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伊達政宗生誕の地(米沢城) [2024/08/17 20:45]
戦国武将・伊達政宗は米沢城で生まれました。 <伊達政宗公生誕の地> 米沢城本丸跡の伊達政宗生誕地の石碑。米沢はもともと伊達家の領地でした。 ところが… 最近では、伊達時代の「米沢城」は、現在の米沢城より西方の舘山城の近くに存在したのではないかといわれ始めています。ちょっと言い換えると、伊達政宗の生誕地が米沢城なのはいいとして、当時の米沢城はどっちなのかということになります。その結果、同じ米沢市で、現在の米山城と舘山城の双方が「伊達政宗生誕の地」をアピールしてい..
竹に雀 類似した伊達家と上杉家の紋 [2024/08/17 20:30]
<米沢城本丸跡> ここ米沢城を居城とした伊達家と上杉家の紋は、どういう訳か似ています。両家ともに「竹に雀」の紋。歴史ファンにはよく知られていることですが、その経緯について、詳しい説明を記した説明板をみかけましたのでご紹介させて頂きます。 <説明板> こちらです。上杉家廟所・米沢城と舘山城、そして上杉家と伊達家の紋について説明がなされています。 <よく似た「竹に雀」> 左側が家紋に関する説明です。一部を下記に転記させて頂き来ます(『』内は原文のまま..
草木塔(米沢市)石碑に込められた畏敬の念 [2024/08/13 20:10]
<草木塔>そうもくとう 米沢市の松が岬公園で撮影した草木塔。草木への感謝の念を記した石碑です。諸説ありますが、草木塔のはじまりは、江戸の米沢藩邸焼失(1772年)や、米沢城下の大火(1780年)により、山林の木々が大量に伐採されたことがきっかけとなったようです。この時の藩主は、米沢藩の中興の祖となる上杉鷹山でした。 <石碑と説明板> 説明板が設置されています。引用しながらご紹介させて頂きます(『』内は原文)。 『草木塔は、江戸時代中期の安永9年(1780)..
前田慶次ゆかりの資料館(米沢市)宮坂考古館 [2024/08/01 21:40]
米沢市の宮坂考古館を訪問しました。 <宮坂考古館> 宮坂考古館には、初代館長が長年かけて収集した米沢ゆかりの貴重な資料、甲冑や火縄銃といった文化財が収蔵されています。 <公益財団法人> 郷土史の研究に熱心だった館長は、旧米沢藩の文化財が、散り散りになったまま行方がわからなくなることを惜しみ、その収集と保存に力を尽くしたそうです。個人で始めた資料館は、いまは公益財団法人となっています。 <考古館入口> その集大成を、我々は見学することができる..
2024年(令和6年)米沢詣での帰り道 [2024/07/31 05:00]
猛暑がつづく7月下旬、また「米沢詣で」をしてきました。 <米沢駅> 8時半には既に米沢に到着していました <松が岬公園>まつがさき いつも通り、まずは松が岬公園へ。米沢城の本丸跡です。 <懸かり乱れ龍>かかりみだれりゅう 力強く柔らかな字体で記された龍のひと文字。不動明王を表しています。上杉謙信が掲げた軍旗が風になびいていました。 <英雄たちの像> 上杉の英雄たち。そして上杉神社の鳥居 <上杉神社> ここは特別な場所..
2024年(令和6年)の幕開け  [2024/01/01 00:02]
今年は辰年ということで、大雪の米沢で撮影した上杉謙信の軍旗を掲げてブログをスタートさせて頂きます。 <懸かり乱れ龍>かかりみだれりゅう 龍の一文字。この流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と呼ばれています。 越後の龍と呼ばれた謙信の旗ですから、龍そのものを指していると長らく思っていました。ただ、この文字に込められた本当の意味は不動明王だそうです。謙信の軍旗としてもうひとつ有名なのが「毘」の一文字を記した旗。これはそのまま毘沙門天を表しています。 不動..
