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2017年12月03日

鷲城のなごり (小山氏城跡)

つわものどもが夢の跡
栃木県小山市の中久喜城に続き、鷲城を訪問しました。

■鷲城■わしじょう
小山市に残る中世の城跡です。小山氏の居城として知られる祇園城、その支城の中久喜城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。憩いの場として市民で賑わう「小山総合公園」のすぐそば。隣接する山林が城跡だと思っている人はあまりいないようです。

■探索開始■
<虎口>
shirononagoriWashijo (17).JPG
ただの林ではありません。中世の土の城跡です。

<目印>
shirononagoriWashijo (4).JPG
『土塁』の表示。説明はありませんが要所要所で遺構に目印が・・・

<横矢>よこや
shirononagoriWashijo (1).JPG
山中を登っていくと、曲輪の入り口付近に今度は『横矢』。側面から矢を射ることを指す城用語ですね(横矢掛り)。横というより、遺構は何も知らずに登ってくる侵入者を頭上から狙うような位置にあります。まぁもしかしたら、昔は虎口の付近に柵や土塀などが設けられていて、死角があったり、人の導線が制限されていたのかも知れません。そういった念入りな下準備をしたうえで敵を横から狙う。そんな感じかもしれません(個人的推定、というか妄想です)。

<山の中>
shirononagoriWashijo (14).JPG
これでも一定の管理はなされているのでしょう。しかし結構ラフな山林です。生い茂る大木で薄暗い山の中、倒木により開けた空から、陽が差し込んでいるのが印象的でした。横たわる大木には苔が生え始め、放っておけばやがて覆いつくされるのでしょう。なにかが途切れても何かがまた生まれる。この当たり前の営みが、かつて人が造りし城跡に押し寄せます。その程度によっては、「廃城」がとんでもなく美しい景観に感じられることもあります。ただまぁ、ここはちょっと自然の力に押されぎみですかね。

<土の城>
shirononagoriWashijo (16).JPG
とは言え遺構は残っています。ボロボロになっても城跡。人の思惑が込められています。

<鷲神社>本丸跡
shirononagoriWashijinja (2).JPG
城の名の由来となった鷲神社です。11代当主の義政が勧進したと伝わります。

shirononagoriWashijinja (1).JPG
shirononagoriWashijinja (3).JPG

<鷲神社の参道>
shirononagoriWashijinja (4).JPG
見事な並木です。この日は人影もありませんが、通り道のため比較的綺麗に整備されています。

<参道横の平地>
shirononagoriWashijo (2).JPG
ここもかつての城跡。本丸(主郭)の一部です。

<参道入口>
shirononagoriWashijo (12).JPG
ここに案内板と石碑が設置されています。小山総合公園側からとりあえず山林に突入し、探索しやすい順路で歩いてきましたが、神社の裏から入って正面に出て、最後に鳥居をくぐるかっこうになっています。失礼しました(城跡探索をしていると良くあることです)。

<縄張り図>
shirononagoriWashijo (10).JPG
縄張り図の横に説明文があります。そのまま引用すると『鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、内城と外城との2つの廓からなり、当時としては広大な城郭』とのこと。

外城と中城(うちじろ)という表現になっていますね。経験不足の私には馴染みのない言い方ですが、位置関係からして外城は本丸に対する外曲輪(そとぐるわ)。中城は本丸と解釈して良いかと。天然の堀とも言うべき川に面する方が本丸。地続きの方角に二の丸、というか外曲輪を配置した連郭式縄張りということですね。この構図は良く理解できます。
外城は現在の地名にもなっています。

<城跡沿いの道>
shirononagoriWashijo (13).JPG
位置からして、堀を埋めた跡ではないかと思われる・・・(推定)

<河川敷より>
shirononagoriOmoigawa.JPG
思川の河川敷から見た城跡。河岸段丘に築かれています。川と周辺の谷地・低湿地に守られた山城。自然の地形を生かした典型的な中世の城です。

<山の麓>
shirononagoriWashijo (19).JPG
これは堀跡ではなく、山城と総合公園の間に造られた小川。ただ、この付近が周辺より低地になっていることは分ります。

■小山氏の本拠だった実績■
訪問時点での私の感覚では、鷲城は祇園城の支城。しかしこの城が本拠だったこともあるようです。小山氏が鎌倉公方足利氏満に反旗を翻した『小山義政の乱(1380年から1383年)』。これは関東屈指の名門家が、滅亡の危機にさらされる戦いです。この時、ここ鷲城は中心的な役割を担いました。

先ほどの案内板の説明を抜粋すると『小山氏が関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。小山義政の乱と言います』『原因は勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが小山に攻め寄せました』
とのこと。

勢力を拡大する小山義政は、鎌倉公方に疎まれた。そして関東各地の武士たちが鎌倉公方に味方して小山に攻め寄せた・・・。ということですね。
 
鎌倉公方と小山氏、実際にはどちらに正当性があるのか分かりません。小山義政は同じ下野国のライバル宇都宮氏を抑えて、小山氏の全盛期を築いた人物。しかし結果としては関東で孤立し、四面楚歌のような状態で戦うことになりました。

この乱(というか戦い)は義政の息子・若犬丸(わかいぬまる)にまで引き継がれる長い闘いとなり、最終的には小山氏の滅亡へ繋がります。小山氏そのものは同族の結城氏から養子を迎えて存続しますが、小山政光から約250年も続いていた嫡流は、小山若犬丸で途絶えることになります(1397年)。

※小山氏の始祖・小山政光の三男が結城氏の始祖・結城朝光です。ここまで遡れば、小山氏の血が途切れた訳ではないですね。この長い長い小山氏の歴史については、祇園城訪問記において(やや無理やり短く)まとめさせて頂きましたので、宜しければ覗いてみて下さい
→『祇園城訪問記へすすむ

話を城に戻すと、ここ鷲城は第11代当主・小山義政が意地を掛けて鎌倉公方と戦った時の拠点。現地説明文にも『義政は、二度目の蜂起となる康歴3年には鷲城に立て篭もって戦います』とあります。ライバルの宇都宮氏、そして鎌倉の軍勢にも攻められた城。現在の城跡はその時の一部に過ぎませんが、遺構は豊富です。

どんなつもりだったのか・・・

深い堀切の底で土の壁を見上げると、築城そのものの創意工夫だけではなく、込められた思いまで伝わってくるような気がします。霊感には無縁の男ですが、人並みに感情はあるので、きっと当たり前のことでしょう。

■つわものどもが夢の跡■
<堀切の底より撮影>
shirononagoriWashijo (15).JPG
全国的には知られていない中世の土の城。しかし遺構が現存している上に、歴史の裏付けが確かな城跡です。文献で確認できるのは、小山氏がかつて関東屈指の名門武家だったことと無縁ではありません。その武士団の思惑が、遺構とともになごりを残す城跡でした。

--------■鷲城■--------
築城年:不明(小山義政?)
築城者:不明(小山氏)
城 主:小山氏
廃城年:不明

[栃木県小山市外城]


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タグ:城のなごり
posted by Isuke at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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