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暗渠と城跡38 福島城内堀跡と土塁のなごり [2024/08/03 21:10]
<福島城内堀土塁>
こちらの画像は福島市内で撮影しました。奥は小学校の校舎、手前の盛り土は福島城の土塁堀跡です。
土塁は、川から水を引き込んだ内堀に沿って設けられていましたが、今は街中から消しました。ですから、ごく一部とはいえこうして残っていることは貴重なことです。
同じく、土塁とセツトの内堀も埋められてしまい、今はその姿を確認することはできません。
ただし
そのなごりを感じることはできます。
<土塁の西側>
先ほどの土塁の西側。城の内側..
暗渠と城跡37 道路沿いの住宅に漂う岩槻城大構のなごり [2024/02/18 22:20]
鎌倉時代以前に築かれたとされる武蔵国の岩槻城は、戦国時代末期には、城だけでなく、城下町の外周も堀や土塁で囲む総構(そうがまえ)の構造となっていました。ここ岩槻では、総構のことを大構(おおがまえ)といいます。今回はその「大構」のなごり(?)ではないかという道路沿いの風景に触れさせて頂きます。
ここは大構の遺構として知られる場所です。都市化にともない、街なかの堀は埋められ土塁もほとんどが取り崩されましたが、ここだけは残っています。
コンクリで固められていますが..
暗渠と城跡36 金沢城の外堀を潜った導水路のなごり [2023/10/28 21:05]
今回は、台地上に築かれた金沢城に水を供給した用水の話です。市内を散策中にこんな光景と出会いました。
<石管と説明板>
なんだろう
説明板には、金沢市内を流れる辰巳用水と、石管に関する説明が記されています。少し抜粋させて頂きながらご紹介します(『』内は原文の転記です)。冒頭に『寛永八年四月(一六三一年)に城下から出火、当時水利の便に悪かった金沢城が全焼した』とあり、これが用水を造るきっかけとなったと記されています。この惨事に対し『翌九年に三代藩主前田利常は十キ..
普通の道にしか見えない堀跡(金沢市)暗渠と城跡35 西内惣構のなごり [2023/10/14 22:10]
金沢市内には、藩政時代に造られた用水が、網目のように張りめぐらされています。その一部は、金沢城総構えの堀、つまり城下町防御の役割を兼ねていました。
<西町藪ノ内通>にしちょうやぶのうちどおり
ここは交通量の多い国道157号と並行する裏通り。何の変哲もない道ですが、ここにもかつては堀の役割を担った用水がありました。地下に埋設、つまり暗渠化されて地表からは姿を消しましたが、この道そのものが、そのまま用水の流路なのです。
別な言い方をすると、ここが「西内惣構堀」と..
暗渠と城跡34 渋取川と蓮上院土塁(小田原市) [2023/04/30 22:25]
小田原城総構の東側の堀跡と土塁跡の話です。
<蓮上院土塁>れんじょういん
すっかり市街地化された小田原市内に残る土塁跡です。豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)の際に小田原北条氏が築いた総構の一部で、近くの寺院の名から蓮上院土塁と呼ばれています。小田原城の痕跡は丘陵地帯に数多く残されていますが、街の開発が進む平野部に残された土塁はとても貴重です。
<土塁の窪み>
土塁が凹んでいる場所があります。土塁に何らかの建物を築いた跡かと思いきや、現地説明板によれば..
暗渠と城跡32 (岩槻)横矢掛かりの暗渠 [2023/02/12 21:35]
岩槻の街中でこんな光景を目にしました。
<クランク>
ただの曲がった道?ではありますが、この道は堀の跡です。
城下町で道が曲がりくねっていること自体は決して珍しくありません。外敵の侵入に備えて、直進を防ぎながら見通しも悪くする工夫のなごりですね。ただ、ここはもともと堀が設けられていた場所です。堀とセットで、土塁や塀なども設けられていたことでしょう。城でよく見かける横矢の意味があったのかもしれませんね。
横矢?
これはそのまま「よこや」と読みます。..
