■佐野氏の居城■
下野国の唐沢山城。標高241m、比高200mの山に築かれた山城です。城の起源は927年。平将門を鎮圧した藤原秀郷の居城として城が築かれました。その後一旦は廃城となりますが、1180年に子孫の藤原成俊が再興。佐野氏を名のり、ここから新たな歴史が始まります。
■関東一の山城■
佐野氏の居城・唐沢山城が、世間に名を馳せるきっかけとなったのは、十年にも及ぶ唐沢山城の戦い。特に上杉謙信との攻防です。この時の佐野氏の当主は、佐野昌綱(さのまさつな)。たいへん老獪な戦国大名でした。個人的には、武田家滅亡後の真田昌幸を思い出します。「表裏比興の者」と言われた真田昌幸。やはり複数の巨大な勢力の狭間で真田家を守り続けました。佐野昌綱の場合、直接的には越後の上杉謙信と小田原の北条氏康の板挟みですね。厳しい環境下、智将・昌綱の策略により、佐野氏は降伏・離反を繰り返すものの、唐沢山城そのものが落とされることはありませんでした。つまり、大きな意味では負けませんでした。これはもう当主の才覚あってのことだと思いますが、背景として佐野という場所の地理的な条件、そして堅固な唐沢山城の存在があったのだと思います。
■十年戦争■
『唐沢山城の戦い』は個別の合戦ではなく、1560年頃から1570年頃までの戦の総称です。舞台は唐沢山城。十年に及ぶ戦いの全てを紹介できませんが、降伏・離反といった知将・昌綱の交渉術だけではなく、実際に戦闘に至った部分を中心にご紹介させて下さい。自分が好きな山城「唐沢山城」に興味を持って頂けたら幸いです。
<城内の溜め池>
■軍神を二度退ける■
(はじまり)
1560年 謙信との共闘
昌綱の十年戦争は、上杉謙信との共闘で始まります。関東覇者を目指す小田原北条氏と戦いました。襲い掛ったのは北条氏政(のちの第4代目当主)。3万余の大軍で唐沢山城に迫ります。助けを求められれば放っておかない上杉謙信。駆け付けて北条軍を退却させました。さすがは謙信(私は上杉ファンです)。『これに感謝した佐野氏は、生涯上杉への忠誠を貫きました。おわり。』とならないところが、佐野昌綱の凄い所です。
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(佐野対上杉)
1561年 謙信を敵に回す
翌年、昌綱は謙信に従って小田原北条氏攻めに参加(小田原城の戦い)。上杉軍は進軍しながら武蔵国の城(忍城など)を支配下に治め、小田原城へ到着しました。しかしこの小田原城もまた守りの堅いことで有名です。当主の北条氏康は、のちに軍神とまで称される謙信が自ら総大将となっていることを警戒し、無駄な野戦は避けて籠城戦にもちこみます。上杉軍の包囲は1ヶ月にも及びましたが、結局城は落ちませんでした。この結末の背景として、北条氏康と同盟関係の武田信玄の動きがあります。上杉軍はこちらも警戒する必要があったため、城攻めを途中で断念したと考えられます。越後の龍が小田原まで来たのですがね。上杉謙信※無念だったでしょうね。
(厳密には、謙信はこの時まだ『長尾景虎』です。小田原攻めの帰り、鎌倉の鶴岡八幡宮において山内上杉家の家督と関東管領職を相続。そして名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めました。まぁ面倒なので、上杉謙信で通しますね)。
さてさて、今回主役の佐野昌綱の運命はいかに。
先述の通り、上杉謙信は宿命のライバル・武田信玄をけん制せねばならなくなりました。一旦越後へ引き上げてしまいます。新潟県です。関東からみて山の向こう側ですね。ギリギリまで攻め込まれた北条氏康、黙っている男ではありません。すぐに関東平野での勢力を取戻します。やがて唐沢山城にも北条軍が迫ってきました。この時、頼みの上杉謙信は川中島で武田信玄と戦っています。昌綱に援軍はありません。どうしますかね?相手はご近所の小大名ではなく、謙信・信玄と互角の北条氏康です。
佐野昌綱、北条氏康に降伏しました。
「おい、佐野!なにやってんだ」
と言ったかどうだか、今度は怒った上杉謙信が唐沢山城に襲い掛ります。ただ籠城で耐える堅城はなかなか落とせません。冬の到来により、上杉軍は去っていきました。
佐野昌綱、上杉謙信に勝ったとはいいませんが、負けませんでした。
越後の上杉謙信が、冬になると兵を退くのは良く知られています。雪の山を越えるのは大変ですからね。とりあえず佐野氏は安心。山の雪が無くなる頃まで、上杉軍が襲い掛かってくる心配はありません・・・。そう思うのが妥当。ところがこの冬、謙信は上野国の厩橋城( まやばしじょう ) 、現在だと群馬県前橋市の群馬県庁で年を越しました。山は越えなかったのですね。
謙信は春の足音が聞こえるとすぐ、唐沢山城へ再び攻め掛ります。しかし、この山城は本当に良くできた山城。戦上手の謙信をもってしても攻め切れませんでした。
二度目ですよ。あの上杉謙信を二度退けました。佐野昌綱及び唐沢山城は、このあたりから他国の者も知る存在となっていきます。メジャーデビューといったところですね。
■終わらない戦い■
(その後)
1564年 城の攻防戦
この時点で上杉に反旗を翻していた佐野氏。唐沢山城は、また上杉軍による攻撃を受けます。徹底抗戦の唐沢山城に対し、この時は上杉軍の猛攻撃が続き、三の丸・二の丸が破られました。本丸だけでも立派な山城ですが、ここまでくると時間の問題ですね。頼りの北条氏は、このとき国府台で里見氏と戦っている最中。援軍も期待できず、孤立したまま城が落とされる寸前です。城主・佐野昌綱は、佐竹義昭や宇都宮広綱の説得に応じて降伏することにしました。難攻不落と言われる唐沢山城が、実質攻め落とされた瞬間です。
佐野昌綱、万事休す・・・
ただ上杉謙信は当主の命までは取りませんでした。『義』を掲げる謙信としては、不義を正したかっただけ。上杉ファンとしてはそう受け止めたいですね。現実的な背景として、佐野氏に降伏を促した佐竹氏や宇都宮氏(同じ関東武士)の助命嘆願を、謙信が受け入れたようです。
戦国のいい話です。これで終りなら・・・
まだ終わりません。佐野昌綱はこのあとまた上杉謙信から離反。もう書ききれませんが、これまた北条氏の圧力です。謙信が川中島で武田信玄と5度目の激突をしている最中のことでした。以下は省略しますが、要するにこの時期の関東甲信越は「上杉」「武田」「北条」の三大勢力なのです。そこで生き残る。実際に生き残り続けた。これが佐野昌綱と唐沢山城の凄さと言えます。
■つわものどもが夢の跡■
関東三国志とも称される北条氏康・武田信玄・上杉謙信の勢力争い。この三勢力の動向は、ほかの関東武士たちの運命を翻弄し続けました。三人が没したのは1570年代(氏康1571・信玄1573・謙信1578)でした。唐沢山城の戦いは1560年頃から1570年の約10年。この厳しい時代に、城も潰されず、領地も奪われなかった佐野昌綱という人物。つわものですね。離反という武士としての汚名を受け入れる度量。これによって守られたものは、佐野の家と領民の暮らしでした。それこそが、当主たる者の優先課題。佐野昌綱の夢だったのだと思います。
■訪問:唐沢山城
[栃木県佐野市富士町]
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