つわものどもが夢の跡
関東一の山城を訪ねました。
<唐沢山城>からさわやまじょう
戦国期の関東では珍しい石垣
■ 唐沢山城 ■
栃木県南部の唐沢山。佐野市中心部からは北方約5qに位置します。唐沢山城はその標高247mの山に築かれた中世の城。頂上が本丸、要所に曲輪を配置した山城です。説明するより下の縄張り図を見て頂くほうが早いですね。こんな感じです。
<縄張り図>現地説明板撮影
連郭式の山城です。平面図でこの凝った構造。ここに高低差という地の利が加わります。難攻不落の名城です。この縄張り図で左手に見える山も城の一部。逆側の右手にも曲輪が配置され、下には深い谷が刻まれています。
■ 関東一の山城 ■
今年(2017年)続日本100名城に選ばれました。それはそれでめでたい話ですが、個人的には、そもそも「日本100名城」に入っていなかったことが不思議です。日本でベストテン以内とまでは言いませんが、100位だったら余裕で入れる城のはずです!
上杉謙信ですら手をやいた堅城。中世の関東としては稀な石垣。出土品も多数。こういう言い方は適切ではないかもしれませんが、適度な時期に廃城となったことから、中世のなごりがいまも漂う貴重な城跡です。関東を代表する、いや、関東一の山城なのです!!※
※いろんなご意見あろうかと思いますが、ただの城好き会社員のブログですのでご容赦下さい。
■ 佐野氏の居城 ■
築城者は藤原秀郷といわれています。その子孫である佐野氏が再興し、その後代々当主が居城としてきました。特に第15代当主・佐野昌綱の時の「唐沢山城の戦い」は有名です。越後の龍・上杉謙信との間で約10度にわたって戦いながら、城が完全に落とされることはありませんでした。難攻不落の山城。関東七名城の一つに数えられる名城です。
<枡形虎口>ますがたこぐち
戦国期後半以降の城に多い枡形虎口。今は石垣だけですが、門などが設置されていた入口です。奥まで見えないように視界が遮られています。現地の看板だと「くい違い虎口」。直進を防ぐ効果もありますね。この「くい違い虎口」と、侵入口に設けるマス状の方形の区画。これをセットで枡形虎口と呼ぶ場合が多いですね。いざという時に攻め手を撃退しやすいようにしておくための工夫。決して珍しくはないですが、中世の城でありながら重厚感があるのがいいですね。この城の歴史は長いですが、江戸時代直前くらいに設けられた虎口なのでしょう。
なんて…
まだ入口に過ぎないのに、早くもワクワクします。
■二大勢力の狭間■
北関東は越後の上杉氏と小田原の北条氏の二大勢力が激突する場所。普通なら両勢力に翻弄されそうなものですが、佐野氏は堅固な城と智将・佐野昌綱の才覚で何度もピンチを乗り切りました。
関東の拠点としてこの地をおさえておきたい上杉謙信は、幾度となく唐沢山城へ攻め寄せます。しかし籠城で耐え忍んだり、あるいは追い返したり、またある時は一旦降伏したり。謙信にしてみれば、当主の老獪さも含めて「思い通りにならない城」ということですね。唐沢山城が北条氏の大軍に取り囲まれた時、援軍として駆け付けたこともあります。しかし去って行くといつのまにかまた北条と上手くやっていたりする。「お前、約束が違うだろ!」と私だったら怒ってしまいますね。ただ客観的にみて、本気で唐沢山城を居城とする佐野氏を滅ぼそうとすると、攻める側もそれなりの痛手を覚悟する必要があります。戦わずして勝ちたい、そして味方になって欲しいという思いもあったのでしょう。
<大炊の井>
水が枯れたことがないという溜池です。築城の際、厳島神社に祈願して掘られました。調査の結果、深さは9mもあり、下まで石垣で覆われています。円の直径は8m。籠城戦の多かった山城にとって、城兵の強い味方ですね。
<四つ目堀と神橋>
これは山の斜面を削った堀。つまり堀切ですね。向うに立派な石の橋が見えますが、城が現役の時は木造の橋。有事には外せるようになっていました。一つ目堀から始まって、ここは四つ目堀。
<山と山の谷間>
