<唐沢山城跡の石碑>
■佐野当主に北条一族■
戦国末期、佐野氏は小田原北条氏から養子を迎えていました。北条氏忠です。上杉謙信や武田信玄と競い合った北条家三代目の氏康は、たくさんの男子に恵まれました。@(新九郎)A氏政B氏照C氏邦D氏規E氏忠F(上杉景虎)G氏光の八人。北条氏忠は六男ということになります。( )内はこの時に既に没していますが、他は四代目当主・氏政を筆頭に健在。関東の主要な城に城主として配置され、血縁による盤石な体制を敷いていました。佐野氏、そしてかつて難攻不落を誇った唐沢山城も、そのネットワークに組み込まれたわけですね。
■秀吉の小田原征伐■
関東覇者に危機が迫りました。豊臣秀吉の小田原征伐です。天下軍総数22万。結果は言うまでもありませんね。1590年、戦国大名としての小田原北条氏は滅びました。
さて、当主が北条一族の佐野氏はいったいどうなったのでしょうか。
当主・佐野(北条)氏忠は、天下軍が迫ると唐沢山城を出て足柄城の守備につき、最後は小田原城に籠城していました。そして戦後、兄二人(氏政と氏照)は切腹。氏忠は高野山行きとなりました。
佐野の家。唐沢山城も領地も没収され、お家断絶でもおかしくない状況です。
■帰ってきた弟■智将・昌綱の弟
佐野房綱(ふさつな)という武将がいます。この方は佐野家13代当主の息子です。そして、かつて上杉謙信と10度も戦った15代当主・昌綱の弟。長男と違って、武者修行のために諸国を回ったり、外との接点を多く持つ経験を積みました(結果としてですが)。兄亡き後は、兄の息子で16代当主の宗綱を補佐しました。
ところが、宗綱は嫡子のいないまま戦で討死。佐野家は家督問題で大もめとなります。軍事的理由から養子が検討され、房綱は佐竹氏を勧めますが、結果は北条一族の氏忠。
「じゃ出て行くぜ」
と言ったかどうだか、佐野房綱はこの時点で佐野家を去ってしまいました。
それから約5年後。豊臣秀吉の小田原征伐が始まりました。佐野家を出奔した房綱は、なんと豊臣家に仕えていました。関東に詳しい房綱は天下軍に貢献。前田利家や上杉景勝の軍にも同行しました。
唐沢山城落城。そして北条氏の本城・小田原城も落ちました。戦後処理(秀吉の命)として、房綱は佐野氏忠の領地と家督を継ぐことを許されました。北条家から当主を招いていた佐野家でしたが、豊臣に仕えた房綱が名代(当主代行)となることで断絶だけは免れたわけです。いま風に言うと、ずっと家出していた男が帰ってきて、家を救ったわけですね。
■つわものどもが夢の跡■
<唐沢山城本丸跡の石垣>
唐沢山城に入った佐野房綱は、家臣団から北条色を一掃。新たな体制作りに2年間奔走します。房綱に子はなく、更にあくまで当主代行という立場だったことから、秀吉家臣の富田氏から養子を迎えて佐野家当主とし、自分の役割を終えると隠居。佐野家を出奔した男、途切れそうだった佐野家の歴史を繋ぎました。
■訪問:唐沢山城
[栃木県佐野市富士町]
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