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玉置浩二『あこがれ』九曲目「僕は泣いてる」です。
シンセサイザーのクレジットはなく、清水さんのピアノ(生ピアノとエレピ)、金子飛鳥Groupのストリングスによる伴奏となっています。
サビ以外ではおおむねエレピによるホワホワした伴奏が強め、その裏側にシン!と響く生ピアノが聴こえますね。その逆にサビでは生ピアノが強めでエレピが裏側に回っているように聴こえます(逆だったらすみません、わたくし耳が悪いんです)。そして金子飛鳥グループのストリングスが高音でこのピアノの位置交代を違和感なく結び付けているようです。
曲はゆったりと、穏やかに始まります。玉置さんの歌もひとこと一言途切れるかのように歌います。曲名でありかつ歌いだしの歌詞が「僕は」「泣いてる」と主語述語の二文節なんですが、玉置さんは一文節ずつ噛みしめるように歌います。そういう気持ちで歌ってもいるのでしょうけども、そもそも作曲の時点からこういう譜割なのでしょうから、須藤さんが曲想からインスピレーションを得てこのように仕組んだのです。偶然そうなったわけではないでしょう。ひとこと一言絞り出すかのように歌う、だから題名も一文を分けて歌うようにする、「〜て」「〜し」と連用つなぎで区切るようにする、という全体のイメージを統一させるというコンセプトを貫徹したのでしょう。歌・アレンジもそれに呼応するかのようにだんだんペースと音量を上げて、しくしく泣きから号泣まで盛り上がっていきます。ちょっとプロフェッショナルすぎて過程を想像するだけでも鳥肌モノです。
かつて松井さんが、自分の名前が見えなくなって、歌手本人がそう言っているんじゃないか、そう思っているんじゃないかというリアルな歌詞を書くという方針を示していた、ということを弊ブログで何度かご紹介したのですが(もちろん元ネタは毎度の『幸せになるために生まれてきたんだから』、そしてインタビュー記事等でも読むことができます)、須藤さんによるこの「僕は泣いてる」は、松井さんの方針を極限まで追究したかのような凄みがあります。安全地帯時代や、『All I Do』時代の玉置さんの歌は、どこか周囲に遠慮したかのような、バンドでの、ビッグソロプロジェクトでの、「みんなでやる」音楽、「みんなに届ける」音楽的なものだったと思えるのです。それはもちろん松井さんも意識されたでしょうから、「ひとりぼっちの虹」「時計」「Time」といったような、目立たない位置にあって、かつ少人数で録音されたような曲ではこうした玉置さんのパーソナルな感情的なものを前面に押し立てた歌詞をお書きになられていたのだと思います。松井さんは安全地帯チームのありとあらゆる機微をご存知の超重要メンバーですからそうした視点の使い分けすらなさっていたのですけども、須藤さんにははじめからそんなこと関係ありません。眼中にないんです。「安全地帯には興味がない」と言ってしまうひとですし、忖度というものがありません。ガンガンと玉置さんの超個人的な感情をこれでもか、えいこれでもかと演出します。えっここはチャンピオンベルト奪回のために盛り上がるというストーリーを演出するためにクリンチだろ、肩で息をして睨み合ってちょっとニヤッとして十四ラウンド終了のゴングが鳴るところだろ、とか、関係なくバシーンとアッパーカットをクリーンヒットさせドカドカとラッシュを決めてきます。わたくしすっかりグロッキー、ノックアウトです。十五回戦なのに第九ラウンドですでにテンカウント、タオルを投げる余裕もなくリングに沈みます。
ところで、その須藤さんの詞ですが、「強く 神を 信じ」に、最初ずいぶん驚いたものです。安全地帯や玉置さんの歌で、これまで神仏が登場したことがあったでしょうか。少なくともパッと思いだせる範囲ではなかったように思うのです。ピストルズの「God save the Queen」とかテンプターズの「神様お願い!」等の(どっちも古いなー)歌に登場する「神」やそれに対する信仰的なものは、なんというか、ちょっと甘え過ぎでないですかと思わせるような現世利益的なものだったり、まったく神なんて眼中にないぜ勝手にしやがれ的なアナーキーさを演出するようなものだったりしました(そもそも神は関係なくて「女王陛下バンザイ」ですかね、意味的には)。ところが、ここで登場する「神」は、U2ですかってくらい現世利益的なものでなく、突き放す対象でもなく、ただ敬虔に、ひたすらに信じるだけの対象となる神であるように思えるのです。
