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関城書 苦戦する関城から送られた北畠親房の書状 [2024/07/08 21:35]
(関城の追記です) <関城跡>せきじょう 茨城県筑西市の関城跡です。この城は南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となりました。戦いの最中に、籠城していた南朝方の重鎮・北畠親房は、白河の結城親朝に来援を求める書状を送っています。 ■関城書■ かんじょうしょ 関城書は関城に籠城していた北畠親房が、白河の結城親朝に送った書状です。結城親朝は南朝方の有力武将のひとりだった結城宗広の子で、宗広の病死(1338年)後、その動向が北朝方からも南朝方からも注目されていまし..
関城の天然堀 大宝沼のなごり [2024/07/07 22:05]
関城を訪問した帰り道、こんな標柱と出会いました。 <大宝城跡の標柱>だいほうじょうあと 大宝城跡?ここって城跡なの? 場所は関城跡の目の前です。 <関城跡> たったいま関城の南端の遺構を確認して… <下り坂> 微高地から低地へ降りたばかり… 関城の天然堀だった沼へ降り立ったことは意識していましたが、急に「大宝城跡」と言われても、意味が分かりませんでした。とりあえず現地からX(旧twitter)で冒頭の画像をアップ。すると、この付近に..
関城のなごり (筑西市) [2024/06/28 21:25]
つわものどもが夢の跡 南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となった城跡を訪ねました。 <関城>せきじょう ここは茨城県筑西市。旧関城町の城跡です。 ■ 南朝の城跡 ■ 関城の築城は鎌倉時代。名族・結城氏当主(朝広)の四男だった朝泰が、領地の一部を相続して関氏を名乗り、居城を築いた時から始まります。 南北朝時代に突入すると、本家の結城氏が北朝方だったのに対し、関氏は南朝方につきます。親戚関係ではありますが、利害が一致しなかったのでしょう。城主の関宗祐(せ..
劣勢の南朝を支え続けた北畠親房の足跡(筑西市)関城跡 [2024/06/23 21:10]
筑西市の関城は、南北朝時代に南朝の重鎮だった北畠親房が、歴史書・神皇正統記を完成させた場所としても知られています。 <北畠親房が入城した関城跡> 関城跡です。この付近が城の中心だったと思われます。 当時、関城の関宗祐・宗政親子は南朝方でした。北畠親房は同じく南朝方の小田城に入城していましたが、北朝方の激しい攻撃で小田治久が降伏したのをきっかけに、関城へ逃れます。関城は北朝方の標的となりながら2年にもわたって抵抗を続けます。北畠親房はその籠城期間に、既に取り掛..
関城の北を守った土塁跡(筑西市)関舘の八幡神社 [2024/06/17 21:40]
難攻不落と言われた関城の土塁が、良好に残っている八幡神社にお邪魔させて頂きました。 <鳥居> こちらです <八幡神社> 言うまでもなく、多くの武将から崇敬された八幡神を祀る神社です。 <拝殿> まずは手を合わせたものの、社殿裏手の土塁に気付いてしまっているので、やや興奮を抑えられませんでした。 <本殿と土塁> 関城の土塁跡です 関城は南北朝時代に戦乱に巻き込まれた城です。南朝方の重要拠点であったことから、北朝方の激しい攻撃..
関城を攻めた北朝軍のなごり(筑西市)関城坑道跡 [2024/06/16 21:35]
関城跡へ向かう道中、攻め手が掘った坑道跡に立ち寄りました。 <関城坑道跡>せきじょうこうどうあと まもなく関城到着という地点です。遥か彼方に筑波山。手前には説明板が設置されています。 <現地説明板> なるほど、分かりやすい ■高師冬による坑道跡■こうのもろふゆ 現地の説明文によれば、坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で掘られたようです。関城跡は南朝方の拠点です。説明文をそのまま引用させて頂くと『関城の物見やぐらを攻め落とすために抗夫を募って..
