<石碑と枡形>入口
■名城の終焉■
戦国の世を生き抜いた唐沢山城。しかし当主の佐野信吉は、唐沢山の麓に新たな城を築きます。これが関ヶ原の戦いから2年後の1602年の話。歴代当主が守り続けた山城は、攻め滅ぼされることなくその歴史に幕を閉じることになりました。
なんで〜!
これには諸説あります
@江戸の大火の話
見晴らしの良い唐沢山城から江戸の火災を発見し、良かれと思って早馬で駆けつけたものの、逆に家康の不興を買った。「江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることか」ということです。
<天狗岩付近>
物見櫓があった付近です。眺めがいい。
江戸に限らず、あちらこちらが遠くまで見渡せます。情報のキャッチアップが早い。これはこの城の取柄でもありますので。
A山城禁止令
江戸から二十里(80q)四方は山城を禁止するという令がだされた。
<現地説明>
唐沢山城跡の案内ではその説を採用しています。
このほか、唐沢山城は天然の要害で、統治のための拠点としては不便だったという説もあります。そういう理由で使われなくなる城も確かにありますが、まだこの時期ですからね。この説はどうなんでしょうか。
当主が豊臣恩顧であることから警戒された。まぁ警戒されること自体は分りますね。@の「江戸の大火」の件ですが、佐野信吉は城そのものにケチを付けられた上に、無断で江戸に来たという点でも咎められました。駆けつけて消火活動にも参加してるんですがね。それでもケチがつく。合戦においては、呼ばれてないのに勝手に参戦し、大活躍して認められるなんて話も多いですが、そうはならない。家康は身内には人情味もありますが、天下を取るだけあって局面によっては非情。豊臣恩顧は、個別にどうであっても認めないのかも知れませんね。
まぁどれか特定の理由というより、ひと言では片付けられない複合的な理由があったのでしょうね。
<大炊の井>
水が枯れたことがない大井戸。籠城する兵たちの命を繋いできました。
普通に考えて、まだ戦国の余韻がぷんぷんと漂っているのに、同じ関東に難攻不落とまで言われた「外様」の城があるのは目障り。ストレートに言いにくくても、家康は難癖をつける天才ですからね。上杉征伐で挙兵したときも、言い掛かりを大義にしてしまいました。こののちの豊臣攻めも同じですね。佐野信吉が自主的に城を放棄したとしても、または正式に山城禁止令なるものがあったとしても、どちらも納得できます。
■つわものどもが夢の跡■
唐沢山城を居城としてきた佐野家。天下の覇権を争うほどの大きな勢力ではありません。だからこそ、長年にわたって強敵を退けたこの山城、そしてそのために終結した武将・城兵たちが愛おしく感じてなりません。世間に広く知られることもない兵ども。唐沢山の城跡はその夢の跡です。
----------■唐沢山城■----------
別 名:栃本城、根古屋城
築城者:藤原秀郷
築城年:927年(延長5)
改修年:1180年(治承4)
改修者:佐野成俊
再改修:1491年(延徳3)
改修者:佐野盛綱
城 主:佐野氏歴代
廃 城:1602年(慶長7)
[ 栃木県佐野市富士町 ]
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