡です。 ■ 当主の次男 ■ 皆川広照は皆川城主・皆川俊宗の次男として生まれました。家督は一旦兄(広勝)が継いだものの、29歳という若さで亡くなってしまい、家を継ぐことに。皆川氏は名門ながらも小大名。周辺の小大名と同様、上杉・北条といった大き..
暗渠と城跡13 栃木城跡の濠暗渠 [2017/12/13 22:45]
栃木市の城跡を訪問しました。 <栃木城跡> [栃木県栃木市城内町] さて、のんびりと「城のなごり」を楽しもうとした瞬間、自分の足元を見て動きが止まりました。 <濠が途切れるところ> 道路の舗装とは一線を画すこのコンクリ。もしや・・・ <暗渠の入り口> ああ・・・やっぱり 暗渠(あんきょ)。地下に埋設された川や水路のことですね。城の濠跡がそのまま水路として活用される例は多々ありますが、もしやその流れ?更に暗渠となった?う〜ん・・・..
鷲城のなごり (小山氏城跡) [2017/12/03 22:09]
つわものどもが夢の跡 栃木県小山市の中久喜城に続き、鷲城を訪問しました。 ■ 鷲 城 ■わしじょう 小山市に残る中世の城跡です。小山氏の居城として知られる祇園城、その支城の中久喜城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。憩いの場として市民で賑わう「小山総合公園」のすぐそば。隣接する山林が城跡だと思っている人はあまりいないようです。 ■ 探索開始 ■ <虎口>こぐち ただの林ではありません。中世の土の城跡です。 <目印> 『..
中久喜城のなごり(小山氏城跡) [2017/11/29 22:14]
つわものどもが夢の跡 廃城巡りを始めた頃の基本に戻って「中世の土の城」を訪問しました。 <土塁> 11月下旬の晴れの日。場所は栃木県小山市です。城跡巡りは基本的に独りですが、この日は旧友二人に無理矢理付き合ってもらい、草木の生い茂る山へ突入しました。迷惑?いきなりへんぴな場所に到着しましたが、笑って許してくれました。 ■ 中久喜城 ■なかくきじょう <石碑と説明板> <縄張り図> 関東屈指の豪族・小山氏により築かれた城跡です。小山氏の本城..
赤見城のなごり(佐野市)唐沢山城の支城跡 [2017/10/01 21:02]
つわものどもが夢の跡 佐野氏の居城・唐沢山城の支城を訪ねました。 <赤見城の土跡>あかみじょう 堀と土塁が良好な状態で残されています。左手が本丸跡です。 <水堀> 土塁の上から撮影した堀。本丸の敷地面積に対して相当深く感じます。このまま現役の堀として機能するレベルではないでしょうか。攻め手の武器にもよりますが、、、。 この遺構は中世のものですね。そもそもこの地に城ができたのは、いつごろだったのでしょうか? ■ 赤見城の築城 ■鎌倉以前..
夢なかばの城の跡 佐野城のなごり [2017/09/29 23:09]
つわものどもが夢の跡 佐野城を訪問しました。別名は春日岡城。佐野氏が堅城の誉れ高い山城を放棄して、その麓に築いた城です。 <佐野城跡>さのじょう 実際に訪問するまで「佐野氏は山城から平城に移った」と思いこんでいましたが、ここ佐野城も独立丘に築かれた山城でした。もといた山城(唐沢山城)とは比較になりませんが、これはこれで立派な城郭です。曲輪や土塁は勿論、立派な堀切跡を見ることができます。 ■超エキチカ■ <佐野駅城山公園口> 佐野駅北側がそのまま..
過ぎたる城の終焉 唐沢山城 [2017/09/28 21:45]
日ノ本を二分した関ヶ原の戦い。佐野氏は東軍につきます。徳川方ですね。後には佐野藩を立藩。居城は名城・唐沢山城。石高3万5千。立派な藩ですね。 <石碑と枡形>入口 ■名城の終焉■ 戦国の世を生き抜いた唐沢山城。しかし当主の佐野信吉は、唐沢山の麓に新たな城を築きます。これが関ヶ原の戦いから2年後の1602年の話。歴代当主が守り続けた山城は、攻め滅ぼされることなくその歴史に幕を閉じることになりました。 なんで〜! これには諸説あります @江戸の大..
山上道及と唐沢山城 [2017/09/27 21:26]
戦国武将好きです。そして「花の慶次」ファン。今回とりあげる山上道及(やまがみどうきゅう)の存在を知ったのも「花の慶次」。原作の一夢庵風流記にも登場します。そこに描かれていた反骨の豪傑が、私にとっての山上道及。一騎当千のつわものです。 ■マイナー武将■有名じゃない 経歴どころか生没も詳細不明。資料もあまり目にしません。そこで、今回は「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。 『上州八家の一つ山上氏に生まれ、上杉憲政及び長野業正の許、山上城..
唐沢山城奪回(佐野房綱)帰ってきた当主の弟 [2017/09/26 22:04]
巨大な勢力の覇権争いに巻き込まれながらも、家を守り続けた下野国(栃木県)の佐野氏。関東覇者となった小田原北条氏とうまくやっていくつもりでしたが、西の方からもっと巨大な勢力が押し寄せてきました。 <唐沢山城跡の石碑> ■佐野当主に北条一族■ 戦国末期、佐野氏は小田原北条氏から養子を迎えていました。北条氏忠です。上杉謙信や武田信玄と競い合った北条家三代目の氏康は、たくさんの男子に恵まれました。@(新九郎)A氏政B氏照C氏邦D氏規E氏忠F(上杉景虎)G氏光の八人。..
十年戦争 唐沢山城の戦い [2017/09/21 21:07]
ここは上杉謙信が10度も攻めたと言われる山城です。 ■佐野氏の居城■ 下野国の唐沢山城。標高241m、比高200mの山に築かれた山城です。城の起源は927年。平将門を鎮圧した藤原秀郷の居城として城が築かれました。その後一旦は廃城となりますが、1180年に子孫の藤原成俊が再興。佐野氏を名のり、ここから新たな歴史が始まります。 ■関東一の山城■ 佐野氏の居城・唐沢山城が、世間に名を馳せるきっかけとなったのは、十年にも及ぶ唐沢山城の戦い。特に上杉謙信との攻防です..
関東一の山城 唐沢山城のなごり [2017/09/20 23:55]
つわものどもが夢の跡 関東一の山城を訪ねました。 <唐沢山城>からさわやまじょう 戦国期の関東では珍しい石垣 ■ 唐沢山城 ■ 栃木県南部の唐沢山。佐野市中心部からは北方約5qに位置します。唐沢山城はその標高247mの山に築かれた中世の城。頂上が本丸、要所に曲輪を配置した山城です。説明するより下の縄張り図を見て頂くほうが早いですね。こんな感じです。 <縄張り図>現地説明板撮影 連郭式の山城です。平面図でこの凝った構造。ここに高低差という地の利が..

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もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
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