井上城のなごり(筑西市)北朝軍武将高師冬の本陣址 [2024/06/08 22:15]
つわものどもが夢の跡 南北朝時代に北朝方が拠点とした山城跡を訪ねました。 <井上城>いのうえじょう ここは旧真壁郡関城町。南朝方の関城を攻略するための臨時の城だったと考えられています。 南朝勢力を鎮圧すべく、北朝方は足利尊氏の重臣・高師冬を関東へ派遣。高師冬は巨大な沼(大宝沼)に囲まれていた関氏の城を攻略するために、約2q北のこの地に陣を敷いたと考えられています。 <現地説明板> 冒頭に『北朝軍武将高師冬の本陣址』と記されています。攻め手の本陣..
関城があった町だから関城町(筑西市) [2024/06/08 21:40]
<JR下館駅>しもだて 当ブログは下館城の投稿から始まりました。下館城跡の所在地は現在の筑西市、むかしの下館市です。下館の名は武士の館があったことに由来するため、『城跡好きとしては、この下館という文字が市の名前から消えてしまったのが残念』とコメントさせて頂きました。 <関東鉄道下館駅> JRから乗り換えて関東鉄道ホームへ 今回訪問を決めた関城跡も、現在の筑西市です。そしてむかしの関城町。名の通りで、関城があったことが町名の由来でした。 <関城..
もうひとつの栗橋関所跡(日光街道)房川渡中田関所跡 [2022/07/03 19:55]
日光街道の栗橋関所はじまりの地を訪ねました。 <中田御関所跡> こちらです。場所は現在の古河市中田。関所はまずここに設けられ、のちに利根川対岸の栗橋に移されたそうです。 <説明板> こちらに『房川渡と中田御関所跡』と題して詳細な説明が記されています。古河市教育委員会さんの文を以下に転記させて頂きます。 『江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で..
水戸城のなごり [2019/10/01 04:38]
つわものどもが夢の跡 水戸徳川家の居城跡を訪問しました。 <大堀切> 二の丸と本丸を隔てる大堀切跡です。なんという高低差!ここまでとは思っていなかったので、しばし見惚れました。 ■常陸江戸氏の居城■ 水戸城と言えば徳川御三家の一つである水戸徳川家の居城として有名ですね。ただ城そのものの歴史は相当長く、築城は平安時代末期又は鎌倉時代初期頃まで遡ります。常陸国の武将で源頼朝に従った御家人・馬場資幹(すけもと)がこの地に城を築いたのが始まりと言う説が一般的です。馬..
笠間城のなごり [2019/09/14 23:17]
つわものどもが夢の跡 茨城県の低層の山に築かれた笠間城跡を訪ねました。 <佐白山の城跡>さしろさん 標高約2百mほどの佐白山。この山を利用した笠間城跡には、何となく中世の雰囲気も漂っていましたが、実際には江戸時代も使用され続けた城跡です。笠間藩の藩庁が置かれていました。画像は山頂近くの八幡台櫓跡。 ■宇都宮氏から始まる城■ この地に最初に城を築いたのは、下野国の名門・宇都宮氏の一族でした。鎌倉時代、この付近で寺同士の勢力争いがあり、その片方から援軍を依頼..
路傍の巨大石 笠間の大黒石 [2019/09/14 22:37]
今回は笠間城訪問時に出会った巨大な石のお話です。 <路傍の巨大石> なんだこりゃ? 汗だくになりながら呆然と歩いていましたが、あまりのデカさに正気に戻りました。 ■大黒石■ だいこくせき 訪問したのは笠間城が築かれた佐白山。低層の山とはいえ7月中旬の晴れた日にオッサンが登るには厳しい道のりでした。 ここを曲がればあと少しか もう少しで城跡の入口付近というあたりで、突如道路脇に現れたのが今回ご紹介の巨大石です。 <大黒石> ..
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