神橋とは逆方向の四つ目堀。右手は唐沢山の頂上へ向かって帯曲輪(おびくるわ)が続きます。左手は外曲輪ということになりますが、もう少し進むと小さな山となっています。この四つ目堀、山と山を隔てる谷にもなっています。
<城内高低差>
曲輪の配置を確かめながら探索。整備されていながら、とにかく遺構が多いですね。
段差をつけた城内。ここを少しずつ登りました。
<本丸付近>
二の丸から本丸(山頂)へ登る石段。登った先には藤原秀郷を祀る神社(唐澤山神社)本殿があります。藤原秀郷はこの城の築城者であり、将門の乱を鎮圧した伝説の武将ですね。そして佐野氏の先祖。城好きに限らず、純粋にこの神社を訪問する方も多いらしく、正月にはたくさんの初詣客で賑わうそうです。
本丸周辺の石垣ですが、本当に見事です。同時に、時代を考慮すると大変珍しいですね。まだ土の城が主流の時代です。唐沢山城も、もともとは土の城。石が積まれたのは、早くても戦国末期ではないでしょうか(個人見解)。また、明治になって本丸が神社になる時に、かなり手を加えたようです。
ときどきこんな大きな石も。石垣がかなりきっちりしているところと、ややラフな場所があります。
この付近には岩山が多く、石の調達はそんなに困らなかったのかもしれません。ただ積み上げるには技術が必要。やはり中世の関東では希なケースです。凄い!
<別な登山道>
杉曲輪方面へつづく道、こちらから登城してくる方もいます。右手は谷になっています。細長い尾根を削り、曲輪を配置しています。
<城内の小山>
避来矢山(ひらいしやま)といいます。山中には大きく分けて3つの曲輪らしき区画がありました。当時どのように使われたかはよくわかりません。もっとも高い曲輪に、取り残されたような建造物を見つけました。根古屋神社跡。『跡』です。かつて藤原秀郷が建造した神社がここにあったようです。江戸時代に、麓に移されました。唐沢山城が廃城になってから、そうとう後です。不便な場所なので、移設されたということですね。現在のこの建物は、唐澤山神社に功績のあった方々の霊をまつる霊廟とのことです。
<物見へ登る道>
ちょっと戻って、これは最初の入り口(枡形虎口)付近になります。かつては物見櫓があった場所。この細い道を登りきると『天狗岩』と絶景が待っています。
<天狗岩>
ここに登って景色を眺めました。マネする方は足元気を付けて下さい。ここは崖と谷の山城です。
<奇岩>
これ天然の岩です。かつての物見櫓付近は、こんな岩ばかりです。
<関東平野>
関東平野 が一望できます。この日はやや霞んでいますが、空気が澄んでいる日は、東京の高層ビルが見えるそうです。いわゆる「関八州」が(ほぼ)見渡せる山城です。
こんな逸話があります。ここから江戸の大火が見えたので、早馬で江戸に駆け付けた当主・佐野信吉。本人は見舞いのつもりでしたが、徳川家康から「江戸を見下ろせる所に城を構えているのか」と逆に不興を買うことになりました。佐野氏が最終的にはこの堅城を放棄したことと、関係あるかもしれませんね。
■つわものどもが夢の跡■
激戦の関東で、名だたる戦国大名に何度も攻め込まれながら落ちなかった山城。1602年、佐野氏が唐沢山の麓に築いた佐野城へ移ったことで廃城となりました。
攻め落とされたのではなく、自主的に幕を閉じました。
---------■唐沢山城■---------
別 名:栃本城、根古屋城
築城者:藤原秀郷
築城年:927年(延長5)
改修年:1180年(治承4)
改修者:佐野成俊(藤原成俊)※
※30年を費やし改修
再改修:1491年(延徳3)
改修者:佐野盛綱
城 主:佐野氏歴代
廃 城:1602年(慶長7)
[ 栃木県佐野市富士町 ]
[当ブログについて]
ごく普通の会社員が興味の情報を共有できればと思い運営している個人ブログです。素人が楽しんでいるだけですので、掲載されている内容につきましても、その程度であることをご理解願います。
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2017年09月20日
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