廃城巡りを始めた頃の基本に戻って「中世の土の城」を訪問しました。
<土塁>
11月下旬の晴れの日。場所は栃木県小山市です。城跡巡りは基本的に独りですが、この日は旧友二人に無理矢理付き合ってもらい、草木の生い茂る山へ突入しました。迷惑?いきなりへんぴな場所に到着しましたが、笑って許してくれました。
■ 中久喜城 ■なかくきじょう
<石碑と説明板>
<縄張り図>
関東屈指の豪族・小山氏により築かれた城跡です。小山氏の本城である祇園城(ぎおんじょう)の東に位置する支城。方角が示す通り、東からの敵の侵入を抑えるために築かれました。ちょっとマイナーな城ですが、同市内の祇園城跡、そして鷲城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。
〚参考:祇園城跡〛
[小山市城山町]
こちらは小山氏が本拠としていた祇園城跡(城山公園)です。今回訪問の中久喜城跡はここから東へ約4キロ。お隣の茨城県結城市との間に位置しています。
■ 地の利 ■
城は二つの川に挟まれた舌状台地の南端に位置しています。更に、川は城の南側で合流。現在は水田となっているその付近は低地ですので、昔は川の水が交わり、頻繁に溢れ出す湿地帯だったような気がします。程度までは分かりませんが、地形的に間違いありません。劇的な「地の利」とまでは言いませんが、戦闘の質(戦の人員や当時の武器等)を考慮すれば、要害の地を選んだと言えるしょう。城跡を含む付近がちょっとした台地だからでしょうか。古くは「北山」と呼ばれていたようです。
■ 現地探索 ■
<土塁>どるい
石碑付近に土塁を見つけました。わくわくする瞬間です。
<曲輪跡>くるわ
石碑の付近に堀跡らしき窪みがあったのに対し、この付近はまとまった広さが明らかに平らに造成されています。土塁との位置関係からして、本丸への虎口(入口)の前に設けられた区画のようです。
<土塁の上>
土塁を登って撮影。ここはかつての城の本丸を取り囲む土塁。有難いですね。来た甲斐がありました。ただ進んで行くと、土塁は途中で不自然に途切れています。理由はすぐに分りました(次の画像)。
<水戸線>
城跡は線路により分断されていました。良く見ると、線路の向うもこちら側と似たような微高地のヤブ。城跡に間違いありませんね。それにしても、城の隅っこならともかく、分断されているのは本丸跡です。やや残念な結果ですね。
さて、ここで「線路の向こう側に土塁の続きがあるかも」という友人の前向きな発言。こんなマニア向きの城跡で申し訳ないという気持ちでいた私にとって、嬉しいひとことでした。この城跡は「ちょっとのぞくだけ」の予定でしたが、もう少し時間を割くことになりました。
<城山踏切>
ということで、線路は横切れませんので、ちょっと離れた踏切まで移動して仕切り直しです。別な角度から再び中久喜城の本丸跡を目指します。画像左手に見えている低地に川が流れていて、向こう側はもう茨城県結城市。県境の城跡探索です。
<土塁の壁>
本丸のメインは石碑があった方ではなくこちら。線路を挟んだ南側です。土塁が本来の役割を果たして我々侵入者を拒んでいます。土塁沿いの道(かつては堀だったが埋められたと推定される道)を進んで虎口を探しました。
<再突入>
侵入口を見つけて再突入です。正確な位置はともかく、この付近(本丸の南側)が大手側だったのでしょう。入るとすぐに、また土塁が立ちはだかりました。この土塁を登り切りましたが、奥に別な土塁を発見したものの、草木に邪魔されそれ以上は進めず。
<堀切>ほりきり
登った土塁の上から振り返って侵入してきた道を撮影。両側は高い土の壁。現地で友人に「堀切」と説明しましたが、後から考えると、部分的にはかなり土を盛った結果なのではないかとも思えます(やや不確か)。
それにしても相当荒れ果てた城跡。こういうのは久しぶりです。城跡巡りの初期はこんなのばかりでした。当時は城に関する予備知識も無く、ただ「廃城」を訪ねて情緒的に味わうだけ。逆に知識がない分、見たままを受け入れていたような気もします。今回そんな頃を思い出しながら城跡を訪ねたせいでしょうか?妙な達成感がありました。そして、ボロボロになりながらも残っていてくれた遺構に感謝したくなりました。同じく、靴を汚しながら付き合ってくれた友人二人にも。
■ つわものどもが夢の跡 ■
<分断された城跡>
この水戸線は、栃木県とお隣の茨城県を結ぶ路線。東西を隔てるための城跡が、逆に結ぶための線路に分断されているのも感慨深いですね。当時の城兵が見たら「なんてことするんだ」と怒りそう。もう争いが無いのだと説明すれば分かってくれるでしょう。むしろ、我々が想像する以上に喜んでくれるかもしれません。北山から中久喜と改められた地名。これは極めて近い同族同士でありながら、一時期争ってしまった小山氏と結城氏の和睦に由来します。「和睦の喜びをいつまでも忘れない」という意味が込められています。双方から養子を受け入れる親密な関係の両家。争った小山秀綱と結城晴朝は実の兄弟でした(結城晴朝が弟で小山氏からの養子)。
<和談坂>わだんざか
小山氏と結城氏の領地の中間に位置する中久喜。城跡近くのこの坂は和談坂と呼ばれています。この地で両家が話し合い、和解したことにちなんでいます。
------■ 中久喜城 ■------
別 名:亀城 岩壺城
築城年:1155年(久寿2)
築城者:小山政光
城 主:小山氏 結城晴朝
廃城年:1601年(慶長6)
[ 栃木県小山市中久喜 ]
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