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関城のなごり (筑西市) [2024/06/28 21:25]
つわものどもが夢の跡 南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となった城跡を訪ねました。 <関城>せきじょう ここは茨城県筑西市。旧関城町の城跡です。 ■ 南朝の城跡 ■ 関城の築城は鎌倉時代。名族・結城氏当主(朝広)の四男だった朝泰が、領地の一部を相続して関氏を名乗り、居城を築いた時から始まります。 南北朝時代に突入すると、本家の結城氏が北朝方だったのに対し、関氏は南朝方につきます。親戚関係ではありますが、利害が一致しなかったのでしょう。城主の関宗祐(せ..
劣勢の南朝を支え続けた北畠親房の足跡(筑西市)関城跡 [2024/06/23 21:10]
筑西市の関城は、南北朝時代に南朝の重鎮だった北畠親房が、歴史書・神皇正統記を完成させた場所としても知られています。 <北畠親房が入城した関城跡> 関城跡です。この付近が城の中心だったと思われます。 当時、関城の関宗祐・宗政親子は南朝方でした。北畠親房は同じく南朝方の小田城に入城していましたが、北朝方の激しい攻撃で小田治久が降伏したのをきっかけに、関城へ逃れます。関城は北朝方の標的となりながら2年にもわたって抵抗を続けます。北畠親房はその籠城期間に、既に取り掛..
関城の北を守った土塁跡(筑西市)関舘の八幡神社 [2024/06/17 21:40]
難攻不落と言われた関城の土塁が、良好に残っている八幡神社にお邪魔させて頂きました。 <鳥居> こちらです <八幡神社> 言うまでもなく、多くの武将から崇敬された八幡神を祀る神社です。 <拝殿> まずは手を合わせたものの、社殿裏手の土塁に気付いてしまっているので、やや興奮を抑えられませんでした。 <本殿と土塁> 関城の土塁跡です 関城は南北朝時代に戦乱に巻き込まれた城です。南朝方の重要拠点であったことから、北朝方の激しい攻撃..
関城を攻めた北朝軍のなごり(筑西市)関城坑道跡 [2024/06/16 21:35]
関城跡へ向かう道中、攻め手が掘った坑道跡に立ち寄りました。 <関城坑道跡>せきじょうこうどうあと まもなく関城到着という地点です。遥か彼方に筑波山。手前には説明板が設置されています。 <現地説明板> なるほど、分かりやすい ■高師冬による坑道跡■こうのもろふゆ 現地の説明文によれば、坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で掘られたようです。関城跡は南朝方の拠点です。説明文をそのまま引用させて頂くと『関城の物見やぐらを攻め落とすために抗夫を募って..
井上城のなごり(筑西市)北朝軍武将高師冬の本陣址 [2024/06/08 22:15]
つわものどもが夢の跡 南北朝時代に北朝方が拠点とした山城跡を訪ねました。 <井上城>いのうえじょう ここは旧真壁郡関城町。南朝方の関城を攻略するための臨時の城だったと考えられています。 南朝勢力を鎮圧すべく、北朝方は足利尊氏の重臣・高師冬を関東へ派遣。高師冬は巨大な沼(大宝沼)に囲まれていた関氏の城を攻略するために、約2q北のこの地に陣を敷いたと考えられています。 <現地説明板> 冒頭に『北朝軍武将高師冬の本陣址』と記されています。攻め手の本陣..
関城があった町だから関城町(筑西市) [2024/06/08 21:40]
<JR下館駅>しもだて 当ブログは下館城の投稿から始まりました。下館城跡の所在地は現在の筑西市、むかしの下館市です。下館の名は武士の館があったことに由来するため、『城跡好きとしては、この下館という文字が市の名前から消えてしまったのが残念』とコメントさせて頂きました。 <関東鉄道下館駅> JRから乗り換えて関東鉄道ホームへ 今回訪問を決めた関城跡も、現在の筑西市です。そしてむかしの関城町。名の通りで、関城があったことが町名の由来でした。 <関城..