僕は泣いてる、というのは、人を愛し、その愛が報われないときに泣いているのでもあるのでしょう。だから現世利益的な意味でいえば神様あんた何の役にも立ってないでしょとか、いまは試練を与えてくださっているわけですねわたしの愛をお試しになられているけど、最後には報われるようにしてくれてるわけでしょ、よーしそれなら信仰しちゃうぞ的な意味かと一瞬思うのですが、どうもそうではありません。報われなくても、うっかり報われても、それはこの信仰とは関係ないんだという強い決意が感じられるのです。「この想い届けたい」ならば、ひざまずき祈っている場合ではありません。さっさと会いに行くか電話かけるか手紙書くかすればいいんです。でも、ひざまずき祈るのです。それは、話したり書いたりすることでは決して通じない想いであることを知っているからなのではないでしょうか。
「なし寄りのあり」「あり寄りのなし」というバカっぽいことばをご存知でしょうか。どっちかはっきりしろい!甘えるな!とオトナなら一蹴するでしょうし、それで正しいと思います(笑)。ですが、人間の心理的事実として、ありとなしの間にそういう段階があるのだとすれば、それを的確に表現したことばであるのかもしれません。使う側は配慮してほしいから甘えていっているだけでしょうから真に受けなくていいと思いますけども、モノのたとえとして、通常のことばでは表現しにくい、あるいはできない心理的状況というものがあるかも、ということなんです。この歌ではそれは深い愛なんですが、人類のもつ言語能力・もしくは非言語的表現能力の限界によって、どうしても相手にわかるように言葉に直して説明できず、こんなときひとは絶望します。そして、人を超えた力の存在を願うのです。それが神だということなんですね。
玉置さんほどの音楽家・歌手であれば、音楽で伝えきれない想いなんて存在するのって訝しく思いたくなるんですが、玉置さんでさえ伝えきれない想いというものがあるとすれば、それはもう、伝えられるとすれば神しかいないんじゃないかと思えてきます。「せつなくて せつなくて」「さみしくて さみしくて」と同じ言葉を繰り返すのは、そのもどかしさを表している、だから客観的に観察してわかる状態として僕は泣いてるというしかないんだと、ひとの抱える限界を表現したかのように思えてきます。まったくすごい歌であり、歌詞です。機動戦士ガンダムの世界ならニュータイプ同士で感じられるかもわかりませんが、あれだって認識能力が拡大しただけであって表現能力が拡大したってわけではなかったはずですから(うろ覚え)、ピキーン!僕は……泣いてる……?って伝わるだけです(笑)。
さて、余談になるかもですが、わたくしこの曲の「面影を追い掛け」と「ひざまずき祈って」の裏、生ピアノで「ズチャッチャッチャー!」というリズムを刻むところが好きで好きで、そこだけ切り取って百回くらいリピート再生したいくらいなのです。しかし、自分の曲にもこういうアレンジを使いまくった……かというと、実はそうでもないのです。似合わないんですよ、絶望的に。わたくしのピアノアレンジ力や演奏力がヘボいということはさておくとしても、このピアノアレンジはこういう極限の表現力を尽くした曲でなければ使えないんじゃないかというくらい、わたくしの曲程度にはとても似合いません。シルクハットにタキシードの紳士が屋台のおでん屋に入るくらい変です。旧ドイツ軍の将校が保育士やってるくらい違和感ありまくりです。そのくらい、玉置さん、須藤さん、星さん、清水さん、金子飛鳥Groupさんの凄まじさをこれでもかと痛感しまくって、もう神に祈って泣きたくなるくらいなのです。
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