佐野城を訪問しました。別名は春日岡城。佐野氏が堅城の誉れ高い山城を放棄して、その麓に築いた城です。
<佐野城跡>さのじょう
実際に訪問するまで「佐野氏は山城から平城に移った」と思いこんでいましたが、ここ佐野城も独立丘に築かれた山城でした。もといた山城(唐沢山城)とは比較になりませんが、これはこれで立派な城郭です。曲輪や土塁は勿論、立派な堀切跡を見ることができます。
■超エキチカ■
<佐野駅城山公園口>
佐野駅北側がそのまま城跡です。見えている平らな区画が三の丸跡。その先に見える斜面の上が二の丸になります。駅から徒歩0分。いや0秒ですね。一歩目から既に城跡です。
■城 内■
<堀切>ほりきり
道になっていますが、これは堀の底の部分ですね。この空間は、本丸と二の丸を隔てる目的で堀を設けたなごりです。城用語では堀切(ほりきり)といいます。まぁ堀と思って頂いて結構です。それより、これは遺構として結構立派なものです。築城された時は、もっと深かったのかも知れません。
<橋の付近>
公園として整備され、通行しやすいように立派な橋が架けられています。同じ堀切の中でも、ここは少し高くなっていますね。土橋跡ではないでしょうか。この上に更に木造の橋を掛けて、本丸と二の丸を行き来していたのでしょう。
城の別名にもある「春日岡」は地名。この地にはもともと寺(惣宗寺)がありましたが、新たに築かれる城のために移転。惣宗寺は、現在では「佐野厄除け大師」の名で世間に広く知られています。
<曲輪> くるわ
南北に細長い独立丘に築かれた城です。縄張りは連郭式。本丸から南側に二の丸と三の丸、北側に出丸らしき区画を設けています。
<本丸にて>
佐野市による発掘調査が行われ、この付近で石畳の通路・そして石垣が発掘されました。通路の側溝や、この傾斜付近には井戸跡も確認されています。城内の水事情、見てみたかったですね。調査が終わると、形状を損なわないよう埋めてしまったそうです。残念。
<目印として>
発掘された石の一部を並べて、調査で確認された通路に沿って並べてあります。ここかぁ〜。目印にはなりますね。この通路に、現代の道では当たり前の側溝があって、左手の斜面へ流れて行ったわけですね。
<暗渠>※ここは飛ばして読んで!
城山公園の斜面で撮影。現在の排水技術だとこうなりますが、調査で発見された側溝も同じ役割を担っていたのでしょうね。城も年々進化します。そういう細かさが、戦国期の城とはちょっと違う気がします。※ちょっとマニアック過ぎますね。探索している本人は、こんなことが気になって仕方ありません。
■ 築城から廃城まで ■
1602年から城の建設が始まり、1607年には城主・佐野信吉が唐沢山城から佐野城に移りました。ところが佐野氏は突然改易。おカネに関わる事件(大久保長安事件)に巻き込まれました。不正を疑われた者と親戚関係という理由です。佐野藩は廃藩。幕府直轄の地となりました(後に再興される佐野藩は佐野氏とは無縁の堀田氏です)。
唐沢山城の放棄に始まり、突然の領地没収および身分剥奪です。ケチばかりつけられる佐野信吉。これも豊臣系当主の宿命でしょうか。
■ つわものどもが夢の跡 ■
新たな城造りと平行して、町の整備も進んでいました。小さな藩の新たな希望。佐野信吉は、この城を中心とした城下町を築き、繁栄することを夢見たわけですね。
<石碑>二の丸への入口
築城開始から14年。佐野城は一部未完のまま廃城となりました。
-------■ 佐野城 ■-------
別 名:春日岡城
築城年:1602年(慶長7)
築城主:佐野信吉
城 主:佐野信吉
廃 城:1614年(慶長19)
[栃木県佐野市若松町]
[当ブログについて]
ごく普通の会社員が興味の情報を共有できればと思い運営している個人ブログです。素人が楽しんでいるだけですので、掲載されている内容につきましても、その程度であることをご理解願います。
お城巡りランキング
タグ:栃木