2020年05月17日
奈良の寺院建築
仏教が公伝された552年から大陸との交流を通じて建築技術が徐々に伝わってきました。日本古来の建築については、地中に埋めて立てる掘立柱に桁、梁を取り付け、軒反りのない直線的な屋根は茅、板、杉皮や檜皮などの植物性材料を用いて葺いていたと考えられ、遺跡の発掘調査によって少しずつ究明されてきましたが、その全容は、まだはっきりとわかっていません。百済の工人によって伝わった朝鮮半島の建築技術は、基壇を築き、礎石を据え、柱を立て、軒反り、屋垂みのある屋根は瓦で葺かれていました。
【 伽藍配置 】飛鳥寺式
明日香村にある飛鳥寺は六世紀末に建てられた本格的な仏教寺院で、仏舎利を納める塔を中央に建て、金堂は塔を囲むように東側、西側、北側の三方に配しています。七世紀後半までに創立された寺院では塔が最も重要な要素でしたが、現在これらの寺院は遺跡として知られるだけです。その後、塔と金堂は並列配置で伽藍内に配されるようになります。その遺構としては、法隆寺西院の金堂と五重塔があります。
【 伽藍配置 】法隆寺式
法隆寺西院の金堂、五重塔、中門、廻廊は飛鳥様式といわれる建築様式で建てられています。柱には胴張り(エンタシス)が見られ、軒の組物は複雑な曲線をもつ特異な形を示す雲斗(くもと)・雲肘木(くもひじき)が用いられ、軒は一軒となっています。
法隆寺金堂(飛鳥様式)
大斗の上の雲型斗栱(雲斗+雲肘木)が代表的な特徴。柱のふくらみはエンタシスと呼ばれる。
このような飛鳥様式の古建築は斑鳩の法隆寺と法起寺にしか見られません。
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薬師寺(これは西塔)白鳳様式
唐招提寺金堂 天平様式
奈良時代になると薬師寺東塔や唐招提寺金堂のような白鳳様式や天平様式(唐様)の建物が建てられます。柱の胴張りは徐々になくなり、組物は明快な形の斗と肘木の組み合わせで構成され、軒は断面円形の地垂木(じだるき)と角形の飛檐垂木(ひえんだるぎ)で造られた二軒となり、意匠はもちろん基本的な構造は飛鳥様式とは異なっています。
薬師寺東塔(古式な三手先斗栱)
深い軒を支えるため、尾垂木を受ける肘木が増え、そのせり出しが三つのものが三手先。奈良時代から用いられた。
【 建築の構造 】
このような建築様式の違いは、飛鳥時代の建築は朝鮮半島から技術が伝わり、奈良時代の建築技術は遣唐使を通じて直接唐から伝わったことによるといわれていますが、何れにしても源流は中国から伝わり発達したものであるといわれています。
飛鳥時代や奈良時代の建築には高床がなく、土間が一般的でした。(但し、東大寺法華堂正堂や住宅遺構である法隆寺東院伝法堂には板床があり特異な例です。)柱は太く、軒桁は断面円形で、虹梁(こうりょう)と呼ばれる梁は伸びやかな曲線をしめしています。金堂は仏堂の安置空間として建てられ、礼拝は堂外や礼堂から行われていたとされています。唐招提寺金堂や元禄宝永に再建された東大寺金堂などは南側に礼拝空間としての広い前庭が広がり、廻廊で囲まれています。
東大寺法華堂は法隆寺食堂(じきどう)及び細殿(ほそどの)のような双堂形式の礼堂が南側に軒を接して建てられていましたが、鎌倉時代に礼堂を建て替え、正堂と一体化されました。
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奈良時代後期から平安時代にかけて建築技術は我が国の中で独自の発達を示し、仏堂は仏だけの空間から仏と人間が共存する空間へと変化し、日本の風土・気候・習慣などと融合した建物が造られるようになります。いわゆる建築の国風化です。基壇の代わりに亀腹(かめばら)が築かれ、土間から高床形式へ、そして建物の周囲には縁が廻り、建具も蔀戸(しとみど)が多用され住宅的な要素が強くなってきます。平安時代前期の室生寺金堂にその傾向が見られます。
亀腹
蔀戸
正暦元年(990)建立の法隆寺大講堂で初見する野屋根構造は平面計画の自由化を促進し、仏の空間であった堂内に礼拝空間や参籠(さんろう)空間が誕生します。
永暦二年(1161)の當麻寺本堂や鎌倉時代の長弓寺本堂、霊山寺本堂、室町時代の松尾寺本堂、瑞花院(ずいけいん)本堂、不動院本堂は中世仏堂と呼ばれ、堂内は外陣、内陣、脇陣に区画されています。
平安時代末の治承四年(1180)、平重衡(しげひら)による南都焼討ちで東大寺、興福寺の主要建造物は焼失しました。東大寺の復興は俊乗房重源が大勧進となり、中国工人陳和卿(ちんなけい)の協力を得て南宋の建築様式である大仏様で築かれました。その遺構として、東大寺南大門、東大寺開山堂内陣、東大寺法華堂礼堂等があり、重源の跡を継いだ栄西(えいさい)は東大寺鐘楼を再建しました。
