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2017年12月02日

名門結城家最後の将・晴朝 (終焉の地)

<中久喜城跡> なかくき
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草木の生い茂る城跡の内部で堀切を撮影。かつての本丸跡です。

栃木県小山市と茨城県結城市の境に位置する中久喜城跡。ここは先祖から受け継いだ名門家を守り抜くことに生涯を捧げた戦国武将の最期の場所となりました。

<堀の跡>
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結城晴朝ゆうき はるとも
この方は戦国末期から江戸初期の武将、そして結城家17代当主です。父は小山高朝(おやまたかとも)。つまり小山氏の出です。三男として生まれた晴朝は、26歳の時に小山氏と同族の結城氏の養子となり、家督を継承しました。これは後継者を亡くしてしまった結城側から強く請われてのことだったようです。

養父の結城政勝は、父である小山高朝の兄。つまり叔父にあたります。祖を同じくして領地も隣り合わせの両家は、こうして密接な関係を維持し、北方の脅威であった宇都宮氏に対抗していました。
晴朝が当主となった翌年。結城氏はさっそく宇都宮氏・常陸の佐竹氏ほかの大軍に攻め込まれています。しかし晴朝は結城城を拠点にこれに耐え、何とか和議へ持ち込みました。圧倒的に不利な状況。晴朝は交渉の才覚に長けた武将だったようです。


■ 生き残り策 ■
越後上杉小田原北条の勢力争い。関東の多くの国人領主がそうであるように、結城氏も、そして同族の小山氏も、この大きな勢力に翻弄されます。北条側に味方する立場だった晴朝は、上杉側についた実家の小山氏と敵対関係になることも。その最中に父・高朝が亡くなりましたが、対立中のため実家へ駆けつけることも叶いませんでした。所領は隣同士。すぐ近くなんですがね。距離以上の隔たりを持たざるを得ませんでした。小山氏は兄の秀綱が引き継いでいます。

<中久喜城跡と水戸線>
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本丸跡を分断している線路。

1575年、北条氏照により小山氏は攻め滅ぼされ、兄秀綱は追放。これにより小山氏は四百年の歴史に幕を閉じます。当主の舵取りによっては、名門家でも滅びてしまう。当時の関東はそういう厳しい時代に突入していました。やがて上杉謙信が関東管領に就任すると、晴朝は上杉側へ鞍替えをします。状況を良く見極めて立ち位置を変え、当主晴朝は結城の家を守り続けました。


■ 養子戦略 その1 ■
晴朝は正室との間に子がいましたが、男子はいませんでした。そのこともあるのでしょう。上杉が関東から撤退したのち、かつては争った宇都宮氏から養子を迎えて家の安定を図ります(宇都宮氏と同盟関係の佐竹氏とも良好な関係が保てます。更に妹を佐竹氏配下の江戸氏へ嫁がせ、婚姻関係で家の存続を図ります)。そして豊臣秀吉が大軍を率いて小田原北条征伐にやってくると、晴朝も反北条として戦います。北条を滅亡させた秀吉の裁定により、かつての小山氏領は結城氏の領地となり、晴朝は結果として実家の旧領を引き継ぐことになりました。また、北条に下っていた小山秀綱の助命が許され、晴朝は離れ離れだった兄も引き取ることになりました。あくまで独立大名だった晴朝ですが、豊臣秀吉を主君として家を存続させました。

■ 養子戦略 その2 ■
宇都宮氏から養子を迎えていたはずですが、今度は徳川家康の実子で、この時点では秀吉の養子となっていた羽柴秀康を養子として迎えることになりました。最初の養子には、ご実家に帰ってもらったようです。
家康の子にして秀吉の養子。こんな凄い人物を当主として迎える。晴朝がいかに結城の家の存続を願っていたか伝わってくるような気がします。

結城秀康18代当主
私がこの方の存在を意識したのは「花の慶次」。個人的に思い入れがある武将です。ただ今回の主役は結城晴朝。その立ち位置から見ると、秀康は名門結城家の存続を掛けて迎え入れた「最強の養子」ではないでしょうか。血筋は途切れますが、晴朝には何か別の考えがあったような気がします。

ところが、関ヶ原の戦いののち、結城秀康は結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封となります。68万石の結城家。凄いですね。しかし見方を変えれば、歴史の長い結城家が、先祖代々の土地から切り離される瞬間でした。結城の地を失う。これは晴朝にとっては思いもよらなかったことでしょう。更に1604年、結城秀康は名字を松平に改めてしまいます。結城の家督は秀康の五男・直基が継ぎますが、当時まだ4歳。既に当主たる立場ではありませんが、晴朝はどんな思いだったのでしょうか。


■ 統終焉の地 ■
それから十年後。かつての所領に隠居していた晴朝は、中久喜城で生涯を閉じました。81歳というから、当時としては長生きでしたね。晴朝は、結城の血筋による結城の地での再興を最後まで諦めていなかったと伝わります。

<中久喜城跡の石碑>
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晴朝が亡くなったあとの話ですが、秀康の息子・直基も名字を松平に改めてしまうので、大名家としての結城の名は19代で途切れてしまいす。そういう意味では、17代当主・晴朝は、結城家の大将であることを全うした最後の男でした。

<つわものどもが夢の跡>
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名門家の再興を夢見た元当主統終焉の地です

------■ 中久喜城 ■------
築城年:1155年(久寿2)
築城者:小山政光
(小山・結城両家先祖)
城 主:小山氏 結城晴朝
廃城年:1601年(慶長6)
(城跡に隠居した晴朝は1614年没)
[ 栃木県小山市中久喜 ]


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-------■ 余 談 ■-------
【結城晴朝の財宝伝説】
結城氏は名門家ではありますが、所領にそぐわない豊かさがあったとされています(ホントにそうなんでしょうかネ?)。この話に付随して、結城晴朝には埋蔵金伝説なるものがあります。

『結城氏の開祖・朝光は、源頼朝に従軍。その功績から莫大な褒美(金など)を得て、それが代々の当主に引き継がれている。これこそが、石高を上回る財力の裏付け。ここに目を付けた徳川家康が、実子の秀康を結城家に送り込みましたが、財宝は見つからず。その理由は、いつか結城氏本来の血統で家を再興させたいと願う結城晴朝が、所領のどこか(現在の結城市を中心としたエリア)にお宝を埋蔵したから。』
とまぁこんな伝説です。

ちょっと信じがたいですね。ただ、以前『結城氏館跡』を訪ねたあといろいろ調べたのですが、文献に乏しく、あまりはっきりとした確証が得られなかったことがありました。歴史の長い名門家なのにヘンだなぁと感じましたが、もしかしたら、埋蔵金のこともあって意識して文献を破棄した?のでしょうか。それならそれで興味深いですが、全く根拠が無いので、この話はここまでにします。

〚参考:結城氏館跡〛
yukishitakara (1).JPG
結城氏の祖である結城朝光によって築かれた館跡。土塁と堀が残されています(結城市)。


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posted by Isuke at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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