暗渠と城跡11 川口川と土浦城 [2017/09/15 23:10]
土浦城跡探索の帰り 水郷に相応しい城下町のなごりを探索しました。ただの散歩ですが、こだわるところはこだわって。 ■川の無い橋■ まず城付近でこんな橋を発見 <お志ろはし> お城の水堀と繋がっている水路があった。そう思われます。橋だけが残り、水路の姿はありません。いわゆる暗渠(あんきょ)です。ここ土浦は、こういう痕跡がところどころに残されています。 <道路のひび割れ> 歩道だけでなく、車道も同じ方向に向かってひびが入ってますね。道の下の構造が、他の..
水郷の平城 土浦城のなごり [2017/09/14 22:14]
つわものどもが夢の跡 水郷の城・土浦城跡を訪ねました。 <本丸櫓門>やぐらもん 櫓の二階に設置した太鼓で時を知らせたことから太鼓櫓門とも呼ばれたそうです。 ■築城から戦国期■ 小田氏領有 室町時代の中期、地元豪族の小田氏に属する若泉三郎(または今泉三郎)が城を築いたことが始まりと考えられています。それ以前に、平将門が砦を築いたという伝説もあります。それが事実なら最初の築城は平安時代末期ということになりますが、明確な文献がなく、若泉三郎築城とするのが一般的..
鮭延秀綱の軌跡(鮭延城から鮭延寺) [2017/08/11 23:52]
戦国武将好きです。今回は鮭延秀綱(さけのべひでつな)について。ややマイナー武将ですが、知る人ぞ知る出羽の名将です。 ■旅の始まり■真室川町 <鮭延城跡> [山形県最上郡真室川町] 秀綱居城の入り口。山城です。 <山城探索> かなり「放っとかれた状態」でした。苔類がクッションになり、踏みつけるのが心苦しいくらいです。 中世末期、出羽国北部を支配した鮭延氏の居城です。築城時期は不明。真室川を望む高台にあり、別名は真室城。出羽の名将・鮭延秀綱の歴史..
孤立した遺構と城のなごり(古河城)獅子ケ崎 [2017/05/10 22:04]
■ 古河城訪問・追記 ■ 名城古河城は、本丸跡を含めてそのほとんどが渡良瀬川改修工事により河川敷となりました。川とは逆方向(東側)で、やや離れた場所に配置されていた出城(諏訪曲輪)は取り壊しを間逃れ、開発の波に曝されながらも城のなごりを留めています。 私の古河城訪問記はこの「本丸跡」と「出城(諏訪曲輪)」で終了。そのつもりでした。でも現地をてくてくと歩き回り、「はっ」とした光景がもう一か所ありますので追記させて頂きます。 <獅子ケ崎土塁> ただの竹藪?では..
幻の城の出城跡(古河城)諏訪曲輪 [2017/05/09 22:13]
この地は室町時代から「古河城」の城下町として栄えた街。歴史ある名城は川の改修工事で全て失われましたが、堀の外に設けられていた「出城跡」が街なかに残されています。連郭式の巨大な古河城の縄張りから、ちょっとはみ出た曲輪。その唯一残された「つわものどもが夢の跡」を訪ねました。 <古河城出城諏訪郭>すわくるわ 石碑に刻まれた文字で、ここが出城に間違いないと確信。古河城全体から見れば曲輪の一部ですが、南北に長い縄張りにあって、ここだけ堀を越えて大きく東側に突き出すように配置..
幻の名城を訪ねて(古河城)本丸跡 [2017/05/08 22:02]
つわものどもが夢の跡 そのほとんど全てが川に沈んだ名城を訪ねました。 <本丸跡> ここは渡良瀬川東岸。茨城県古河市です。本丸跡・・・ですが何もありません。 明治初期の大規模な河川改修事業により、城は徹底的に破壊されました。今はこの角材、そして案内板が残るのみです。 長い歴史、そして名城と賞される古河城があったとは思えない光景ですね。 ■ 渡良瀬川 ■わたらせがわ 渡良瀬川の水は、現在の栃木県と群馬県の県境付近を流れ、埼玉県と千葉県の県境近..
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