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大仏様建築は太い丸柱を一定の断面を持つ貫で幾段も通して繋ぎ、断面円形の太い虹梁をのせて屋根を支えています。東大寺南大門を内部から見上げれば、大仏様の構造美は直ちに理解できます。重厚な軸部に対して、扉は軽快な桟唐戸(さんからど)で、貫や肘木端部に繰形を施して装飾する。大仏様はこれまで我が国で育まれた建築様式とは異なり、豪快な構造美を全面に出す技法で、繊細な表現を好む日本人にはなかなか受け入れられなかったようです。しかし、貫を使用した堅固な構造、桟唐戸、貫などの端部に施す装飾的な繰形などの技法は、東大寺復興に従事した工匠たちによって、和様建築の中に取り入れられ、南都から畿内へ、そして瀬戸内へ伝わったようです。
東大寺南大門(大仏様)
肘木が六段に積み重ねられた六手先。柱に直接肘木を差し込む挿肘木は、大仏様の代表的な特徴。
元興寺極楽坊本堂
元興寺(がんごうじ)極楽坊本堂、唐招提寺鼓楼(ころう)、長弓寺本堂、霊山寺本堂、薬師寺東院堂といった鎌倉時代を代表する建築には貫、木鼻(きばな)、桟唐戸といった大仏様系の技法が見られ、また後の時代にも大規模建築が建てられるときには大仏様が用いられました。
桟唐戸
興福寺の復興は京下工(きょうげのたくみ)、官行事所工(かんのぎょうじどころのたくみ)、興福寺工が建物を分担して行っています。鎌倉時代に復興された建物で現存するのは北円堂と、三重塔のみです。
興福寺 北円堂
北円堂の再建は興福寺工と官行事所工が協力して行なっています。復興は前代を踏襲した建築様式である和様で行われましたが、構造強化のため見え隠れ部には貫が使用され、大仏様の新技術を取り入れています。
三重塔は建立年代が明確ではありませんが、鎌倉時代前期に再建されています。その外観は北円堂や応永年間に再建された東金堂、五重塔に比べて優雅で繊細であり、平安時代に発達した繊細な和様建築の気風を伝えています。このように興福寺に見られる建築は伝統的な和様を基調としたもので、伝統を重んじる興福寺の気風が感じられます。
東大寺や興福寺の復興は南都の建築界を活気づけ、建築技術の発達を促しました。このことと南都仏教を復活させた西大寺の叡尊(えいそん)を筆頭とする高僧たちの出現によって、南都寺院の建物の再建や修復が活発に行われるようになりました。
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鎌倉時代における南都の建築で忘れてはならないもう一つの出来事は、僧房の再建と改築です。僧房は僧侶の規律ある集団生活の場で、奈良時代の寺院にはなくてはならない施設でしたが、九世紀に伝来した密教は山岳に拠って任意に子院を構えたり、貴族の子弟が境内に別院を構えたりして僧房の必要性が少なくなり、僧房本来の姿は変わってきました。鎌倉時代には、僧房はその機能が消失し、他の機能をもつ建築に改修、または建て替えられました。
法隆寺東室(ひがしむろ)は奈良時代の僧房の遺構ですが、その南端部を聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)に建て替えています。また、法隆寺三経院(さんぎょういん)及び西室や唐招提寺礼堂は鎌倉時代に僧房に建て替えたもので、元興寺極楽坊本堂や禅室は奈良時代の僧房を改造した遺構です。このように僧房の一部を念仏を講じる建物や、寺院の開山を祀る空間に変化させています。
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法華寺本堂
法華寺鐘楼
室町時代は先に述べた中世仏堂が建てられ、長い戦乱で荒廃した寺社は、桃山時代に再び復興されはじめます。法華寺本堂・鐘楼・南門は再建され、法隆寺の諸堂は修理されました。これらの復興事業は豊臣秀頼の援助で行われました。
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桃山時代から江戸時代にかけて、社会は安定し、社寺は宗教活動への専念が課せられ、保護されました。このような中で、全国的には徳川幕府や大名の援助で装飾性豊かな建築が建てられましたが、大和国は天領が多く、中世以来の宗教の地であったため、伝統色が強い建築が建てられています。長谷寺本堂、東大寺二月堂、東大寺金堂、興福寺南円堂、西大寺本堂などは代表的な建物で、中世以来の形態を引き継いでいます。
By やまと まほろば通信
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