暗渠と城跡31 (岩槻)堀の暗渠と土塁の暗渠 [2023/02/12 21:23]
城そのものだけではなく、城下町の外周も堀や土塁で囲む総構え。久しぶりの訪問となった岩槻の街中で、こんな光景を目にしました。
<堀跡と土塁跡>
すごい眺めだな
これもかつての岩槻城総構えのなごりです。右手の道はかつての堀跡。左手の坂はかつての土塁上へつながる道です。
岩槻の街中には、あちらこちらで堀の痕跡を目にすることができます。
こんな感じで
ここも
すべてかつて堀があった場所です。大半は埋められてしまっているので、ただの通り..
消えた三の丸堀跡と土塁跡(小田原城)暗渠と城跡30 [2023/01/28 22:40]
今回は小田原城の北側の堀跡と土塁跡の話です。
<土塁跡>
市街地化された場所に堂々と残る土塁。小田原城三の丸の土塁跡です。現地は細長い公園のようになっています。
<説明板>
通りに面したところにこの説明板が設置されてなければ、素通りしてしまったかもしれません。奥の土塁より、武田信玄・上杉謙信の顔が目に入ったというのが正直なところです。小田原城主北条氏康は、一番最後に気付きました。主役なのに失礼しました。
説明文の前半を以下に転記させて頂きます。
『この..
水の道のなごり(神田上水跡)暗渠と城跡29 [2021/10/21 22:01]
文京区春日の徳川慶喜屋敷跡へ向かう途中で、自分の歩いている道がそのままかつての水路であることに気付きました。きっかけは通りに設置された説明板です。
<神田上水説明板>
神田上水?ここが?
神田川を通り越し、やや高い場所を歩いている感覚だったので、水の道が通っていることに一瞬戸惑い、よくよく考えて納得しました。水は低い方へ流れるだけ。人の暮らしを支えるために、台地の端を縫うように水路が築かれたわけですね。これなら高い場所にも生活水がいきわたります。
<金..
暗渠となった堀のなごり(法音寺城跡) 暗渠と城跡28 [2021/09/18 20:50]
本来そこにあったものの余韻が漂う。人がそれを感じ取るアンテナはたくさんあるかと思いますが、今回は舗装された道路の表面に感じる城のなごりの話です。訪ねたのは栃木県野木町の法音寺城跡です。
まずは一目瞭然の城のなごりから
<土塁>
土塁跡です。手前側が城内で、土塁の向こう側、つまり外側には堀が設けられていました。
<土塁の向こう側>
ちょっと分かりにくいですが堀跡です。
つづきまして
<法音寺境内の堀跡>
こちらは法音寺の境内(裏手)の竹林..
暗渠と城跡27 そこにあったもののなごり [2020/09/08 22:30]
今回は、城跡好きがなぜか暗渠に魅かれる理由(の一つ)をご紹介できればと思い、二つの画像を用意しました。
<護岸の跡>
このコンクリの道はもともと水路でした。道の隅(左手)に残っているのは護岸の跡です。暗渠化工事の際に、構造上の理由から護岸はそのままにして水路が埋められため、こうして跡が残っています。
<見附跡>
川の側面に昔の石垣が残されています。かなり高い位置まで積まれていますね。これは江戸城の城門の跡です。痕跡からして『桝形門』という立派な構造だっ..
暗渠と城跡26 堀跡を歩く(岩槻) [2020/07/31 23:35]
<堀跡>
城下町ごと堀や土塁で囲む岩槻城の大構え。ここは岩槻城大構えの最南端の堀跡です。場所は富士浅間神社の西側の道です。
前回の投稿と同じ場所では?
はい、同じです
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前回は街探索のお仲間と訪問していたので、探索はここまででした。日を改めて独りで訪問し、もうちょっと奥まで歩いてみました。この日は他も回りたかったので、本当にちょっとだけですが
<富士浅間神社>ふじせんげんじんじゃ
岩槻太田氏ゆかりの神社です。
この..
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