2021年08月28日
竹之内街道【推古陵、陽明陵、小野妹子墓、孝徳天皇陵】
推古陵と用明陵
蘇我馬子の妹の堅塩媛(きたしひめ)と欽明天皇との間に生まれた用明天皇と妹の推古女帝、ともに蘇我氏の血をうけている。そうした関係で、蘇我氏の本貫地であるこの科長の里に葬られたのであろう。
馬子が天下の実権を握った上では、皇室の外戚として同じ血を引く天皇を立てることは当然である。用明天皇は67歳で皇位につかれたが、1年半ほどで崩御された。そこでつぎの子姉君(おあねのきみ)が生んだ崇峻天皇を即位させる。しかし、馬子の言うことを聞かなかったので殺される。当然、つぎは用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)を立てるべきであったが、馬子は推古女帝を即位させた。
用明天皇陵は、遺跡名は「春日向山古墳」で、一辺約60メートルの方墳である。
推古天皇陵は、
推古天皇が竹田皇子の墓に合葬するように遺詔したことから、推古天皇陵とし竹田皇子(敏達天皇との皇子)と合葬されてる。
なお、現陵の一帯ではほかに敏達天皇陵・聖徳太子墓・孝徳天皇陵があり、推古天皇陵・用明天皇陵を加えたこれら5陵墓は梅花になぞらえて「梅鉢御陵」とも称される。
推古天皇磯長山田陵(太子町科長)
用明天皇河内磯長原陵
小野妹子墓
科長(しなが)の里はまだ山里のおもむきを残している。その細い道を登っていくと、切妻の家が並ぶ道角に、「右 小野妹子墓」と彫った道しるべの石柱が立っている。さらに道は狭くなり、曲がりくねった道が高台へとみちびく。式内の科長神社の横を、見上げるほどの石段を登りつめると、そこに妹子の塚がある。
推古朝に小野妹子は2回、遣隋使として派遣された。隋の文化に憧れを抱く聖徳太子の夢を、小野妹子は背負って遠く海を渡った。翌年、使者の裴世清が来朝するが、隋との交通が開かれたことで、難波の津と飛鳥の都を結ぶ竹之内街道が計画され、21年に完成する。
小野妹子
蘇我倉山田石川麿墓
科長の里の山田という集落の中に、仏陀寺という寺がある。その片隅に◯室横口式石棺の上部が、椿の大樹の根元に露呈している。蘇我一族でありながら、中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を誅する謀議に加わった悲劇の人物の墓である。しかしその功により、クーデターののちには右大臣となっている。が、しかし、すぐに異母弟の蘇我臣日向に讒訴され、妻子とともに自害し、遺骸は故里のこの地に葬られた。
蘇我倉山田石川麿墓(太子町山田)
孝徳天皇陵
科長の里に入った竹之内街道が、むかしのままの細い道幅を残す傍に、大化の改新(乙巳の変)を行った孝徳天皇の陵墓がある。中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を誅し、皇極天皇は退位された。天皇はわが子の中大兄皇子を即位させたいと願われたが、クーデターの直後だけに、世間をはばかり、間をおいて、孝徳天皇を即位させた。乙巳の変は中大兄皇子と鎌子の計画によるもので、天皇は難波宮でひとり淋しく崩御された。
孝徳天皇大坂磯長陵(太子町科長)
By やまと まほろば通信
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