熊野大社(南陽市)直江兼続も関わった東北の伊勢 [2023/12/31 20:30]
2023年の晩秋、東北の伊勢とも呼ばれる山形県南陽市の熊野大社へ行ってきました。 <熊野大社>くまのたいしゃ 和歌山県の熊野三山、長野県の皇大神社とともに、日本三熊野のひとつとされています 熊野大社は806年(大同元年)に平城天皇の勅命で再建されたと伝わる歴史ある神社です。長い歴史のなかには、米沢藩の礎を築いた重臣・直江兼続が大旦那となり、社殿の修復が行われたこともありました。これが1604年(慶長9年)のお話。主である上杉景勝が、徳川家康を敵に回した代償と..
出羽国の戦国武将・最上義光ゆかりの寺院(山形市)光禅寺・常念寺・専称寺 [2023/09/27 22:00]
最上義光ゆかりの寺院で、当ブログに掲載させて頂いた内容を下記にまとめました。 ■ 光禅寺 ■ こうぜんじ [山形県山形市鉄砲町] 2丁目 最上家11代当主にして山形藩初代藩主・最上義光の菩提寺です。同時に、次男の家親(2代藩主)と孫の義俊(3代藩主)の菩提寺でもあります。 『→記事へ進む』 ■ 常念寺 ■ じょうねんじ [山形県山形市三日町]2丁目 山号は義光山。最上家12代当主になるはずだった最上義光の長男・義康の菩提寺です。 ..
最上家の祖となった斯波兼頼の墓(山形市)光明寺 [2023/09/25 22:30]
最上家初代当主である斯波兼頼の墓所を訪ねました。 <斯波兼頼墓所>しば かねより 山形市七日町の光明寺です。 <足利二つ引き>あしかがふたつひき 足利一門である証がひときわ目をひきます。斯波兼頼は八幡太郎の名で知られた源義家から11代目の子孫。奥州探題斯波家兼の次男としてこの世に生をうけた正真正銘の源氏です。 <光明寺縁起>こうみょうじ 光明寺の創建は1375年(永和元年)。兼頼本人が、自ら築城した山形城内に草庵を設けたのが始まりとされ..
出羽の虎将・最上義光の菩提寺(山形市)光禅寺 [2023/09/24 22:30]
最上家11代当主・最上義光の菩提寺を訪ねました。義光は出羽国の小勢力となっていた最上家を、たった一代で全国有数の大大名に押し上げた戦国武将です。あの伊達政宗の叔父に当たります。 <光禅寺>こうぜんじ 山形市鉄砲町にある曹洞宗の寺院です <光禅寺境内> 荘厳の境内。凛とした空気が漂います 光禅寺は最上義光が1602年(慶長7年)に向川寺九世春林禅寺冬和尚を拝請して開創した時に始まります。当初の名は慶長寺でした。最上義光の葬儀も「慶長寺」の時に行..
お彼岸に造立された卒塔婆(永和の板碑)山形城で出家した斯波兼頼のなごり [2023/09/23 21:30]
最上義光の菩提寺として訪問した山形市の光禅寺で、「永和の板碑」と紹介されている板碑を目にしました。 <永和の板碑>えいわのいたび こちらです。ここは墓所ですので、どなたかの墓石と思って近寄りましたが、説明板を見て板碑だとわかりました。 <説明板> 板碑と聞くと、もう少し平べったい板状の石を想像してしまいますが、板碑で間違いないわけですね。説明文を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。 『碑面上部に阿弥陀如来の種子(梵字)キリークと、..
悲運の大器・最上義康の供養塔(山形市)義光山常念寺 [2023/09/21 20:45]
出羽の虎将・最上義光の嫡男・義康の菩提寺を訪ねました。 <常念寺>じょうねんじ 山形市三日町の常念寺です <最上義康供養塔> こちらが最上義康の供養塔です。背景に映っている墓所は少し加工させて頂きました。 供養塔は比較的新しいです。最上義康四百年忌として2002年(平成14年)に建立されたとのこと。境内奥ではなく、門を通ってすぐのところにあるのも納得です。 <最上義光公嫡男> 義康は山形城主最上義光の嫡男として生まれました。父は豪快にして..
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